独楽を蹴る。 (original) (raw)

『憐れみの3章』(2024・アイルランド/イギリス/アメリカ)

監督 ヨルゴス・ランティモス

* 本作品にはレイプシーンが含まれています。

人間は何に支えられて生きているんだろう。何を奪われ、何が欠けたら、自制を失ってしまうのだろう。大半の人間は、規範意識をはじめとした社会性やもっと根源的には生理的な感覚に従って、ある程度の範囲内で社会生活のあれこれをやりくりしているけれど、それは非常に不安定なところに成立しているんじゃないか。その臨界点を超える発端が、その人の kindness=親切心にあったら笑っちゃうよね?……ということなのでしょうか。生理的嫌悪をもたらす描写、過度に暴力的な描写が延々と続いて、付き合いきれないというのが、正直な感想でした。いいショットもたくさんあったのでしょうが、それどころではなかった。ごめんなさい。お好きな方どうぞ…な作品かと思います。

3章立てなので各章ごとに扱っているテーマ、あるいは各章に共通するテーマがあると思うのですが、次々に押し寄せてくる即物的な不快さにとらわれているうちに次章に移るので、それぞれのシーンで咀嚼・消化できなかったものがどんどん胃の中に溜まり、思考も鈍麻して、最後まで主題らしきものを掴むことができませんでした。考えがまとまったら、後日、加筆修正します。悪しからず。

(劇中にレイプシーンが含まれているにも関わらず事前の周知が不十分だったため、鑑賞後に配給会社まで問い合わせを行いました。改善を望みます。)

擱筆

『きみの色』(2024・日本)

監督 山田尚子

思春期を扱うとき、特有の繊細な心の動きをとらえ一つの物語にするには、非常に慎重な態度が求められます。この作品には目立った起伏がありません。断片的と言える。しかし、それは決して悪いことではなく、むしろ私たちの日常とは、まさにそういうものではないでしょうか。これといったドラマは起こらぬゆえに永遠に思われる日常も、いつか迎える一旦の終わりに向かって進んでいる。とりわけ青春の一時期がそのようなものだと知っているならば、各挿話を流れる人生に二度と訪れないであろう時間は、どんなに尊く感じられるでしょう。大仰なドラマに仕立てない、説明を省いた作劇・演出は、アニメーションへの自信や観客への信頼の現れでもあるけれど、何よりも登場人物たちへの心配りではないでしょうか。監督はあるインタビューで「キャラクターが撮られたくないときにわざわざ正面に回って映さない」と話していたそうですが、本作からも彼らの尊厳を踏みにじらない強い意志が全編にわたって感じられました。また、山田監督が多用する「人物の足元を映すショット」は「気にかけているよ」「自分がしんどくても、ちゃんと見ているよ」という視点なのだと答えているインタビューも拝見しました。私はこの、あえて視線を外すところに、山田監督の深い優しさを感じるのです。「相手を慮ればこそ、視線を外す」、そこにあるのは創作における倫理的な態度でしょう。

あとは、これはもう言わずもがな、色彩の豊かさが抜群でした。まるでトツ子の共感覚に導かれたかのような色の世界に、自身の心の内側までも反射するような感覚をおぼえました。バンド活動が終始楽しそうなのもとてもよかった。いまこの瞬間にお互いが分かち合っている歓びをそのまま音楽にする姿は、それぞれのエピソードの間を埋めるようでもありました。また、演奏される楽曲は、音への原初的な感覚が音楽になったようで、アニメーションがもつ色への志向と堅く結びついているように見えました。

総じて、名作!と思います。また観たい。

擱筆

『赤い風船』(1956・フランス・カラー)

