anehako’s diary (original) (raw)
初冬
静かな朝であった。
気がつくと布団の縁に片足がはみ出ており、どうして体の芯まで冷えびえとしていたのかがようやくわかった。それは濡れたコートを仕方なく着せられて、知らない路地でだれかを待つような、心はいつも萎えいでいるような気分であった。夢の中で寝返りをうつほどに、とらえどころない寂しさのようなものがくるぶしの辺りから伝わってきていた。私は布団の中で何度も身震いをしていたようだった。
たしかに先ほどまで、火の気のない殺風景な部屋の片隅で、流刑人のように寒さに震えている私がいたはずだが、ここはいつもの寝起きするまぎれもない私の見慣れた部屋であった。実際に、布団の外に出たくるぶしの辺りが冷たく固まっていた。それで膝から下を動かすのにも少し難儀であった。するとこれはまんざら夢でもなかったのだと、意識がしだいにはっきりとしていくのを眺めていたら、窓の外の気配が昨夜よりもなんだかひっそりとしているように思えてきた。
数日前、関東の山沿いに初雪が降ったというニュースが、テレビの画面に流れていたのをぼんやりと思い出された。とうとう都心も、深夜にいつのまにか雪になったのかと、布団の中、冷たくなった片足をもう一方の血の通った足で器用にさすりながら思った。そのまま覚醒に至る一歩手前でじっと目をつぶっていたかったが、ありもしない純白の雪の景色が目にちらついて、思いきって窓に手を伸ばすと、濃き紫に静まりかえった窓のカーテンを少し開けて覗いてみた。
しかし、外は生垣の足もとのしな垂れた枯れ草の上へ、音もなく小雨が降っているだけであった。私は目を落とし、カーテンを開けたことを少し後悔した。それでも雪にはならなくてよかったと、鬱々とした空の中へ小さな灯がともるように、心が明るい顫動に動いたのが分かった。
しばらくすると身仕度をして外に出た。傘をもつ手に冬の冷たさは少しも感じられなかった。私は靴底の跳ね水に気をつけながらそろそろと歩いていた。外はやはり私のひと足ごとに、春先の霧のような湿気が、コートの裾を巻くように濡らしにくるだけであったが、低く垂れ込めた雲の底にはたしかに雪の匂いがしていた。
それでも死者は私たちの記憶の種に残っていく。いつかふたたび発芽し、蘇る日の来るのを待っているかのように、
五輪の塔
地下鉄駅の長い階段を上って地上に出ると、冷たい雨が低い空からひっきりなしに落ちていた。築地にあるがんセンターはその中でひっそりと佇んで、息をこらしているように見えた。正面玄関から入り階上の病室に入った。彼が横になっていたベッドにはもうその姿はなく、知らない老人が不機嫌そうにこちらを見つめているだけだった。私は仕方なく築地の病院を後にした。
嫌な予感がしていた。まもなく面識のない女性から、突然の電話が私にかかってきた。先日、兄が亡くなったという知らせだった。会ったこともない妹さんだった。末期癌で病院に居ても治療はなく、もはや手の施しようもなくなり、自らのたっての希望で兄は自宅に帰り、そこで死ぬ準備をしていたのだという。
彼の遺品の中から薄い手帳が出てきた。そこに私の名前と電話番号が書かれていたのだという。妹さんは、手帳に書かれていたその面識のない何人かの電話番号に、とりあえず兄の死を連絡したのだった。職場でもプライベートでも、彼は友だちも知り合いも少なかった。私は彼に妹さんがいたことも死んで初めて知った。
貴兄はおそらく友もなく、頑固で我儘だったが、どこか虐げられ続けた者の達観した優しさがあった。そして私とは妙に馬が合った。まだまだ死ぬ歳でもないのに、冬はストーブもつけず、人との付き合いもできるかぎり遠くに置いて、爪に火をともすようにしてやっと買った独り住まいのマンションの、狭いトイレの片隅で、先日、一人寂しく死んでしまったのだった。孤独の極みの行きつく果ての終着点だった。
それでも私たちの周囲には、相手に何かを絶え間なく喋り続ける事を、人づきあいの義務や礼義と感じている輩が多い中で、貴兄は極力相手の言葉を聞き、しかし関心のないものにはすぐに話題を打ち切ることができる人だった。話題の豊富さも、それがいったん過剰になれば、言葉を軽んずることにつながる危険をよくご存知だった。
