振り返ればロバがいる (original) (raw)
(絵図)八千代座や活動日昇館が描かれている『山鹿温泉案内』山鹿町役場、1935年。
2024年(令和6年)8月、熊本県山鹿市を訪れました。「八千代座を訪れる」「八千代座資料館 夢小蔵を訪れる」「山鹿市を訪れる」からの続きです。
1. 映画館名簿
1.1 1930年の映画館名簿
1925年(大正14年)の『日本映画年鑑 大正13・4年度』には全国の映画館一覧である「全国映画館便覧」が、1930年(昭和5年)の『日本映画事業総覧 昭和5年版』には「全国映画館名録」が収録されており、すでに活動写真ではなく映画という呼称が定着していたことが分かります。
同じ頃の1927年(昭和2年)には世界初の本格的トーキー映画『ジャズ・シンガー』が、1931年(昭和6年)には日本初の本格的トーキー映画として『マダムと女房』が製作されています。
『日本映画事業総覧 昭和5年版』には熊本県の映画館として15館が掲載されており、鹿本郡山鹿町には朝日館がありました。朝日館は後に日昇館と呼ばれる映画館であり、この頃の山鹿町には芝居小屋の八千代座と映画館の朝日館があったことになります。
1.2 1968年の映画館名簿
戦後の山鹿市には1949年(昭和24年)に山鹿映劇が、1958年(昭和33年)頃には泉都映劇が開館します。映画黄金期の映画館名簿には主にこの3館が掲載されており、芝居小屋だった八千代座も含めて4館が掲載されている年度もあります。
『映画便覧 1968』を見ると3館の経営者はいずれも松延栄です。松延栄は玉名市の錦館を拠点としていた興行主であり、熊本県興行環境衛生同業組合副組合長、山鹿商工会議所会頭なども歴任しています。
1. 山鹿市の映画館
1.1 八千代座(1911年1月-1967年頃)
所在地 : 熊本県山鹿市九日町(1967年)
開館年 : 1911年1月
閉館年 : 1967年頃
Wikipedia : 八千代座
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「八千代館」。1966年・1967年の映画館名簿では「山鹿八千代座」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。基本的には映画館ではなく劇場。映画館の建物は重要文化財として現存。
(写真)八千代座。
(写真)八千代座。
2.2 山鹿映劇(1949年9月-1970年頃)
所在地 : 熊本県山鹿市九日町1601(1970年)
開館年 : 1949年9月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1949年9月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「江上映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「江上屋映劇」。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「山鹿映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「山鹿映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「熊本第一信用金庫山鹿支店」南東30mの「山鹿ビル」。
(写真)山鹿映劇の跡地にある山鹿ビル。
2.3 山鹿日昇館(1919年9月9日-1974年1月23日)
所在地 : 熊本県山鹿市上広町25(1973年)
開館年 : 1919年9月9日
閉館年 : 1974年1月23日
『全国映画館総覧 1955』によると1925年9月開館。1930年の映画館名簿では「朝日館」。1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「日昇館」。1963年の映画館名簿では「日昇東映」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「山鹿日昇館」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。山鹿東映とも。跡地は「原賀歯科医院」駐車場。
(写真)日昇館跡地にある駐車場。
(写真)日昇館跡地を含めた再開発で建てられた温泉プラザ山鹿。
2.4 泉都映劇(1958年頃-1977年頃)
所在地 : 熊本県山鹿市中町1619(1979年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1977年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「泉都映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「山鹿泉都映画劇場」。1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「山鹿映劇」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。
