『TENET テネット』 自由への逆行 (original) (raw)
クリストファー・ノーラン監督、ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ケネス・ブラナー、アーロン・テイラー=ジョンソン、ヒメーシュ・パテル、クレマンス・ポエジー、ディンパル・カパディア、マイケル・ケインほか主演の『TENET テネット』。
IMAXレーザー2D字幕版を鑑賞。
ウクライナのキエフ国立オペラ劇場で極秘任務に就いていたCIA工作員の主人公“名もなき男”(ジョン・デヴィッド・ワシントン)はロシア人たちに捕らえられるが、自決用だと思って飲んだカプセルは睡眠薬で、彼は「TENET」というキーワードとともに新たな作戦を任されることになる。「未来」の世界では通常の時間の流れとは逆に「過去」に向かって遡ることができる装置が発明されていた。“名もなき男”は世界の破滅を食い止めるため、未来から送られてきたという「時間を逆行して飛ぶ弾丸」の成分を分析した結果、向かったインドのムンバイで協力者のニール(ロバート・パティンソン)と出会う。そして鍵を握るロシア人の武器商人セイター(ケネス・ブラナー)の存在を知り、セイターの妻キャット(エリザベス・デビッキ)に接近する。
ネタバレがありますので、これからご覧になるかたは映画の鑑賞後にお読みください。または先にオチを知ってから“逆行”して観るのもよし(精一杯気の利いたことを言ったつもり)。
未来から“逆行”し過ぎて(逆行が足りなくて?)感想が遅れてしまいましたが、なんとか今月中に間に合った(;^_^A
今年は夏頃から前哨戦としてノーラン監督の過去作『ダークナイト』『ダンケルク』『インセプション』『インターステラー』が再上映されて、今回僕は『ダンケルク』を除く3本をIMAXで観たんですが、それぞれの上映前にこの『TENET テネット』の冒頭部分が流されていました。
作戦についての説明とか主人公の紹介、これまでのいきさつなど一切なくていきなりオペラ劇場でのテロのシーンが始まるので、てっきりこれは作品の途中の場面だと思っていたんだけど、『TENET テネット』の本上映を観たらそのまんま冒頭部分だったんでちょっと驚いた。
なんで主人公はこの任務にたずさわっているのかとか、何が起こったのかもよくわかんないままお話はどんどん先に進んでいってしまう。
すでに鑑賞済みのかたたちがSNSで「想像してた以上にわからない」と言っているので複雑で難解そうな映画だなぁ、とは思っていたんだけど、ほんと呆気にとられるぐらい初見の観客を置いてく映画でしたね。
予告でも流れていたように横転してクラッシュしていた車が逆再生のようにもとに戻る映像や、普通に動いている者と逆再生で動く者の格闘シーンなど映像的には見応えがある場面がいくつもあってIMAXだと迫力満点だから楽しめはしたんだけど、何しろストーリーがてんで頭に入ってこない。
科学的にどうこう以前に、何がどーなってそういう展開になるのかよくわかんなかったり、そもそも今主人公たちは何をしようとしてんのかさえもよく掴めないまま観続けてるから困惑しっぱなしだった。
観終わって軽く途方に暮れて、これまでのノーランの映画の中で僕が個人的にイマイチだと思った『インソムニア』と『プレステージ』以外のここ最近の公開作では一番ピンとこないというか、残念な作品だったとさえ思ったのでした。
ただ、最初から最低でも2回は観ようと思っていたから、別の日に今度は通常のサイズのスクリーンで再度鑑賞したところ、やっぱり細かいところはよくわかんないままなんだけど、1回目の時よりもはるかにストーリーは頭に入ってきて(わかんないとこは気にせずにw)、面白味を感じたんですよね。
確かに『インセプション』や『インターステラー』も初公開時に観た時よりも今回の方がより楽しめたので、クリストファー・ノーランの映画って繰り返し観れば観るほど楽しめる、というのはあるかもしれない。ちゃんと理解できたかどうかはともかく、どういう話だったのか、ざっくりしたところは(なんとなく)追えたので。
あとは理屈抜きで「画」の面白さに浸ればいい、ってことで。
たとえば、僕は1回目に観た時にはロバート・パティンソン演じるニールが最終的に果たす役割についてまったく理解できていなくて、だから彼が背負っていたオレンジの紐で結ばれたコインの下がったリュックサックの意味もわかっていなかったのが、さすがに2回目には「あぁ、そーゆーことだったんだ」と合点がいって、ようやくどういうことなのか飲み込めたのでした(宇多丸さんが「ニールは入り口がふさがれたはずの地下壕に逆行でどこから入ったのか」を問題にされてましたが。考え出すと頭がこんがらがりますねw)。
だいたい、普通に時間の流れ通りに“順行”で動く者たちと未来から“逆行”してきた者たちが敵を挟み撃ちにする「挟撃作戦」なるものがややこし過ぎる^_^;
考えるな、感じるんだ、の精神で臨め、と。
