大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌(2)・・・巻第5-855~857 (original) (raw)

訓読 >>>

855
松浦川(まつらがは)川の瀬(せ)光り鮎(あゆ)釣ると立たせる妹(いも)が裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ

856
松浦(まつら)なる玉島川(たましまがは)に鮎(あゆ)釣ると立たせる子らが家路(いへぢ)知らずも

857
遠つ人松浦(まつら)の川に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)が手本(たもと)を我(われ)こそまかめ

要旨 >>>

〈855〉松浦川の川の瀬は光り輝き、鮎を釣るために立っているあなたの着物の裾は水に濡れています。

〈856〉松浦の玉島川で鮎を釣ろうとに立っているあなたたちの家へ行く道がわからない。

〈857〉松浦の川で若鮎を釣るあなたの腕を枕に寝るのは、私の願いです。

鑑賞 >>>

「蓬客(ほうかく)等の更に贈りし歌3首」。実作者は、旅人から854までの歌を披露された某大宰府官人らしいとされます。855の「瀬」は、水の流れの浅い所。「立たせ」は「立つ」の敬語。856の「松浦なる」は、松浦にある。857の「遠つ人」は「松浦」の枕詞。「手本」は、腕の肘から肩までの部分。「まかめ」の「め」は意志で、枕にして寝よう。

旅人らが、このような神仙の女たちとの恋愛譚ともいうべき創作をなしたのは、もともと旅人が神仙に対する憧れを抱いていたことも影響しているでしょうが、当時、「柘枝伝(つみのえでん)」という神仙の伝説があったことが知られ(巻第3-385~387)、また「浦島伝説」などが当時の貴族社会で流行り、人気があったことも背景にあるようです。

筑紫歌壇

大伴旅人大宰帥として筑紫に赴任していたのは、神亀5年(728年)春から天平2年(730年)12月までのおよそ3年間ですが、その間、小野老、山上憶良、沙弥満誓、大伴四綱、大伴坂上郎女など、錚々たる 万葉歌人も、当時の筑紫に都から赴任していました。大宰帥大伴旅人邸には、これらの歌人が集い、あたかも中央の文壇がこぞって筑紫に移動したような、華やかなサロンを形成していたようです。

といっても、具体的な組織があったとか、各人に強い結びつきがあったとかではなく、たまたま同じ時期に大宰府に居合わせた者同士が、宴会で歌を披露したり書簡で歌のやり取りをしたりしていただけのことです。しかし、この集団は、筑紫という辺境の地において、都とは異なる独自の作歌活動を展開しました。その活動がとても特徴的だったために、「筑紫歌壇」と称されています。その特徴を一言で言うと、漢詩文と和歌の融合ということができます。