山鹿市の映画館について調べたことは「熊本県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(熊本県版)」にマッピングしています。
(写真)千代の園酒造。
2024年(令和6年)8月、熊本県山鹿市を訪れました。「八千代座を訪れる」「八千代座資料館 夢小蔵を訪れる」からの続きです。「山鹿市の映画館」に続きます。
1. 山鹿市を訪れる
1.1 豊前街道
山鹿市は豊前街道の宿場として栄えた町であり、現在も豊前街道沿いには趣のある町並みが残っています。
(写真)豊前街道。八千代座通りとも呼ばれる八千代座近く。
(写真)豊前街道。さくら湯の南側。
(絵図)八千代座や活動日昇館が描かれている『山鹿温泉案内』山鹿町役場、1935年。
1.2 千代の園酒造
豊前街道が菊池川に突き当たる部分には千代の園酒造があります。1896年(明治29年)に本田喜久八によって創業し、戦争末期の1944年(昭和19年)に企業整備令によって本田酒造場となると、1960年(昭和35年)に千代の園酒造株式会社に改組しています。
(写真)千代の園酒造。
八千代座の天井には「米穀商」や「清滝 醸造元」と書かれた本田喜久八商店の広告も描かれていました。千代の園酒造のすぐ近くには菊池川の船着き場があったようで、江戸時代には年貢米などが、近代には本田喜久八商店の清酒などがここから下流部に運ばれたようです。
(左)八千代座の天井。本田喜久八商店の看板。(右)千代の園酒造の陶器酒樽。
(写真)菊池川。
2. 山鹿市の近代建築
2.1 山鹿温泉さくら湯
山鹿温泉は山鹿市街地にある都市型の温泉街であり、共同湯としてさくら湯があります。
1872年(明治5年)に旧藩士の江上津直と井上甚十郎によって初代の建物が建てられ、山鹿温泉を象徴する施設となりました。1899年(明治32年)には道後温泉本館を建てた棟梁の坂本又八郎によって2代目の建物となり、唐破風の玄関が築かれています。
1973年(昭和48年)には老朽化によって2代目の建物が解体され、1975年(昭和50年)には再開発ビルの温泉プラザ山鹿内に同名の共同湯が設置されました。2010年代初頭には再び再開発事業が行われ、2012年(平成24年)に現在のさくら湯が営業を開始しました。建物は2代目の建物を模しており、「九州最大級の木造温泉施設」とされます。
(写真)2012年竣工のさくら湯。1899年竣工の2代目建物を復元。
2.2 山鹿灯籠民芸館(国登録)
山鹿市を象徴する和風建築は八千代座ですが、近代建築としては山鹿灯籠民芸館(旧安田銀行山鹿支店)があります。
1925年(大正14年)にRC造で安田銀行山鹿支店として建てられました。イオニア式オーダーなどを用いた重厚な銀行建築ではありますが、レンガ調タイルなどが用いられているのが大正時代を感じさせます。純和風建築の八千代座が竣工したのは1910年(明治43年)のことであり、わずか15年でこれだけ建築様式が変わったことに驚きます。
その後肥後銀行山鹿支店となって1973年(昭和48年)まで営業し、1987年(昭和62年)に山鹿市に譲渡されて山鹿灯籠民芸館が開館しました。2002年(平成14年)には登録有形文化財に登録されています。
(写真)山鹿灯籠民芸館。
2.3 旧徳永洋品店
千代の園酒造のすぐ北側にはしびんちゃ館(旧徳永洋品店)という看板建築があります。昭和初期とされていますが竣工年は不明。アールを描いた角部や存在感のあるパラペットが特徴です。
(写真)旧徳永洋品店。
(写真)八千代座の映写機。
2024年(令和6年)8月、熊本県山鹿市の八千代座資料館 夢小蔵を訪れました。「八千代座を訪れる」からの続きです。「山鹿市を訪れる」「山鹿市の映画館」に続きます。
1. 八千代座資料館 夢小蔵
1.1 資料館の展示
八千代座のはす向かいには夢小蔵という名称の資料館があります。夢小蔵には八千代座の沿革や全国の芝居小屋に関する資料が展示されています。
(写真)夢小蔵の2階。
(写真)全国の芝居小屋に関する展示。
(写真)八千代座の歴史に関する展示。
(写真)八千代座で行われた演劇公演などのチラシ。
(写真)八千代座の出資証。1株30円だった。
(左)杉板の下足札。(右)八千代座の和傘。
1.2 八千代座の映写機
夢小蔵で最も目立つ展示物は35ミリカーボン式映写機です。
八千代座は一般的に映画館ではなく芝居小屋として知られていますが、この映写機は「八千代座で昭和初期から40年頃まで使用されていたもの」であり、比較的早い時期に設置されたようです。なお、映画館名簿によると八千代座の映写機のブランドは、戦前の日本における2大映写機メーカーの一つであるローラー(ローラーコムパニー)でした。