正直なところ、『インセプション』や『インターステラー』、あるいは『ダンケルク』で味わったようなエモーショナルな感動、というのは薄かったんだけど、でもなんかほんとに「手の込んだ奇妙な映画を観た」という感覚はあったから、見世物としてはたいしたものだと思いますよ。
悪役のセイターを演じるケネス・ブラナーがエリザベス・デビッキ演じる妻のキャットを殴る時にあげる「でぃえぇぇ~い!!」という雄叫びが唐突過ぎて笑えたり、エリザベス・デビッキは身長が191cmあるのでケネス・ブラナーや主演のジョン・デヴィッド・ワシントンや誰よりも背が高くて彼女だけ周囲と遠近感が狂ってるように見えたり、順行と逆行の動きをしている者たちが同時に画面に収まっている場合は(合成されている場合を除き)片方は俳優がわざわざ逆の順序で演技をしているので(主人公とニールが、キャットが寝かされた台を運ぶシーンで腕の振り方から彼らが通常とは逆の順序で演技しているのがわかる)、その身体の動きがぎこちなくてなんともいえない不思議な映像になってて、そちらも見どころ。
エリザベス・デビッキは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』で全身金色のおねえさんを演じてましたね。そして『ナイル殺人事件』の公開を12月に(※諸事情により延期)控えているケネス・ブラナー
撮影は和気あいあい
CGなどのVFXに極力頼らないのを売りにしているだけに、わざわざ手間隙かけてめんどくさいことをやってるのが贅沢といえば贅沢。映画ってイイ年した大人たちが真剣にアホっぽいことをやってるのが面白いわけだし。
逆にいうと、それ以外の意味は特にないんですよね、この映画には。もう潔いほどに中身はカラッポ。それでいいのだ、と。
実際に描かれているのはノーランが長年こだわっている007映画的なスパイ物だったり、あるいは今回だったら順行と逆行の兵士たちが入り乱れるクライマックスの場面がハリウッドの戦争アクションをノーラン流に実験映像っぽくやってみた、といった感じで、あえて他の誰もやらないような「ヘン」なことをビッグバジェットのアクション物でやる、その心意気を買いたいです(^o^)
ボンクラ映画と実験映画の融合。そのあたりは僕もそそられるんですよ。
この実験性というか、「映画」というモノを使って思いっきり遊んでやろうという無邪気さと、ジャンボジェット機をほんとに建物に突っ込ませるような無謀なところがもはやクリストファー・ノーランの個性になっている。普通の娯楽映画の枠を必ずはみ出してくる。
鑑賞後に、同じ回を観ていた2人組の若い男性たちが「よくこんなこと思いつくよなぁ」と感心するとも呆れるとも知れない感じで語り合ってましたが、やはり僕と同じように「でも、もう一回観てみたい」と言ってました。これは癖になる映画だよなぁw
宇多丸さんが指摘されていたように、これは“名もなき男”が本当の主人公(プロタゴニスト)になる、「アクション映画」をメタ的に表現した作品であって、アクション映画というものに自己言及してみせたアクション映画というわけで、それは“夢”の世界を描いた『インセプション』が「映画」についての映画でもあったのとよく似ている。
あれこれ難しそうな理屈をつけてるけど、ノーラン監督は根っからのショーマンなんだと思う。「見世物映画」の興行師なんだよな。
劇場で観る意味や意義という点でも意識的にやってることがわかるし、そこに信頼感を覚える。
まぁ、作るのに膨大なお金がかかってるんだけど観る方も金かかりますけどね、毎作IMAXで観なきゃいけないから。
パロディ 20ドルで作れるテネット(笑)
だけど、次回作も僕はIMAXに駆けつけてしまうことがもうわかっている。逆行してきましたから(^o^)
観てるうちに観客はだんだんニールが好きになってくる。ロバート・パティンソンはとてもおいしい役
“名もなき男”が口にする合言葉「黄昏に生きる」。それに返される「宵に友なし」。
ウォルト・ホイットマンの詩集「草の葉」からの引用。
僕の勝手な解釈では、これは「主人公」の孤独を表わしているんじゃないか。
黄昏とは夜になる手前のこと。そこで友もなく生きていくことの厳しさ。
いろいろ自分なりの“解釈”をするのが楽しい映画ですよね。
他の皆さんのレヴューとか考察を読んでみると、それぞれ微妙に作品の解釈が異なっていたりする。そここそが面白い。いろんな解釈が成り立つ物語って、ただ一方的に「正解」を与えられるだけのものよりもたくさんのものの見方を示してくれるからいいな、って思います。
ところで、ちまたでは「実はニールはキャットの息子のマックスが成長した人物」という“真相”がまことしやかに流布されていて、それが真実なのかどうかはわかりませんが、もしもそうだとしたら、“名もなき男”とニールはちょうど『ターミネーター』での未来の人類の指導者ジョン・コナーと、彼とともに反乱軍として戦うカイル・リースの関係を思わせる。
