国鉄史上最強で巨大なエンジンを搭載した大出力機 DE50【3】 (original) (raw)

《前回からのつづき》

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1970年に製作されたDE50形1号機は、日立製作所で落成した後、稲沢第一機関区の配置とされ、選考量産機として各種の試験が行われました。また、冬季における性能を確かめるために、長野工場へ送られてここでも各種の試験に供されました。

通常、新たな技術を投じてつくられる車両は、試作車として製作された後に各種の性能試験などを行いますが、DE50形は車両番号が示すように、最初から1号機が製作されました。これは、大出力エンジンであるDMP82形が新たに開発され、国鉄ディーゼル機でも採用されたことがないハイドロダイナミックブレーキという新機軸が投入されているにもかかわらず、異例の措置だといえるでしょう。

DMP82形は実績と定評のあるDML61系を発展させたエンジンであり、基本設計はほぼ共通であったことが、試作車としてではなく先行量産車という形で制作されたと考えられます。また、国鉄はDE50形が試験運用で一定の成績を示すことができれば、すぐにでも量産する考えであったかも知れません。

稲沢第一機関区での試験も良好な成績で終えることができたDE50形は、実際に投入を想定されていた伯備線での試用のために、岡山機関区に配置転換されました。当時の伯備線は非電化で、しかも中国山地を越えて山陽と山陰を結ぶ比較的距離のある路線です。電化後は勾配線用のEF64形が投入されたように、勾配が連続する狭隘な路線なので、登坂時にはDMP82形が絞り出す高出力に任せて重量のある貨物列車を牽き、降坂時には速度を抑えるためにハイドロダイナミックブレーキを抑速ブレーキとして使うことが期待されていました。

実際に伯備線での運用は、同等の性能をもつDD51形と共通運用が組めるほどの高性能ディーゼル機で、ないも問題がなければ量産に移行するところまで漕ぎ着けたといえるでしょう。

しかし、時勢はDE50形にとって、その将来を断つことになってしまいました。

1973年にイスラエルとエジプト、シリアとの間で第四次中東戦争が勃発し、世界的に原油が逼迫する事態に陥りました。いわゆる「第一次オイルショック」が起こり、原油の供給が逼迫し、価格が高騰してしまったのです。そのため、燃料となる石油精製品のひとつである軽油の価格も上昇し、大排気量エンジンであるがゆえに燃料消費量が大きいDE50形を量産して運用に就かせることが難しい状況になってしまったのでした。

そのため、国鉄は高騰する軽油を使う非電化区間、特に幹線や亜幹線については電化を推し進め、可能な限り電車や電機への転換を図ることにしたのです。その結果、強力な1エンジン車であるDE50形は、先行量産車である1号機が作られただけで、量産前にはすでに活躍できる場が狭められ、ともすれば運用する線区もない状態になってしまったのでした。

加えて、本線用機として量産がされているDD51形に搭載したDML60系エンジンは、さらに改良が加えられたことで、出力1350PSを出すことができるDML61ZBが開発されました。これを2基搭載したDD51形の機関車出力は2700PSまで引き上げることが可能になり、最大出力が2000PSのDE50形でなくても信頼と実績のあるDD51形を使ったほうが合理的だと考えられるようになったからだといえます。また、基本設計は同じで部品も共通だとしても、機種が増えることは検修職員はDMP82形に関する知識と技術を習得する必要があり、結局のところコストが増えるとも考えられるでしょう。

こうした様々な外的内的要因から、大出力のDMP82形1基搭載した新型機であるDE50形を量産する理由は消えていき、先行量産機である1号機が製作されただけでその運命は潰えてしまったのでした。

その後、たった1両のDE50形は、岡山機関区配置のままDD51形と共通運用が組まれ、伯備線の貨物運用に充てられました。しかし、運用中に致命的な故障が起きてしまったことで、二度と走行できない状態になってしまいました。

走ることができなくなった機関車は、多くが廃車解体の運命を辿ることになりますが、DE50形は休車という処置がなされました。これは、1970年に製造されたことで、まだ廃車という措置をするには車齢が浅すぎたことが理由であるといえます。国鉄は独立採算制ではありましたが、その財務に関しては国の会計検査院の検査を受ける身であり、製造から耐用年数が過ぎていない車両をおいそれと廃車にしてしまうと、「無駄遣いである」という指摘を受けてしまうからです。

実際、DD54形は製造からさほど年数が経っていないにもかかわらず、設計上の不備から多数の故障車と事故車を出してしまいました。その修理は製造メーカである三菱重工の不備や、当時の国鉄をはじめ製造メーカの技術力が不足していたこともあって、相当な時間と費用が発生してしまい、結局、試作機である1号機と3号機は製造からたった8年で廃車、1978年まで全40両が廃車となり形式消滅してしまいました。最終増備は1971年だったので、もっとも短い車両ではたったの4年しか経っていないのにもかかわらず、廃車とされてしまったのです。

オイルショックの影響で、投入を想定された線区は電化されることになり、本線用ディーゼル機はDD51形で事足りると考えられるようになったことで、DE50形は1号機が作られただけで量産に移ることなく開発が打ち切られた。その後、伯備線の貨物運用に充てられていたが、致命的な故障を起こして走行不能になった。しかし、耐用年数を大幅に残していたため、廃車にすることもできず長期間留置されたままになった。1986年になってようやく廃車の手続がとられたものの、その後も解体処分されることなく保管され続けた。そのことが奏功し、2024年現在はきれいに塗装されて、津山まなびの鉄道館に静態保存され、国鉄ディーゼル機開発の歴史を語り継いでいる。俯瞰してみると、1位側のボンネットはエンジンの分だけ長く、2位側には大きなラジエターと冷却ファンが見える。(©津山市立図書館 Public Library of Tsuyama, CC BY 2.0, 出典:ウィキメディア・コモンズ)

このことは、機関車の耐用年数である18年を大幅に下回るもので、国会でも問題にされたほどでした。当然、会計検査院も黙っているわけがなく、不適切なものであるという指摘をされてしまうほどでした。

こうした経験から、DE50形はそのまま廃車にはせず、休車という扱いにしたのだと考えられます。休車であれば、「いつか修理して使います」という言い訳もたち、問題化することも避けられたのではないかと推測できるのです。

しかし、実際にDE50形は修理など受けることなく、そのまま長期間、岡山機関区に留置されたままでした。

DE50形が廃車の手続がとられたのは、製造から16年が経った1986年になってでした。耐用年数である18年を満たしていませんでしたが、この年は国鉄分割民営化を控えていたため、新会社に継承させない余剰車両を廃車にすることが可能になったからです。

当然、1形式1両、しかも走行不能という致命的な故障をしたままのDE50形を、新会社に継承させることは考えられていませんでした。こうしたことから、ようやくDE50形は廃車となり、車籍を抹消することができたのです。

しかし、車両そのものは解体されることはありませんでした。岡山機関区に留置されたままでしたが、岡山機関区が貨物会社に継承させることになったことから、西日本会社が継承する岡山気動車区へ移動させ、そのまま解体されることなく留置が続いたのです。

このことが、DE50形が後に幸運を手にすることにつながったのです。

長期間、活用もされることなく留置したままでしたが、2011年にJR西日本が開館させた津山まなび野鉄道館に移動させ、ここで保存展示することになったのです。長期間雨ざらしのままで、車体の至る所が痛んでいましたが、保存展示にあわせて補修と再塗装が施され、実に31年ぶりにきれいな姿に蘇りました。そして、旧津山機関区の扇形庫に収容されたDE50形1号機は、今日もその圧倒的な巨体を今に伝えているのです。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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