2階桟敷席の中央を占める形で映写室が設置され、1台210kgの映写機がおそらく2台置かれていたため、映写室は劇場内でかなり存在感があったのではないでしょうか。「40年頃」(1965年頃)というのは八千代座の沿革が最も手薄になる時期であり、閉館状態になった時期だと思われます。映写室は1987年(昭和62年)の改修時に撤去されており、
(写真)カーボン式映写機。
(写真)カーボン式映写機。
(写真)カーボン式映写機。
(写真)八千代座。
2024年(令和6年)8月、熊本県山鹿市の芝居小屋「八千代座」を訪れました。「八千代座資料館 夢小蔵を訪れる」、「山鹿市を訪れる」、「山鹿市の映画館」に続きます。
1. 八千代座を訪れる
山鹿市は熊本県北部の内陸部にある自治体であり、江戸時代には豊前街道の宿場として栄えました。
明治時代に入ると1870年(明治3年)に山鹿温泉大改築、1896年(明治29年)に山鹿鉄道創立、1910年(明治43年)に八千代座建築が行われ、時期は離れているものの、この3事業が山鹿における「明治三大改革」とされています。
今日においては、さくら湯、八千代座、山鹿灯籠民芸館が山鹿市街地における3大観光スポットであり、これらが徒歩5分圏内に集まっていることで散策しやすい町でもあります。
(写真)八千代座の建物。
(写真)八千代座や活動日昇館が描かれている『山鹿温泉案内』山鹿町役場、1935年。
1.1 八千代座の館内
劇場内の平土間には桝席があり、桝席の両側には下手桟敷・上手桟敷があります。客席に匹敵する床面積を持つ舞台は廻り舞台を備え、舞台正面には老松が描かれています。天井には色鮮やかな商店広告が並び、純和風の芝居小屋ながら天井にはシャンデリアが吊られています。
八千代座の数日後には愛媛県喜多郡内子町の内子座を訪れました。八千代座の廻り舞台は直径8.45m、内子座の廻り舞台は直径8.2mと、廻り舞台の規模はほぼ同等なのですが、館内に入ると八千代座のほうが広い印象を抱きました。
(写真)枡席と舞台。
(写真)2階から見た劇場内。
八千代座は客席と舞台以外の部分が広いのも特徴です。客席手前の内木戸からは左右両側に通路が伸び、かつて右側には東売店がありました。客席と舞台の間からも左右両側に通路が伸びて便所がありました。
舞台両側の舞台袖には大道具室や小道具があり、舞台奥には複数の楽屋があります。これらの多くの場所が見学可能となっており、この時代の芝居小屋の構造を把握することができます。
(写真)廻り舞台。
1桝5席の桝席が9列あり、木組みで仕切られています。旧金毘羅大芝居の木組みは横方向が太いのですが、八千代座の木組みは縦方向が太く、観客は木組みの上を縦方向に移動することになります。統一された様式はないのでしょうか。八千代座、旧金毘羅大芝居、内子座、永楽館、康楽館、呉服座などの桝席の写真を見てみると、木組みの幅や密度などが異なっているのが分かります。
(左)花道とすっぽん。(右)桝席。
(写真)上手桟敷。
(写真)臨検席から見た桝席。
1.2 八千代座の歴史
八千代座の竣工は1910年(明治43年)12月であり、現存する芝居小屋では秋田県鹿角郡小坂町の康楽館と同年ですが、外観が純和風建築の八千代座と和洋折衷の康楽館ではかなり印象が異なります。江戸時代から宿場として栄えていた山鹿、鉱山町として明治時代以後に躍進した小坂という町の性格の違いが理由でしょうか。
なお、「現存する日本最古の芝居小屋」は天保6年(1835年)竣工の旧金毘羅大芝居(金丸座、香川県仲多度郡琴平町)であり、「移築されずに現存する日本最古の芝居小屋」は1901年(明治34年)竣工の永楽館(兵庫県豊岡市)です。
(左)8つの「チ」字と1つの「ヨ」字が入った提灯。(右)八千代の文字が入った釘隠し。
(写真)シャンデリア。
八千代座は長らく芝居小屋として演劇の興行を行っていましたが、戦後には2階の桟敷席に映写機が設置されて映画も上映されるようになり、映画黄金期の1960年代には『映画館名簿』にも掲載されています。演劇や映画の斜陽化とともに、1973年(昭和48年)をもって閉館となり、1980年代には建物の老朽化が進みました。
しかし、1980年代後半には市民の間で保存と活用の機運が高まったことで、1988年(昭和63年)には重要文化財に指定され、1989年(平成元年)には一般公開が始まりました。1996年(平成8年)から2001年(平成13年)には平成の大修理が行われ、約7億5000万円をかけて竣工当時の姿に復原されました。
(写真)舞台裏。
(写真)小道具置場。
(写真)楽屋。
いったんは閉館したが市民の間で機運が高まって保存・活用がなされているという点で、旧金毘羅大芝居、永楽館、八千代座、内子座の沿革には共通点があります。いずれも市街地の中心部にあり、現在は町の象徴として一般公開がなされています。
(写真)奈落。