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西郷従道―維新革命を追求した最強の「弟」 (中公新書)

兄との「一定の了解」

明治維新の大功労者ながら「逆臣」として城山の露と消えた西郷隆盛の弟でありつつも、明治政府内で何度も首相候補に擬せられ、元老として遇されるに至った西郷従道の生涯を追った本です。

維新初期に洋行の機会を得た従道は、兄との一定の了解の下で政府に残り、奇しくも西南戦争における政府側の兵站を担うことになります。兄の死を知った際の描写は気の毒でなりませんでしたが、その後は海相、農商務相、内相などとして、宮中と軍、薩摩閥と長州閥、そして政府と議会をも取り持っていこうとします。

「賊将の弟」だから首相を固辞したのか

最後の例として興味深かったものに、腹心とも言える部下・品川弥二郎*1と組んで吏党の組織化や伸長に取り組んだ「国民協会」があります。従道は伊藤博文立憲政友会を立ち上げるより前に、帝国議会に与党を作ろうとこの協会のトップに立ちます。しかし海軍改革が急を要する折、伊藤ら藩閥首脳とのパイプに加え、海軍への影響力をも併せ持つ従道に海相再登板*2の白羽の矢が立ち、運動に批判的だった明治天皇の「維新の元勲の兄弟が共に罪に陥ることがあってほしくない」との「思召」を受けて政府に戻ることになったのです。

この出来事からは、天皇への忠誠を人一倍重んじる信念が垣間見えるとともに、(他のエピソードにも見えるように)その信念を上回る政治手法や個別政策へのこだわりがあるわけではなかったようにも見えます。また、彼のいとこで同じく元老に列した大山巌は「茫洋たる風格」などと評されましたが、本人の内心はともかく「細かいことにはこだわらない(部下に任せる)」姿勢を示すところは従道にも共通していたようです。

「何度も首相候補に挙げられたが、賊将の弟であるとして固辞し続けた」。しばしば見る従道評で須賀、この本を読むときっとそれだけではなかったのだろうと思わされます。諧謔に富み、大酒を飲んで三味線を弾くような会話で人を楽しませることを通じて、人と人を繋ぎ、後進を育てた。そのことによって天皇に尽くし、兄が興した維新革命の大業を追求していったのでしょう。

「元老の中の元老」

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多極的な明治憲法体制と、非公式にその統合の重要な部分を担っていた元老ーこれが近代史における私の問題意識(切り口)の一つです。その中で従道が、地味ながらキャラの濃い初期の元老たちを陰でつないで支える役割を果たしたのだとすると、彼こそが「明治日本の元老の中の元老」だと言えるのかもしれません。

2030年の広告ビジネス デジタル化の次に来るビジネスモデルの大転換

2023年時点で、30年の広告ビジネスを展望する本です。著者が通じる広告代理店業界目線の話が多めではありましたが、興味深い目線がいくつも得られました。例えば、

…といったところでしょうか。特に最後の2つはサブスクビジネスなどにも大きな示唆を与えてくれそうです。

新聞社のデジタルビジネスにおいても、サブスク収益と広告収益などを高い次元でバランスさせることが課題だとの認識が広がっています。広告ビジネス側の未来についても、常に目を凝らし続けたいです。

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日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語 (ブルーバックス 2000)

日本アルプスはプレート沈み込みの「皺」

現在の日本列島の地形に大きな影響を与えたとされる、ここ100万年の地形発達史をまとめた本です。日本列島全体の成り立ちから、各地域の特徴的な地形が形成された経緯までを紹介しています。

例えば▽日本アルプスはプレートがやや斜めに沈み込んでいることによる「皺」である*1▽かつて富士山が山体崩壊して土砂が足柄平野を埋めた▽琵琶湖は最初は伊賀上野あたりにあった▽近世のたたら製鉄が山陰地方の平野を広げた▽錦江湾は南北に連なるカルデラ群であり、7300年前の鬼界カルデラ噴火はそれまでの南九州の縄文文化を一瞬にして消滅させた-といった興味深い内容が目白押しになっています。

