きらら関連 (original) (raw)

きもすき、きもすぎ~!!(気さくな挨拶)

皆さん、『きもちわるいから君がすき』は読んでいますでしょうか。「きもすき」と略されるこの作品は、独特の表現とキャラクターの突飛な行動が人気を博しています。作者の西畑けい先生はおそらく、設定と筋書きの下に描写や表現の仕方を丁寧に考えているのだと思われ、実際に作中では一貫性をもって使われている表現や象徴的あるいは示唆的な描写、また伏線などが確認できます。

そういうこともあってこの作品のファンの中には考察をしている人たちがおり、私を含めて彼らは、真剣な分析から珍説まで日々様々な考察に興じているのですが、その中で登場した考察の一つに「きもすきカトリック説」(これは私が便宜上付けた仮称)があります。本記事では、この説について登場経緯および根拠を説明した後に、宗教性という視点の下できもすきを拡大的に解釈し、この作品から何が描き出されるのかを挑戦的に考察します。

※この記事は『きもちわるいから君がすき』29話(執筆時点最新話)までの内容に基づいて書かれており、かつその回までのネタバレを含みます。十分ご注意ください。

※筆者はカトリックについて、さらに言うと宗教について、詳しい人間というわけではありません。何か誤りや補足の必要な点等ございましたら、ご指摘いただけると幸いです。

確認されるキリスト教の要素

カトリック説の出処は、私の覚えている限りでは、きもすき22話の扉絵が「宗教画っぽい」と言われていたことです。

西畑けい『きもちわるいから君がすき 2巻』(芳文社, 2024) P109

たしかに、合わせた手や差す光、服、グラス、パンなどの要素について、(少なくとも素人目には)宗教画っぽいかも?という気がします。裸足なのもそんな感じがあります。(光が飾磨側から差しているのは、やはり意図的なのだろうか)

ただ、もちろんこれだけをもってキリスト教の要素があると断じることは難しいので、他に根拠をいくつか挙げます。

私に、この扉絵はどこか宗教画っぽいですよね、と伝えてこられたある考察勢の方は、きもすきは随所にクロスが入っている、というようなことをおっしゃっていました。マフラーのチェック柄や藁人形、また格子の影(29話でキャラクターの後ろに二度登場、白に黒十字のみの背景で、強調されて見える。狙ってのもの?)などを指摘されていたと思います。加えて、2巻P112において、立ち上がった御影の姿が十字に見える、ということもあります。なお、この描写についてその方はさらに、磔のメタファーである可能性に言及されていました。(磔、といっても、御影をキリストと解釈することは難しいので、単に刑罰という見方になるだろう)

また、きもすきでは光を用いた表現が多用されており、前に挙げた扉絵のような感じで光が差している描写が多い他、後光のような表現や、顔が照らされる(=救われる、と28話のシチュエーションでは読める)場面も複数あります。この点は、宗教的な要素としての解釈ができるでしょう。

28話では光の表現における「宗教っぽい印象」が特に顕著に描かれており、この回を読むと、芦屋にとって網干がまるでキリストのような性質を帯びて見えることが分かると思います。この回については、以前書いた記事に表現の話を載せていますので、詳しくはこちらをどうぞ。

azul-kirara.hatenablog.com

以上を念頭に置いた上で一つ、明確に宗教との関わりが示唆されることとして、作中で御影たちが通う淳芯学院のモデルとなった、と考えられている淳心学院高等学校(兵庫県姫路市)があります。この学校は私立中高一貫で、カトリック男子修道会である淳心会が母体となっており、ホームページでも宗教活動の紹介がされています。これまでに挙げたような「宗教/キリスト教っぽい」要素があった上では、これは根拠としてある程度信用に足るものと見なせるでしょう。

(年に一人二人いるかいないかではあるが東京大学への進学者も出しているようなので、迷惑でなければ話を聞いてみたいところ)

ここで、先に言及した考察勢の方は、御影に対する飾磨を聖母マリアとして捉えられるのではないか、と考察されていました。実際、カトリックではマリア崇敬が行われており、妥当性があります。御影は、家庭事情や母親関係の描写を見るに、飾磨に対して母性を見出している、あるいは求めているのだと私は考察していますが、ここに表れる「母性」は、聖母マリアとの繋がりを感じられるのではないでしょうか。また、御影と飾磨に限らず、28話における芦屋の幼児退行的行動を見るに、芦屋と網干の間でもそのような関わりを考えることはできます。