人と話をする、その時、その相手の受け取る側の気持ちに気がつくことは本当に難しい。そこには性急な私という邪魔がいつも優先して、こちらに語りかける相手の真意を閉ざしてしまうことになりがちなものだ。彼が人を遠ざけるのは彼本来のものではなく、できるだけ余計なことはしないという生活の習慣からだったと思う。ましてやむやみに喋ることによって、他人と壁をつくる人ではさらさらなかった。
やっと探し当てた小雨降る東川口のお寺に、彼はまるで冗談のように眠っていた。からかっているんだろ?そう墓の中の彼に呟いたが、もちろん何も答えはなかった。瓜二つの妹さんとご一緒に、その雨に濡れたお墓へ駅前で買った菊の花を花立に供えながら、若い頃、山岳信仰の修験者もしたことのあったという彼が、生前、俺は死んでもまたすぐに生まれ変わるからなと真剣に私に言っていたのを、彼が自らの手で彫ったその真新しい墓の墓碑銘を見ながらふと思い出していた。
住職と選定の喧嘩をしながらも、生前に自分で選んで立てた墓石は乳白色の五輪の塔だった。周りを見ればそんなものは一つもないのだ。墓地の中の異様な墓は降り続く小雨をしっとりと吸い、人肌のように濡れて息をしていた。その薄墨に濡れた石肌を伝って、折からの雨粒が雨雲の光りを宿して芝台へと落ちていた。彼の五輪の卒塔婆がほんのりと白んで見えた。ふと、その仄白さは貴兄の魂そのものに違いないと思った。
墓前で読経の中、後ろに立つ妹さんのすすり泣きが聞こえてきたとき、私は彼のまなざしを中空に感じた。そして、よく来てくれたなと、その日、私の耳元で孤独な彼が初めて囁いてくれたような気がした。
酔言 69
昨日、受験申込みの締切日に、慌てて顔写真を撮ったり、振込み手続きをしたりと、職場近くの郵便局に駆け込んで、手書きの受験書類を書留で送った。11月の技術士(機械)試験。仕事上では受けることにメリットも必然性もあるのだが、熱力学以外は、やりたいこととほとんど繋がりはなかった。というか、他に勉強しなきゃならないことがたくさんある。
さて、病院保守のきりきりと脇の甘さを詰められて、失敗の許容の狭いこの仕事はやけに忙しく、人さまの返すがえすの屁理屈に消耗し、手続きをずっと迷ってはいたが、それも締切りの声を聞けば、思わず手とからだが勝手に動いて願書を提出してしまった。
私の場合、何事も、違うことを複数同時にやった方が飽きずに上手くいく。それは浅いかもしれないし、時間もかかるだけ大変だが、結果的には不思議にも、とんとんと私を先に運んでくれる。そして、その対象はお互いの関連性がなければないほどいいのだ。
しかし、試験勉強なるものはこれで最後にしたいものだ。そもそも試験なんてものはすべて他人の思考をなぞるものである。そんなことに本質的な難しさはない。やるかやらないかの世界。時間の無駄である。他人が真似をできないことの何かを生み出すことに比べれば天と地の差がある。ただ、これで学校の生徒たちとも仲間である。勉強に必死な彼らに、私のような煮え切らない者が、少しは心情的にも寄り添うことができるだろうか。
酔言 68
他人の評価なんて、するもされるもほんとに嫌なことである。できることならそんな手の込んだ賢しらごとには無頓着でいたいものだ。しかし、好むと好まざるに関わらず、それは生きながらの我々の身に染みた習慣でもあり、物心がついてから死んでしまうまで、日々のたつきの課せられたルーティンでもあるだろう。いやはや、たいへんなことである。
早い話がこれをやらないと円滑な社会生活ができないのだ。つき合う相手の得体も分からないままに、表情に隠された黒塗り部分を穿つこともせず、いったいどうやってこの波たつ世間の大海原に、誹謗中傷や悪意がはびこるこの現し世の花園に、嫉妬が渦巻く、面従腹背の社会の刺々しさに、我々は耐えていけるのだろうか。無意識でも、誰もが心の内でいつもやっていることではないのか。にっこり笑って人物査定、人品骨柄の品定め、人さまの値踏みというやつを。
日常生活や仕事でも、あるいは何かの作品でも、他人の評価は常に頭の中で働いている。いや、社会生活とは他人との混在を強いられるものだから、互いの評価こそが主戦場であり、知恵の叩き合いにもなる。我々はけして一人にはなれないのだ。味方か敵か、それが良人か悪人か、常に他人の品定めに忙しい。我々はそんな呪われた生き物とも言える。
