雨霞 あめがすみ (original) (raw)

「怪我だけはするなよ」

経緯を伝えると兄はそう言った。確かにその面の不安はある。工場には刃物の類が沢山ある。回転する機械が多い。その殆どに歯が付いている。巻き込まれることだってあるかも知れない。

一応はそれも考えないでもないが、そんな時、ふとあのトイレ男の姿が浮かぶのだ。注意の欠片もないようなだらしない感じ。あんな人で、と言っちゃ申し訳ないが、あれで務まっているのだ。

「保険も入らんで危ない仕事ができるのか」

兄は重ねて言った。確かにそうだ。怪我をしても見舞い金ひとつ出る雰囲気じゃない。事業所そのものがバイトのために保険に入るなど、ありそうもなかった。

「俺は気が進まんな」

予感が働くのか、決まって良かったと、兄は一言も言わなかった。

続きを読む

機械が稼働する音が聞こえて、仕事が始まったようだ。することもなく幸平はぼんやりと座って誰かが来るのを待った。狭いベニヤの小屋の中ですることもなく窓から外を眺めたりを繰り返した。ふと気が付けば、床の隅っこに黒く変色して湿気でたわんでいるところがあった。どこからか水でも洩れてきているのかと思ったが、そうでもないようだった。

なんだろうなと思いつつ、自分の家でもないのに気にしてもしょうがないと時計を見ると、仕事が始まって大方三十分にもなろうかというのに誰も来ない。そろそろ幸平だって小腹が空いてきた。腹が減るのはどうでも良いが、どうしたものかと思った。もしかして忘れているのじゃないだろうな。

続きを読む

男はすぐに両手をポケットに突っ込んでトイレから出てきた。やや内股で靴を引きずるように歩いて工場の鉄扉のなかに消えたが、手を洗った様子がなかった。そのトイレも、とっくにアンモニアで劣化したようなブロック造りで、汲み取りのようだった。

屋根を見上げると--(有)飯田木工所--と書かれてあった。木工など中学生時代の技術家庭科で習っただけだ。電子部品関係なら多少の経験はあるが、木工などはまったく未経験だった。それに工場の雰囲気から察する限り、どうもあまり気が進まなかった。あっさり断られるかも知れないが、いきなり採用と言われても、あまり働ける雰囲気になかったら逆に困るかも知れない。こういう場面ではいささか気の小さい幸平は、決めかねないまままた周囲を走ったりしつつ逡巡するのだった。グルグル何度も周囲を回ってまた正面に戻ってを繰り返した。

続きを読む

暢気な顔をして帰ってきた兄はしばらくは呆然としていたものの直ぐに連絡がつかなかった言い訳を始めた。どうせ嘘に決まっているが今はそれを言っていてもしょうがない。しかし兄には昔から不思議にこの性格があり、幸平がまだ幼い時分から一家の大事ともいう時に、何故かふっと居なくなる。これを単純に星と片付けて良いのか、自分の兄とはいえその気味の悪さを思うしかなかった。

今の一家の状態では葬儀らしい葬儀などできるはずもなく、三人で質素に葬ることになった。斎場で待つ間も、兄はもう何事もないかのように周辺をブラブラと歩いていた。母はすっかり萎れていて、そんな母の横に居て心配をするのは常に幸平だった。兄はやや年が離れているので幼い頃は本当に嫌な存在だった。いじめに近いようなことすらあった。しかし学校での成績は良く、両親も出来の悪い幸平と違って兄を大事にしていた。それがどうしてこんなことになるのか。控室で待つ間、ぼんやりとそんなことを考えるのだった。

続きを読む

その朝、兄は本来休日だったが臨時で出てもらえないかと頼まれていると言って出勤した。幸平はやや起きるのが遅かったので父も母もは既に朝食を済ませていた。母は庭に出ているようで、父はぼんやりとテレビを眺めていた。食事はもう済んだのかと声をかけたが聞こえないのか返事はなかった。

母が作ったみそ汁とその辺のもので勝手に食べていると、父がフラッと、まるで空気のように軽い感じで物音もせず縁側から出て行こうとしていた。いつものように買い物用のリュックを背負って靴を履いている最中だった。ふと気付いて「散歩か、気を付けて」と背中に向かって声をかけたが、返事もなくそのままノソノソと出て行った。

続きを読む

管轄の小さな職安は電車に乗って20分。田舎だから周辺の幾つかの町や村を統括しているところへ行かねばならない。そんな面倒なところに何度か通ったが、結局働けそうなところはなかった。ほとんどが清掃の仕事で、電気部品の組み立てや検査、コイル巻きの仕事など短期ではないでもなかったが、元々短期では話にならなかった。交通費は出ないのが当たり前だから電車通勤も効率が悪い。 雇う方も車での通勤を原則としている。残りはと言えば接客業、製パン工場の深夜勤務などが目についた。

慌てることはない、じっくり探すさ。幸平はそう言い聞かせた。いままでずっと会社の雰囲気と仕事のストレスに耐えてきたのだ。多少休んでも罰が当たることはない。あまり深刻になって心を締め付けても物事は好転しない。

続きを読む

三か月はあっという間に過ぎた。情報誌を頼りにあちこちに履歴書を送ってみたが全て無駄だった。そもそも情報誌には幸平が関わってきた専門分野の求人など端からなかった。条件を変えてダメ元で送ったところも幾つかあるが、履歴書の返送すらしない会社があった。そんな会社にもし雇われても果たしてどんな結果が待っているだろうか。

結局都内にいても仕事はないのだった。

この時点で両親に会社を辞めたことを伝えた。余計な心配をかけるのでなるべくなら黙っておきたがったが、こんな状態ではアパートを引き払うしかなくなったからだ。仕事がないなら経費を削減するしかない。

うんざりする距離を電車に乗って家を訪れ、父母に説明した。

「どうなるのん、大丈夫なん」

母は心配そうだったが、それなりに蓄えもあるし二人には年金もある。ここへ越してきたのだからここで働くのも悪くはない。探せば仕事くらいあるだろう、そう心配することはない--と言って安心させたが、父はどう受け止めているのか、ただぼんやりと聞いていた。

続きを読む