しかし問題もあり、聖母を持ち出すと、どうしても神/キリストという第三者を想定せざるを得なくなります。調べたところによると、カトリックが行っているのはあくまでも「崇敬」で、(この部分は詳しい方に質問したいところですが)聖母の尊さはキリストという存在に依拠すると私は読み取りました。するとここは解消の難しい点で、つまり、きもすきにカトリック側からの解釈を完全に当てはめることにおける課題があります。

ただ、依然としてカトリック的な解釈をきっちり当てはめることは困難であると考えますが、聖母等に限定しなければ、御影が飾磨に聖性を見出しているという考察は使えます。実際、先述した光の表現はそういったものの表れと考えられます。なので以降では議論の場を少し引き戻して、完全なカトリック性ではなく、より広く宗教性に着目して考察を進めます。つまり、御影・神戸・芦屋がそれぞれ飾磨・西宮・網干に善性、あるいは聖性、これを感じているとして解釈をしていきます。

追記:西宮・神戸がそれぞれダンテ『神曲』『新生』を読んでいる描写が存在

宗教と世俗の構図から見るきもすき

以下では、飾磨・西宮・網干を「光側」、御影・神戸・芦屋を「闇側」とします。この二集合間の対比関係は、ほぼほぼ明らかなところだと思います(例えば髪色を見ると、そんな感じの配色になっている)。ただし、「闇側と光側」の具体としては、「御影と飾磨」「神戸と西宮」「芦屋と網干」の三通りの組み合わせしか考えません。また、「闇側」「光側」と言ったときに、集合を指すこともあれば、その集合における任意の元一つを指すこともあります。

前の節で考えた宗教的要素の中で作品の根幹に関わるのはやはり、光の表現、およびそこから分かる、闇側が光側に感じている聖性ではないかと思います。これまでのきもすきで主に描かれているのは、闇側と光側の関係、闇側と光側それぞれ個人の内部心情、そして闇側内での互いの益をめぐった攻防の三点。宗教性、聖性は、初めに挙げた闇側と光側の関係、特に闇側から光側への矢印に言及するものです。

このとき、闇側は自身の世界の中で光側に聖性を見出し、光側は闇側の世界においてそのような役割を付与されます。しかし、光側当人からすると、自身にそのような性質を見出すことはできないでしょう。これは端的に言って、闇側と光側で世界観が大きく異なるからです。

闇側に宗教性を当てはめるのであれば、光側に当てはまるのは世俗性だと思います。実際、闇側の世界で光側が聖性を付与され他存在に対して優越する一方、光側の世界では闇側との関係は社会関係のハブの中に置かれています。つまり、光側の世界は実生活に根ざしたもので、そこでは闇側との関係が社会関係の一つとなり、世俗的になります。光側は闇側を自分の世界に置いて見ますから、闇側と光側では互いの関係の性質に対する見方が宗教性と世俗性で異なることになります。

ここでの二項間の違いが重要なので、この部分をより詳細に議論します。

光側は一般の規範や社会的関係の中にあり、飾磨の家庭での描写や規範意識、友人関係・コミュニケーションを意識してしまう西宮、大学卒業を機に結婚した網干というように、光側がもつ周囲・社会との関わりの中に、闇側との関係も置かれます。光側の世界で闇側に伸びる関係は、飾磨であれば恋愛、西宮であれば交友、網干であれば親愛だと考えられます。この関係は、光側の世界において、その中での優劣はあれど社会関係というレイヤーを出ていないはずです。

一方で闇側は、光側と出会い救われるまでは空虚な状態(「なんにもない」「全部退屈」)であり、それは物語の中で明確に語られています。このとき彼女たちは実な状態を維持するために光側を必要とし、その意味で依存していると言えます。自己の存立をただ一人に依存している、そしてそこから生じる必要故に価値観もそこに依存する、ということから、再び宗教性へと着地でき、光側の「聖性」が結局のところ必要と依存に由来するものだと分かります。そのとき、通常は周囲にある数多の事物および自らの内部に由来して構成される実状態が、外部では光側にのみ由来することになり、光側との必要と依存の関係は社会関係のハブに対して絶対的優位性、あるいは優位である必要性、を持ちます。つまり闇側の世界では、「聖性」を持つただ一人が、重要性の下がった社会関係というレイヤーを飛び出して、自己の構成に外部で唯一関わる上位レイヤーに置かれます。

この、二項間における関係のレイヤーの違いが、前述した世俗性と宗教性の根幹なのです。

さらに発展させた解釈

以上の考察を用いて説明したいのが、以前から考察されていた「破綻/ミスマッチ」です。この考察自体を解説し始めると長くなるのでその論拠は省きますが、これは「光側と闇側は互いに互いのことを理解できておらず、そのズレは関係の崩壊を招き得るほどに大きい」というもので、概ね妥当性があると考えています。