この人信用できる人だろうか?ひょっとしたらこちらを騙しているのではないか?年齢は幾つで出身はどこだろう?知識や経験はどのくらいだろうか?どんな苦労をしてきたのだろう?他人の気持ちを分かってくれる優しさはあるだろうか?突然切れることはないだろうか?こちらが踏んではならない地雷を持っていないだろうか?金銭に汚いのじゃないか?嘘は言ってないか、自己中ではないか?他人とは違うなにかおもしろいところがあるか?私との共通点はなんだろうか? 幾らでも探索のセンサーを相手に伸ばして、評価の網を広げることに、躍起になっている。
もちろんそうした評価は当たることも、間違っていることもままあるだろう。しかし、我々は相手との関係性をどこかに確定しなければ不安でしようがないのだ。他人との間に、何か分かりやすい線引きをしなければ安心できないのである。ぼやけている他人の姿の交点をしっかりと結ばないと、自分の立ち位置が落ち着かないのだ。
敵か味方か、苦手か仲間か、それによって私たちは、相手に対する言葉も変わり、ますますお互いの距離を定めていく。善し悪しは別にして、その位置取りの過程で発達してきた日本語は、我々の共同社会を作りあげている礎でもある。いや、他人との関係を形成している我々の感受性の根っこの部分は、この日本語のもつ性質そのものなのである。
ラバーカップ
ラバーカップ、あの30センチほどの柄の先にお椀型のゴムの吸盤がついているやつだ、設備管理にはなくてはならないもの。それにしても誰がこんなシンプルで便利なものを発明したのだろうか。もしこの素朴な道具がなかったら、トイレ詰まりをどうやって僕らは直すのか、ちょと頭に浮かんでこない。それに、汚いトイレ掃除に使う道具としては、場違いな、それでいてなんともほくそ笑むような、恋人たちの笑い声が聞こえてくるような名称ではないか。
私は病棟から呼び出しを受け、トイレ詰まりを直しに行く時、いつも口の中で呪文のように唱えたものだ。ラブ・カップル、ラブ・カップル。すると現場に到着して、床の上まで溢れて広がる汚物の海や、便器のふちのすれすれまでに溜まって悪臭を放つ患者の排せつ物を見ても、それほど驚くこともなく、なんだかそうした目の前の汚濁を、真っ当な人間の営みとして優しい気持ちで眺められるようにさえなったものだ。
それに言葉とはなんとも不思議なものなんだ。汚いものを忌避する気持ちは自然なことだろう。でも何事も気持ちしだいさ、いや、言葉次第なのだ。からだに具わる我々の感受性というやつは、受け入れた感覚をそれぞれの身の丈にあうように、言葉の力の助けを借りて、辻褄をあわせて合理化しようとする。逆に、我々が先に言葉を吐くと、からだの方がその響きに合わせて共振しようと、肉体自身を変化させていくんだ。
今、病院の設備管理として6年近く、毎日、このラバーカップを使わない日はなかったと思う。嫌っー!という心の叫び、湧き上がる諸々の負の感覚の抵抗に打ち勝つには、便詰まりはいい修行になるんだ。入院ベッド数が千床近くある大きな精病院なので、便器を詰まらせるような患者はすぐにでも現れる。最初は、まるで獣と同じ臭いがする病室に入ることに勇気が必要だった。時々、排せつ物だけではなく、びっくりするような異物が便器の排水口から出てきた。紙おむつ、鉛筆、携帯電話、歯ブラシ、タオル、コップ、眼鏡、入れ歯・・。なんでもありだ。
もちろん中にはわざと詰まらせることで、我々や看護師を困らせるのが目的の悪意ある患者もいるが、大概は、すまなさそうにベッドの端に座って終始うつむいている患者の方が多かった。そんな時、私は大抵いたたまれないような、自分でもなぜかわからなかったが、こちらが申し訳ないような気持ちになったんだ。そして患者に直接話しかけることは禁止されてはいるが、敢えて言葉をかけるように努めた。大丈夫ですよ、なんともありませんからねー、もうちょっと待っていてくださいね。すぐ終わりますからね。でも、私のその言葉を患者が理解していたかどうかは分からない。