監督 アルベール・ラモリス

少年と赤い風船が友だちになる不思議でかわいい作品。台詞がほとんどありませんが、ショットの繋ぎだけで物語が十分に伝わります。それが心地いい。世の映画、これくらいの台詞量でいいなと思いました。それはさすがに言いすぎか。あとは、風船がけっこう大きいのがいい。周りの子どもたちと比べても小柄な主人公なので、主観ではさらに大きく感じるのかなと思いました。風船をいじめる場面は風刺っぽくも見えて、面白かったです。

『白い馬』(1953・フランス・モノクロ)

監督 アルベール・ラモリス

少年と駿馬の物語。馬のアクションには目を見張るものがありました。馬を追い回す場面、少年が馬に引きずられていく場面、馬同士が喧嘩する場面などは強烈に印象に残りました。映像が面白かった反面、白い馬が少年に心を許すショットにはわざとらしさを感じてしまいました。風船は無機物なので擬人化に面白味が生まれていましたが、馬は動物なのでどことなく嘘っぽく映ってしまうのです。二本立てでその違いを感じられたのは興味深くもありました。あと、現代っ子なので、どの程度動物倫理を踏まえて作られたか、気になってしまいました。(それに関してはごめんなさい)

擱筆

「サンリオ展 ニッポンのカワイイ文化60年史」

場所:岩手県立美術館

昨日は、いま話題のサンリオ展に行ってまいりました。平日15時過ぎの入場にもかかわらず、多くのお客さんで賑わっていて、土日祝日は相当な混雑が想像されました。サンリオ60年の歴史を振り返りながら「カワイイ」の秘密に迫る企画、大好きなサンリオの世界につま先から頭の先まで浸かった2時間半は至福のひとときとなりました。

当日は、自宅近くの図書館でサルトルの『壁』を読んでから観に行く気合の入りよう。というのもこの小説、サンリオ創業者で「いちごの王さま」としても知られる辻信太朗が若い頃に読んで非常に感銘を受けた一編なのだそう。その甲斐あってか、展示の魅力をいっそう感じられたように思います。

いちばん感じたのは、サンリオはただ「カワイイ」だけじゃないということ。むしろ、「カワイイ」には先の大戦への深い反省が色濃く残っているということです。『壁』を読み、展示されたいちご新聞の紙面を読んで、辻信太郎の脳裡には、今も第二次世界大戦の戦禍の記憶が焼き付いて離れないことがよくよく分かりました。だからこそ、国境を越えて人々をつなぐ、人々をやさしい気持ちにする「カワイイ」を追究し、拡げることに尽力しているのです。「みんななかよく」の理念から生み出される世界は、やなせたかしが雑誌『詩とメルヘン』(サンリオ出版)を言い表した言葉を借りるならば、「(荒れた)世に対するレジスタンス=抵抗」なのでしょう。本展の最終章が反戦への強い意志に割かれたのも必然でした。世界各地で目を覆いたくなる惨状が続いている今、世代を越えて「カワイイ」に胸をときめかせながら、「世界中がなかよく」を真剣に考える大切な時間になると思います。

こぎみゅん、あんまりいなかった!泣

擱筆

『はちどり』(2018・韓国)

監督 キム・ボラ

1994年の韓国ソウルを舞台に、14歳のウニの心の揺れ、家庭不和、社会の歪みなどを繊細に描いています。均整がとれた清潔なショットは画面から光がこぼれるようで、時折は恩寵にさえ思えました。ある予感のそばに美しい光が在る、そんな瞬間に立ち会うために映画を観ているような気がします。

思春期は、心に裂け目が入る季節と言えましょう。裂け目から暗い心の奥底を覗くこともあれば、外の光が裂け目に染み入ってきて刺すように傷むこともあると思います。裂け目がむき出しのまま社会に曝されるとき、子どもたちはどれほどの影響を受けるのでしょう。そんなことを考えました。

物思いに耽りながら煙草を喫う漢文の先生がじつにいい。団地の狭い部屋でもがき続けるお父さんも、どこか遠くを見つめるお母さんも、堰を切ったように泣き始めるお兄さんもよかったです。ウニが自分の家と間違って下の階の玄関扉を開けようとする最初の場面、団地全体を映した引きのショットは、彼らのような人々が社会にたくさんいることを端的に示していました。