この「互いに互いのことを理解できていない」ことが、光側と闇側の世界観の違いで説明できます。

光側は、闇側を自身の世界に置き、闇側と自身の目指す社会関係を結ぼうとします。このとき光側は、闇側が自身と同じ世俗の世界観を共有しているものと考えており、それが実態に即さないことは明らかです。

対して闇側は、同様に光側を自身の世界に置いて見ていますが、一方で特に御影は、自身と飾磨では志向する相手との関わり方が異なると理解していることが分かります。しかしその御影を含め、闇側は自身の世界に置いた光側に「聖性」を求めており、自身の理想的な光側像を相手に押しつけていますが、これは必ずしも実態に即した像ではありません。特に、網干はその像からのズレが露呈してしまい、それを認識した芦屋は裏切られたように感じています。

このように、光側と闇側はどちらも、相手に対して正確な理解を伴わなずに関係の形成を志向している(していた)ことが言えます。

では、このズレを修正して、相互理解的な関係を築くことはできるのでしょうか。これについて私は、できる、と考えています。

そもそも今まで、「光側と闇側」「世俗と宗教」のように二元的に考えてきましたが、実際のところ二項間は連続的に繋がっているのだと思います。これは作中にも表れており、例えば飾磨は「闇堕ち」しかけていますし、中学時代の回などのいくつかの内容から、叱る、あるいは必要とされる、という点での依存もありそうです。また、神戸や芦屋が目指す関係性自体は恋愛ですし、芦屋は網干との関係とは別に教師としての矜持を持っていると思われます。

この連続性は、人がもつ価値観や世界観の流動性・変容性を示しており、それはまさしく「ズレ」の修正可能性を示唆するものです。外部の文脈を持ち出すのであれば、異なる価値観を持つ人同士での相互理解や協力関係に帰着させられるでしょう。

おわりに

本記事では、宗教性という観点を主軸としつつ、『きもちわるいから君がすき』におけるキャラクター間の関係について書きました。きもすきは私がきららどころか漫画の中で最も気に入っている作品なので、自分の考えたことはこのようにして文章に起こして、理解を深めていきたいと思っています。

作者である西畑けい先生の描く物語には驚かされるばかりで、その見事な手腕により一体何が表れるのか、非常にわくわくした気持ちで毎月読ませてもらっています。芦屋編に3巻をまるごと使いそうな勢いですから、3凸はほぼ確実でしょうし、伏線と思われる要素はまだまだ残っていますので、連載がさらに長続きするよう願っています。それでは最後もこの言葉で。

きもすき、きもすぎ~!!

※この記事は『きもちわるいから君がすき』28話(執筆時点最新話)までの内容に基づいて書かれており、かつその回までのネタバレを含みます。十分ご注意ください。

(追記:29話の掲載を受けて、展開予想をした部分に加筆しました)

きもすき、きもすぎ~!!(気さくな挨拶)

28話を読んでからというもの、この一か月、網干千恵について狂ってきました。というか、現在進行形で狂っています。そんなわけで、いったん自分の頭にあるものの一部を吐き出しておくべく、現時点までで描かれている網干千恵の描写を元に、彼女が持つ舞台装置としての役割について記述していきます。まずこの記事内で「舞台装置」というのが何を指すのか軽く説明してから、網干千恵について時系列順に見ていき、最後に作品全体を考慮した上での網干千恵の特徴について少しだけ述べます。なお、この記事中で用いる「役割」という語は、作者の意図等から切り離された、読者(私)側の機械論的な解釈についてのものです。

この舞台装置というのは、網干千恵と作品/作中のキャラクターとの関わりであり、特段非自明ではないものとして考えられる要素です。

ここで言う舞台装置というのは小道具などを指すのではなく、安易に表現してしまえば『魔法少女まどか☆マギカ』における舞台装置の魔女です。あの魔女が、暁美ほむらのループという「舞台」において機械的に来襲しフィナーレを与える、そういったことを「装置」として、私はこの記事内において例えようと思います。つまり、「舞台」、あるいは一つの世界、そこで何らかの役割を与えられ、強大な実行能力をもってして束縛的にその役割を遂行する、それを私は「装置」と呼び、世界という文脈も包含して「舞台装置」と呼称するわけです。

私はこの手の設定を好みがちで、正確に言うならば自分の好みを明確に言語化すべく持ち出したのがこの語です。ただ、例えば所謂「異世界モノ」における「異世界」という設定のような、物語全体を構築する根幹的設定に留まるものではなく、先に述べた舞台装置の魔女のように、少し局所的な範囲を全体としてこの語を当てはめる場合も多いので、そこに注意が必要です。