やはり、便器にトイレの紙を詰まらせることが一番多かった。紙は排せつ物とぐちゃぐちゃに混ざって、便器の中で溢れそうになっている。そんな時は、まず携帯した火ばさみで紙と固い大便をそうっと分ける。摘まんだ紙をビニール袋に入れて、一方では流れやすくするために火ばさみで中の便をほぐす。まるで汚物料理人のようだ。そうして便がほぐれたら、やっと我らのラバーカップを便器に突っ込んで、最初は静かに、そして少しずつ詰まり具合を見ながら上下に動かしていく。
ここで大事なことは、ラバーカップは押すだけではだめだということなんだ。逆に自分の手前へ柄を引き上げなきゃならない。便器の底に沈めた先端のカップを一息に引き抜き、排水口を負圧にして逆流を作るのである。引っかかっている詰まり物が配管の中に浮いて、こちら側に引き寄せられる。逆に押すとかえって異物は奥で引っかかってしまう。こうした簡単な動作だが、設備員の長年の知恵だろうと思うんだ。こんな小さな知恵の集積が、仕事をしていると設備管理にはいっぱいある事に驚くんだ。トイレ掃除をけして侮るなかれ。
しかし、ラバーカップでもっとも記憶に残っていることは、設備の先輩が何気なく言った次の言葉だった。人間の排泄したものだから汚いものじゃないんだよ!私はそれを聞いて目からうろこが落ちたんだ。そしてキャベツについた青虫を見たときに叫び声を上げた私に、それは農薬を使わない新鮮なキャベツなんだよと諭されたときを思い出した。私は排せつ物の海に、ラバーカップを持って駆けつける時、いつもこの言葉を思い出して、大きな深呼吸をひとつしてから、その修行場に行くようになった。
酔言 67
訓練校の新入生として、年4回、新たに新顔が入校してくる。その都度学校は、応募者に面接なるものを課してふるい分けをする。訓練生になるためには、一般教養テスト、さらには教師との個人面接を受けて合格しなければならない。大の大人が歳を経て、こんなことをまたしなきゃならないのには同情を禁じえないが、しかし、おそらく緊張とためらい、ひょっとしたらそれぞれの希望を、あるいは人によっては屈辱を感じながらも、たくさんの人が訓練校の選抜面接にやってきた。
希望者が募集人数の定員割れか、定員近くであれば問題はない。しかし今回のように、一クラスの募集定員が20名のところ、倍の40名もの申込みがあったときには選考が必要になる。教室も教材も足りないからだ。だからいつものように都職員の専任講師だけでは人手が足りない。従って、私のような会計年度任用講師もやむおえず引っ張り出された、というわけだ。
クラスにはそれぞれに担任講師がつくことになっている。生徒の生活指導、卒業後の就職相談にものるようなシステムになっている。親切なものだ。私は民間のサラリーマンだから出稼ぎ出張講師のようなもので、授業は受け持つが、そうした生徒との繋がりは授業以外にはほとんどなかった。
入校面接会に出てもらえば、姉歯先生にも授業と同じ時給が払われますというので、ずいぶんと楽そうだなと思い引き受けた。私の日常の動機など、すべてそんな単純で不純な理由の連鎖である。学校に行ってみると体育館に、一つが四畳半ほどの空間が、床の上のパーテーションで区分けられている。それぞれに机と、その机を挟んで三つのパイプ椅子が向かい合わせに置いてあるのが見えた。
それを横目に講師控え室に入ると、責任者らしき学校職員が、我々に面接手引き書と書いてあるパンフレットを渡して話し始めた。聞いている講師は私を含めて七、八人だった。この中に面接官を初めて経験される方はいらっしゃいますか?私は手を挙げて周りを見渡したが、私以外に誰もいなかった。演壇の担当職員は私の方を見つめて話し始めた。
面接には色々な方が来ます。中には落とされたことに納得がいかず学校に苦情の電話を掛けてくる人もいます。ですから、先生方の名前や身元が分かるものを身につけないでください。そして、できるだけ大事なお客様を相手にするよう対応してください。面接者の入校に直接関係のないプライベートな質問はしないでください。面接は時間が限られていますので、相手にあまり喋らせないようにしてください。この手引き書はあとで回収します。
私は幾らか緊張と好奇心を抱きながら、配られたパンフレット、手引き書の中の人物評価の一覧を見て驚いた。4、5ページに渡って評価項目がびっしりと書き込まれている。微に入り細に入り、面接に於ける質問項目と注意点が並んでいた。これはいったいなんであろうか?公共機関の面接とはこうも用意周到なものなのか?