擱筆

『刺青』(1966・日本)

監督 増村保造

原作は、谷崎潤一郎の同名小説。“ファム・ファタール”には時代を感じますが、十分に、いや十二分に面白かったです。陰影がくっきりして、鮮やかで、無駄を一切感じさせない撮影は、どのシーンも光が一つの目的に統御されていることが分かります。フレームの片側に人物を配置する演出も、映された人物の台詞にならない内面を想像させました。絢爛な美術・衣装も目を引き、全体に“リッチな作品”でした。

しかし、若尾文子がすごい。のっけからただものではない雰囲気で、正直、背中に女郎蜘蛛を彫られた後とのギャップはそんなに感じませんでした。彫られる前の彼女にすでにその萌芽が多分にあったような気がします。どちらかといえば、新助の目が据わったときの変わり様が強く印象に残りました。あとは、彫り師の存在感がいい。感情が掴めなくて、なんとなく死神のようにも見えました。案外台詞通りに行動するので拍子抜けではありますが……

新藤兼人の脚色がやや凡、寄り道がない分の見易さはあります。後半の展開・演出もけっこうベタで、凄惨ではあるけれど意外性はほとんどなかったです。過去に原作を読んでいるはずなのですが、全く記憶に残っておらず。いつかまた読んでみます。

擱筆

先日、奥州市文化会館Zホールにて「福井敬ふるさとコンサート」を観てまいりました。プログラムの中盤、郷土の詩人・作家の宮沢賢治が作った歌曲を地域の特設合唱団とともに歌う企画で披露された「花巻農学校精神歌」を聴いていて気がついたことがあるので、備忘のためにも記しておきます。

「花巻農学校精神歌」の歌詞は以下のとおりです。

(一)日ハ君臨シ カガヤキハ
白金ノアメ ソソギタリ
ワレラハ黒キ ツチニ俯シ
マコトノクサノ タネマケリ

(二)日ハ君臨シ 穹窿ニ
ミナギリワタス 青ビカリ
ヒカリノアセヲ 感ズレバ
気圏ノキハミ 隈モナシ

(三)日ハ君臨シ 玻璃ノマド
清澄ニシテ 寂カナリ
サアレマコトヲ 索メテハ
白亜ノ霧モ アビヌベシ

(四)日ハ君臨シ カガヤキノ
太陽系ハ マヒルナリ
ケハシキタビノ ナカニシテ
ワレラヒカリノ ミチヲフム

私は長い間、(四)結句「ワレラヒカリノ ミチヲフム」を(一)結句「マコトノクサノ タネマケリ」との対句と捉えて、(四)結句を「私たちの各々が(まことの草を蒔くように力を尽して)光の道を進むのだ」という強い意志の現れと考えていました。「ミチヲフム」に引っ張られて、力強く前進する感覚をおぼえていたのです。

でも、改めて聴いてみると、(四)結句はどうも(一)から(四)に共通する初句「日ハ君臨シ」にかかっているように思えました。かたちを変えずに繰り返される唯一の歌詞は、そっくりそのまま太陽(太陽系)の動きと軌を一にしています。それは、私たちの日々でもあるでしょう。まことの草の種を蒔こうが蒔くまいが、世のため人のために尽力しようがしまいが、私たちの日々には、常に「日ハ君臨シ」ているのです。そうであれば、私たちの前には「ヒカリノミチ」もまた伸びていることでしょう。私は、この大きさに賢治を感じずにはいられません。人間の意志など全く離れたところに、私たちは在るのです。

合唱という空から音が降ってくるようなかたちで聴いたからこその気づきだったようにも思います。賢治はこの詞を生徒たちの唱歌として書いたのですから、あるいは当然だったのかもしれません。

擱筆