この舞台装置となるような設定は、しばしば、作品に迫力を与えます。それはその強力さによるものであり、まさしく劇的な物語を生み出す故のものです。具体例を挙げるのであれば、ややこしくなるので深くは言及しませんが、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』における戯曲スタァライトなどは、そういった側面があると言えるでしょう。ともすれば、きもすきが構図をパロディした、『呪術廻戦』における五条悟もそう見ることができるかもしれません。ちゃんと読んだことがないので断言はできませんが。

さて、網干千恵についてそういった捉え方ができることは、非常に簡明なことだと思います。網干は、役割を果たす対象である芦屋々々の半生の中で、それまで勝者あり続け他人が敗者でしかなかった彼女に初めての敗北を与え、絶望を与え、そして共に並び走る喜びを与え、その圧倒的な陸上の才と燦然と輝く善性をもってして魅了し続け、しかしついに彼女の元を離れ、彼女を狂気へと閉じ込めました。

圧倒的な陸上の才、燦然と輝く善性。この二つの強力な特性は、芦屋に、これまでのあなたは打ち倒され新しく生まれ変わるのだと、そう宣告するには必要十分なものであり、これらを同時に備えた存在は、芦屋過去編において強力に話を引き回す中心軸と化します。そして、網干が芦屋から離れた、あるいは、巣立ったとき、彼女は絶望の淵に沈み、太陽とも言える網干を失った暗い狂気をそのままに、その幻影を求め続けながら本編の時間へと繋がっていくわけです。こう見ると網干千恵は、芦屋々々に精神的変化を与えた上で心酔させる、狂気へと誘うための舞台装置であると、あるいは後の議論のためにより緩い言い方をすると、芦屋の精神ひいては人生に大きな変化をもたらす存在であると、捉えられます。(ちなみに、ここで取っている「輝く」「太陽」といった例えについては、実際に芦屋へ光が差すような描写があります)

網干千恵が舞台装置であること、これを、本編において芦屋が狂気を湛えた眼をすること(一部の考察勢は何故か"覚醒"と呼んでいます、かっこいいですね)の背景説明として作られたものである、と無機質に解釈するのも、メタとして自分は悪くないと思います。ただ、芦屋過去編を読んだときに、これが所謂「ご都合主義」的な話には(少なくとも私は)なかなか見えません。その点こそが、彼女の設定が舞台装置として成立する所以であり、これは強力な設定を用意しても読者が受け入れられるような構成で話が作られているということに等しいです。

まず、芦屋の狂気について、我々読者は既に知っている状態で、過去編を読みます。そうなると網干との鮮烈な関わりについて我々は、本編の芦屋を念頭に、結果へと向かうプロセスとして読むことになり、都合が良すぎるだとかそういうことを考えるのではなく、むしろ納得感を得ることができます。また我々は、魅了された当人である芦屋の視点から、網干が努力し成長し、そして芦屋を圧倒するようになる、その過程を確かに読んでおり、加えて、ニコニコと明るい笑顔および彼女の純真さを、描写の中からはっきりと認識でき、芦屋を追体験するような形となって、網干の強さが、芦屋が網干を好きになる理由が実感をもって分かるのです。

もう一つメタに関連した話をすると、先ほど述べたとおり過去編の視点は芦屋ですが、これは網干が舞台装置に思える大きな要因の一つと言えます。読者が持つ網干への印象は、当然、語り手である芦屋のものに引きずられるのですが、これにより読者も芦屋と同時に網干がもつ魔力じみた光に、間接的か直接的か、魅せられることになります。きもすきの現時点でのメインキャラクターである御影・飾磨・神戸・西宮・芦屋は、全員が今までに語り手となったことがありますが、強力な立場である網干が現時点で語り手となっていない、彼女の視点がまだ描かれていないことは、作品から直接与えられた彼女の印象が魅せられた側からのものしかないということで、これが舞台装置性を強調しているのでしょう。

ここまでは、芦屋が闇に囚われるまでの話をしてきました。ここからは、芦屋から網干が離れた後に、網干がどのような存在であったのかについて述べていきます。そして次に、今まさに芦屋と網干が再会した本編の時間軸において、今後網干はどういった役割を果たしていくのかについて考察します。これについて考えることは、きもすきが現在連載中の、未来ある、今を生きる作品であることを鑑みれば、当然行われて然るべきものですから、これを考察せずして総括は不可能でしょう。