「大陸の端にある」意味

それらの事例を学ぶ中でやはり押さえておくべきは、日本列島が大陸の縁、すなわちプレート同士が交わる位置にあるということでしょう。火山が連なる「火山フロント」は、(水を含む)海洋プレートが地下100キロまで沈み込んだラインに形成されるそうです。また、先ほどの「皺」としての日本アルプスや、対照的にプレート同士が平行に近く沈み込んでいるために南北に山脈(火山フロント)が連なる東北地方も、プレート境界ならではの地形と言えます。先月の日向灘地震で注目された南海トラフ*2も、もちろんそうです。

日本がユーラシア大陸の(日本海を挟んだ)東端にあることについて、これまでは政治や文化など人間の営みと関連づけて考えることが多かったので須賀、地球科学の観点でも非常に大きな意味を持つことを実感させられました。

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脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線

脳に電極をブッ刺さなくても

生物(人間)の脳と人工知能を連携させることで、可能になる未来や課題について論じた本です。書名からは「頭蓋骨に穴を開けて脳に電極をブッ刺す!」みたいなSF的世界が思い浮かびそうで須賀、(確かにイーロン・マスクはそれをやろうとしているものの)そうでない連携方法も多く紹介されています*1。機材を装着することで脳の活動部位を測定し、精神疾患を抱えている人との類似性から病気の診断を行う・・・といったものも含まれます。

また、今後の展望として、脳内の情報をよりよく読み取ったり、脳に届いた情報を補強*2したり、あるいは言語やジェスチャーなどを使わず脳と脳とを直接連携させたり*3、さらには脳に何らかの情報をインプットするとか、ある人間の脳をコンピューターで再現する(いわゆる「電脳化」)ようなことまでが挙げられています。その上で著者が強調するのが、もちろん侵襲的方法の方が効果が上がりやすいものの、そのリスクに値するメリットがないと広まっていかないだろう、ということです。

まだまだ未知の領域が多く、その力をフル活用できていないともされる脳と、「第三次ブーム」下で日進月歩の発展著しい人工知能の連携。期待は大きいで須賀、個々人としてもトレードオフは慎重に見極める必要は当然あるでしょう。

内心の自由をどう守るか

一方で、社会としてさらに深く考えるべきは、他人の考えていることを外から覗き見て、その脳に何らかの概念なりをインプットしうる技術をどのような規制の下で活用していくのか、ということでしょう。

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前者はフィクションですが、後者はそうではありません。「脳と人工知能をつなぐ」技術が、国家権力によるこうした所業に悪用される可能性は、現実的に想定する必要があるでしょう。そんなディストピアを招かないために今からできることはなんなのか、考え込んでしまいました。

こちらも一緒に読みました

この機会に、以下の本も読んでみました。どれも平易でよいと思いました。特に人工知能は、自動運転を筆頭とする活用法や技術・社会的課題についてもバランスよく触れられていました。

東京大学の先生伝授 文系のためのめっちゃやさしい 人工知能

東京大学の先生伝授 文系のためのめっちゃやさしい 脳

東京大学の先生伝授 文系のためのめっちゃやさしい 睡眠

東京大学の先生伝授 文系のためのめっちゃやさしい 統計

統計でウソをつく法 (ブルーバックス)

どちらも専門的な知識や計算に立ち入らずに学べる本です。

前者は本当に基礎のところをわかりやすく解説しています。最初の一冊にはおすすめできそうです。

後者はグラフや統計(のまがいのもの)が孕みうるウソをどう見破るか、洒脱な筆致で論じた本です。半世紀以上前のアメリカの本なので、分かりにくい事例がやや多かったですけれども、以下のくだりは非常に印象的でした。

統計というものは、その基礎は数学的なものであるが、科学であると同時に多分に技術でもあるというのが、本当のところである。ある範囲内でなら、非常に多くのごまかし、あるいは歪曲化でさえ可能なのである。

暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

「人は退屈とどう向き合うべきか」との問いを切り口に、多くの哲学者の考えてきたことや経済史の知見を追いながら、著者と一緒に思索の旅をする一冊です。話題になった本なので、読んでいなくてもタイトルは聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。

