お寺では聞けない蓮如さんのお話 その13 (original) (raw)

吉崎御坊跡」の蓮如

真宗のお寺で法話を聞く機会が多々あります。宗祖「親鸞聖人」の話題を聞く事はありますが、中興の祖と呼ばれる『蓮如さん』のお話は、あまりされていないお坊さんも増えているのです。ですから、自分のように『蓮如の里吉崎』のお話をお聞きになりたいという僧侶の方がいらっしゃる事に、以前は戸惑いを感じていました。幼い頃から身近な昔話として聞かされていた事が、今お役に立てるということに嬉しさと恥ずかしさを感じることがあります。
蓮如さんの御文(お西では「御文章」)には、文末に「あなかしこ・あなかしこ」とほとんどに必ず使われているのですが、平凡な自分にも、正にこの様な気持ちにさせられている事が感じられる「観光ガイド」の一コマが多くあります。蓮如さんの逸話を語らせているだけなのですが、それにすごく感謝されて「お礼状」を頂くことも多々ありました。全く恐縮してしまいました。そしていつも「お恥ずかしい・・・あなかしこ」と口に出していました。
御文(御文章)第1帖第1通を読み返すたびに、この意味が浮かびあがり、『信用して頂く事のありがたさ』を感じ、自分の行動に責任を持つようになり、『信用と信頼』という意味を考えてしまいます。この御文には、親鸞聖人は「弟子一人も持たず」と仰せになったことが書かれているのを、忘れてしまった方々がいるというのは、本当に淋しいものだと感じてしまいます。それは、「仏法は聴聞にあり」といつも仰る方であっても、いつしか『信心』の大切さが相手に通じてはおらず、口だけの『信心』となってはいるのではないでしょうかということです。つまり、心がこもっていないという事です。そうでないと、相手に自分の心が伝わらないと思うからです。心を大切に考え、心から仏法を語る事は自分にはできませんが、ある人からお礼状を頂いた時、「蓮如さんの偉大さとありがたさ」を伝えられたのだと喜びました。うわべだけの知識ではなく、心から蓮如さんが好きだということが伝えられた喜びは、「五帖御文」最初の一通のなかと同じ気持ちになれたような気がしています。
「うれしさを むかしはそでに つつみけり、こよいは身にも あまりぬるかな」
この御文の最後の和歌に、蓮如さんの伝えられたいことが、すべて凝縮しているように感じられるのです。
人間同士の会話は、簡単そうで実はとても難しいと思います。国が違い使う言語が違う場合でも同じ日本人でも、心が通じ合うところが大切なのだと、蓮如さんから教えて頂いたような気がしています。

御文(お西では『御文章』)