入校する本人の目的がはっきりしているか?入校の動機はなにか?その目的と学校で勉強することに整合性はあるか?協調性はあるか?今まで働いてきた仕事と学校で学ぶ内容が関わりがあるか?以前の仕事を辞めた理由は?学校で学んだことを卒業したあとどのように活かしたいか?そのプランは本人が持っているか?学校に通う間、生活費は大丈夫か?通学に時間がかかる場合、入校しても続けられるか?持病はあるか?何かすでに取得した資格はあるか?・・。
見ただけで、私はすっかり憂鬱になってしまった。そんなこと大きなお世話だろう、目的なんて、知らないことを新しくやるのだからはっきり分かるわけがないだろう?やりながら輪郭がはっきりして行く場合がほとんどじゃないのか。入校の動機?失業保険を貰いながらしばらく生活したい、本人も学校も当然知っているのではないか? 資格? 今回もそうだが、設備関係の資格を履歴書に書いてあると不利になる。学校で学ぶ必要などないからと。しかし、そんなことを知ってわざと履歴書に書かない受験者はたくさんいるのだ。正直者は損をする。
私は、このマニュアルを見ながら、遥か40年前に、品川の訓練校に応募したことを思い出していた。木工科の生徒の募集だった。棚や机、椅子などを作る授業だったと思う。もちろん、やったこともないし、手先は器用だが興味がすごくあったわけでもない。募集のパンフレットを見ただけだ。車会社の期間工を渡り歩いていた頃、半年か一年の契約満了が来ると、しばらく失業保険を貰いながら生活することを繰り返していた時だった。
私は当然ながら、そのクラスの応募者が募集定員に満たないのにもかかわらず選考に落ちた。そして、あの時の面接官との会話を思い出していた。貴方は木工とかに興味ありますか?あると思いますが、正直、やってみないと分かりません。でも、きっと私の性格なら授業でやりながら起きてくると思います。では、貴方は卒業後、木工にたずさわる仕事に就きたいですか?いや、それもやってみなきゃ分かりません。木工のことはよく知らないんですから。貴方は学校で、他の生徒さんと仲良くやっていける自信がありますか? うーん、分かりません。一緒に勉強する生徒さんがまだどんな人か知りませんから。若い私は優しくうなづく面接官を見て、面接は上手くいったなと、その時思った。
私とベテランの面接官が座るブーツに応募者が次々と入ってきた。皆、緊張した様子だ。コロナかインフルエンザのワクチン摂取者が、しばらく待たされた後、ほっとして、しかし不安の表情のままブーツに入ってくるような感じだった。決裁書箱のようなうやうやしいケースから履歴書と応募者へ結果報告を送る封筒を取り出して机の上に置く。名前と住所を聞いて、目の前の本人が履歴書の写真と同一人物かどうかを確かめる。二人の講師が話を進めながら評価表に点数をつけていく。評価は各々が5段階に分かれている。そして、終了後、それぞれの項目の二人の平均点を出して、チェック項目全部の総合点を出すのだ。何という手の込んだことか。
名前と住所を答えると、応募者は例外なく喋り始めた。こちらが聞かないことも滔々と語る。ここに来るまであらかじめ聞かれることを予想して、頭の中で面接官との応答を一生懸命組み立ててきたことが私にも分かる。生きていくには、弱肉強食の世の中、厳しいのだ。隣りの講師は相変わらず気難しい顔をして話を聞いている。しかし、彼らの話が虚偽であろともそれがどうしたというんだ。人生、みな虚構ではないのか?私はその涙ぐましい姿に嘘であろうとも涙が出そうだった。私は評価チェックするのも忘れて、彼らのそれぞれの物語をうなずきながら聞いていた。