著者も言うように、通読することに楽しみや意味がある本だとは思いま須賀、結論に近い部分だけをかいつまんで言うと、ハイデガー決断主義的な退屈論の枠組みを批判的に用いつつ「退屈だからといって決断(すること/した内容)の奴隷になるのではなく、うまく気晴らしを楽しめたり、外部のいろんな刺激を受け止められるようになりましょうね」という趣旨のことを述べています。さらにはそうなれば、退屈どころか「人間らしい生を生きることを許されていない人たち」を含む「他人に関わる事柄を思考することができるようになる」だろうとも言い添えています。後段を強めに変換してしまうと「世の中には退屈している場合ではないほどたくさんの理不尽があるので、日々の生活の中で感受性や思索を磨きましょう」ということになると思いますが、著者の本音というか思いはむしろここにあるのではないかと感じました(笑)

私は、そのハイデガーのあたり*1を読み進めながら別の結論を予想していました。序盤で出ててくるスヴェンセンの「ロマン主義批判」やその後の疎外論からのインスピレーションだろうと思いま須賀、「自分はこうあるべき/こうあり得るはずなのに、今はそうなっていない(のでなんとかしなければいけない)」という感覚が退屈さにつながっているのではないか、というものです。世に言う「青い鳥症候群」みたいな話で須賀、私自身も思い当たる節はあって、高校時代の退屈な授業中、窓から見える火山が大噴火して学校ごと埋まってしまえば授業も当面なくなるんじゃないか*2・・・なんて妄想をしたことが何度かありました。

本書を内容を踏まえても、自分で決断することすらできずに外的な要因で環境が一変することを願うのはかなり危険な態度だと我ながら感じています。その一方で、自分を含めた各人がそれぞれある程度ずつ違った個性を持っていることが尊くて楽しい、という「ロマン主義的」立場に立つならば、こうした決断主義の誘惑はなかなか強いものがあるように思います。あとがきにも、著者自身もその種(恐らく)の葛藤を重ねてきたと書いてありました。訓練を重ねることで「うまく気晴らしを楽しめたり、外部のいろんな刺激を受け止められるようにな」ることは案外楽しそうな気もしま須賀、その分なかなかに難しいことだろうとも思いました。

近代日本外交史-幕末の開国から太平洋戦争まで (中公新書 2719)

ペリー来航からポツダム宣言受諾までの近代日本外交の歩みを概説した本です。「政治外交史」でなく「外交史」として、各時期の国内における外交アクター-その意思決定方法や国際秩序観-により着目した議論となっている点が興味深いです。

具体的には、第一次世界大戦ごろまでは特定のメンバー*1が外相・外務次官・主要国の大使を歴任するインナーサークルを形成しており、彼らは基本的に当時の国際秩序を一定程度信頼し、その中で日本が発展することは可能と見做していました。当時の価値観における自国の正当性を強く意識し、主張する中で利益を得ていこうとしました。

しかし大戦後になると、国際秩序に関する新たな価値観が台頭したということはありつつも、外務省内の組織拡大・世代交代によって志向が分極化していった上に、世論や軍部が外交を特定のインナーサークルのものとすることを許しませんでした。こうした状況の下、著者の言うようにそもそも国策を定める上での統合を欠き、周辺国を巻き込みながら破局への道をひた走ることになった-このように素描されています。

私自身、近代日本の多元的な国家体制、特に立憲的あるいは民主的統制の及ばないアクターの及ぼした影響に関心を持ってきました。

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その問題意識に引き付け過ぎかもしれませんが、非公式なインナーサークルがうまく制度化されていかなかった側面がここにもあるように感じました。外交は専門性や機密性を要するだけでなく、重要な国策として、国家的な合意が必要な領域であることは論を俟ちません。「日本の世論は外交事情に関して幼稚」と内輪で嘆き合うのではなく、そのずれを早くから埋めていく必要があったとの著者の示唆に共感しました。

著者も説明しているように、本書は事実関係を詳細に説明するよりも「論に重きを置く」、即ち解釈を述べることを重視しています。読みやすくはありましたが、重厚なものになったとしても解釈の根拠をその都度参照できた方が、こちらとしては論じやすかったと思いました。