カイル・リースがそうだったようにニールの自己犠牲は英雄的だが、それはニール自身の意思によるものとはいえ、一方でその運命を未来の“名もなき男”に握られてもいるわけで、そこに疑問や腑に落ちなさを感じなくもない。
だって、“名もなき男”が、そして母親のキャットが命を懸けて守ろうとしたマックスがやがて“名もなき男”を守るために死んでしまうのなら、こんなに皮肉なことはないだろう。
“名もなき男”とニールの間には「美しき友情」が生まれたのかもしれないが、それは「映画」というフィクションだからこそ成り立つものなのかもしれない。
さて、これも僕の勝手な解釈ですが、宇多丸さんは評論の中でキャットがセイターのクルーザーから海に飛び込む女性の姿を見て「彼女の自由が羨ましかった」と語る場面のことを「伏線のための伏線」として、そのわざとらしさを笑っていたけれど、僕はキャットのあの「自由の希求」を「映画の中のキャラクター」の叫びのようなものとして捉えたんですよね。
「映画の登場人物」というのは映画の作り手の操り人形のようなもので、彼らには自由がない。シナリオに書かれた通りに動かされる。
だから、キャットが劇中で求めていた「自由」もまた、そういう映画自身へのメタ的な言及に僕には思えたのです。
この映画の主人公“名もなき男”は同時に未来から彼自身を組織に引き入れた“黒幕”でもあり、だからこれは探偵と犯人が同一人物だった、というオチでもある。
病気で余命が限られているため世界を巻き込んで自殺しようとしていたセイターもまた、かつては「主人公」だったのではないか。しかし、彼はやがて「悪役」となった。
アクション映画の「主人公」とは、自分以外のもののために命を懸けられる者のこと。
だから、拷問されても口を割らず最後まで秘密を守ろうとしたことで選ばれた“名もなき男”と同様に、彼を救うために自分の命を犠牲にしたニールにもまた「主人公」となる資格がある(演じているパティンソンは撮影が中断して公開が大幅に延期された『ザ・バットマン』で文字通り主人公を演じているのだが。新型コロナウイルス感染症の陽性だと報じられていたが、無事だろうか※追記:その後、2021年3月に撮影は無事終了した模様。『ザ・バットマン』は22年公開予定)。
かつて、スタルスク12で誰も請け負う者がいなかった核関連の危険な仕事をたった一人で引き受けた若かりし日のセイターも、その時点では「主人公」だった。
ニールの死もセイターが目論んだ「世界の終わり」も、それはもしかしたら「映画」という順行と逆行が永遠に繰り返される煉獄のような世界からの「自由」を求めての結果なのかもしれない。キャットが求めていたのと同様の。
「主人公」と「悪役」の差は、ほんのわずかなものなのかもしれないし、「映画」においては両者はほとんど同じような存在だと言っているのかもしれない。
…この映画のことをちゃんと理解できてるとはとても言えないので、ここに書いていることは「俺がそう思った」というだけでなんの確証もありませんが、一つハッキリしていることは、劇中で「過去」にすでに起こったことは変えることはできない、というルールが徹底されていること。
『インターステラー』でも、主人公は「過去」に戻ってもそこですでに起きたこと、映画の中で一度描かれたことは変更できなかった(亡くなった人たちを蘇らせることはできない)。
あの映画の中で、「過去は変えられないが、未来を変えることはできる」というような意味の台詞があって、それはノーラン監督の信念なんだろうと思ったんですよね。
奇しくも、今年亡くなられた大林宣彦監督も同様の言葉を残されています。
『TENET テネット』でも一度「起きたこと」は改変できない。
ニールが主人公を救うために敵の銃弾を受けて死ぬことは、もう「過去」に起こったことだから変えられない。
死んでいくことがわかっている者との別れは切ない。だけど、誰もがいつかは死ぬ。
それでも僕たちには「未来」がある。
セイターのように絶望に陥り自ら「未来」を絶つのか、それともやるべきことを見つけ出して「未来」に望みを託すのか。
人生を映画の主人公のように生きていくことは可能だろうか。
「未来」と「過去」から現在を挟み撃ちにする「挟撃作戦」とは、「未来」と「過去」から今の自分が見つめられる、ということでもあるのではないか。
「映画」自体が現在から「過去」を見つめる手段でもある。もうこの世にはいない人たちにも会える魔法の装置。
映画を観終わったあと、果たして自分が生きているこの世界が本物なのか、それともスクリーンでさっきまで観ていた「あちらの世界」こそが真実なのか、一瞬わからなくなるあの感覚を味わわせてくれる映画を撮り続けているクリストファー・ノーラン。
彼はエンターテインメント作品の中から、人生や「自分」というものについて真剣に問いかけてくる。
それがどこか微笑ましくもあり、愛おしくもあるのです。
おまけ
『チャップリンのテネット』(ウソ)(^o^)
※第93回アカデミー賞視覚効果賞受賞。
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