網干が結婚してからも、芦屋はずっと彼女の幻影を追っていました。それはまさしく「幻影」であり、芦屋のしていることは不完全な代替品に昔の網干を重ねているだけです。これは過去の網干が未だに舞台装置として芦屋の狂気を支えているということですが、しかしその間の網干本人は直接的には舞台装置ではありませんでした。この間、過去の網干が本体と分離して芦屋に取り憑いているのをよそに、彼女本人は、少なくとも結婚後のいくらかの期間は、規範的な、平凡な幸せを謳歌していたと思われます。彼女はそれまで担っていた役割を離れ、芦屋と出会う以前に属していたであろう俗的世界へと、成長の上で舞い戻りました。それが学生時代との違いを一層強調させ、芦屋の過去への執着を強めていた可能性はありますが、そうだとしてもそれは間接的な関わりです。芦屋との交流が続いていたのかはまだ不明ですが、仮に断絶していなかったとしても、長い間会っていなかったことはいくつかの描写からしてほぼ確実でしょう。ただ、27話までの間、たしかに網干は休暇を与えられていましたが、しかしそれは引退ではなく、27話の最後、彼女はついに芦屋と再接触します。

網干との再会が芦屋にどのような影響を与えるのかはまだ分かりませんが、物語上の意味を考えれば、芦屋編において何らかの転機になるものと思われます。例えば、本物の網干を見たことで満足できなくなり西宮たちへの干渉を強めるだとか、逆に今の網干を見て過去との違いを再認識し、これまたその感情を西宮たちへ向けるだとか、さまざま考えることができます。一応、27話で再登場した網干が結婚指輪を着けていなかったことに着目して、網干がシングルマザーとなっていて、今度こそ自分から離れさせないために、芦屋がよりを戻し関わりを再度深めようとするのではないか、という予想をしていますが、はてさて、といったところです。(追記:指輪、全然関係なかったですね) これは2週間後になれば分かることなので、話はそのときまで置いておきますが、少なくとも言えることとして、網干は舞台装置として復帰し、再度物語に浮上してきたのです。それは「芦屋編の転機」となるであろうことの帰結であり、再び芦屋に、ともすれば人生規模の、大きな変化を与えることになると期待される故のことです。舞台装置によりもたらされるその変化により展開はどう動いていくのか、3巻範囲はまだ5話分あるはずなので、芦屋編にはもう一、二波乱ある可能性が高く、書いていて何だか興奮してきました。

最後に、他のキャラクターと比較しつつ、網干千恵の特徴について話します。

きもすきに登場しているキャラクター、ここでは御影・飾磨・神戸・西宮・芦屋・網干の六人を考えますが、彼女たちは(実際は濃淡や混合があり、さして二元的ではありませんが)光と闇で二つに分類できます。光側が飾磨・西宮・網干で、闇側が御影・神戸・芦屋です。御影と飾磨、神戸と西宮、芦屋と網干がペアであると見なせますね。光側の三人について、飾磨は若干闇堕ちしかけつつも今のところは正統な恋愛を志向する真人間で、西宮は純粋故に利用されたりまたしても何も知らなかったりする自称ソリストですが、網干はその善性をもって相手を圧倒し力強く正道を征く存在で、二人に比べて、しっかりとした芯と異様なほどの明るさがあります。

この芯の強さと相手を圧倒する力はむしろ闇側に共通するもので、光側でありながら闇側に通じる強さを兼ね備えていることが彼女の特徴であり、今回の主題である舞台装置性にも影響していると言えるでしょう、光側としてこれほど強力であることがその役割と関係していることは明白ですから。また、他の二人が闇側に与えた影響は、虚無的な状態から歪な愛情の発露へと精神を変化させたことですが、網干はなんと、ある種の虚であった芦屋を折れさせ、間髪入れずに良心的人間へと再構築し、しかしその上で精神を悪徳へと再変化させるという、三回の変化を既に与えています。この点は明らかに他の例と異なっており、現時点で芦屋と網干は特殊なペアだと言えます。(特殊、と言ってもサンプル数は3なのですが)

ただ、御影と飾磨、神戸と西宮には、まだまだ波乱が待っているはずです。特に前者は、二人のすれ違い、あるいはミスマッチ、これがおそらくは意図的に描かれており、また後者にもその気配は、まだ可能性の段階ですが、考察されています。どこまで踏み込むのかは分かりませんが、芦屋と網干の間に起こった大きな変化の数々、これらが今後の彼女たちにも降りかかってくるのかもしれません。きもすきがこれからどんな物語を描いていくのか、西畑けい先生の繰り出す急展開に振り回されながら、楽しんで読んでいきましょう。では、この言葉で締めようと思います。

きもすき、きもすぎ~!!