バルトーク:管弦楽のための協奏曲 貧困と病から力を振り絞り作曲 (original) (raw)
第2次世界大戦時、しかもバルトークの故郷 ハンガリーはナチに占領という大変な時期に、アメリカへ亡命することになった59歳のバルトーク。
コロンビア大学で、民謡の研究で生計をかろうじてたてるという、貧困の真っただ中にいました。
貧困の中、バルトークは、白血病にも罹患し、不幸のどん底に陥ったともいえます。
そうした中でも、友人には恵まれていて、指揮者フリッツ・ライナー、またヴァイオリニスト ヨーゼフ・シゲティは、なんとかバルトークの生活を救い出そうと陰ながら援助をしたのです。
この音楽家二人が、とった行動は、アメリカの作曲者協会に、バルトークの治療費を持ってもらうよう働きかけました。
またボストン交響楽団の指揮者であったクーセヴィツキーを「ひそかに」説得して、
(というのもバルトークは誰かに温情を懸けてもらうとか、同情してもらうとかいう行為を極端に嫌った性格なのでした)
そこは、事情を知ったクーセヴィツキーが、入院中のバルトークを見舞い、話を切り出します。クーセヴィツキー自らの財団から、作曲の委嘱を申し出、まずは委嘱料の500ドルを渡します。
バルトークは、「もはやこの体では、作曲は不可能」と最初拒否しましたが、なんとかクーセヴィツキーは、説得に成功しました。
困窮、病弱で不幸のどん底でも仕事が舞い込むと、生きる張り合いが生まれるものです。バルトークも、元気を取り戻し、作曲意欲が高まります。
時、1943年 約2か月で、この管弦楽のための協奏曲を作曲することが出来ました。
1年後の1944年、ボストンで、クーセヴィツキー指揮、ボストン交響楽団により、初演が行われ、指揮者クーセヴィツキーも四半世紀にでるかでないかの作品とたたえました。
今では、後世にまで残る大傑作の作品だと誰もが認めるところです。
この曲を聴くと、各種楽器に、きらびやかな名人芸を与えているのが特徴です。
曲は、伝統的な調性への回帰にはっきりと傾いていているので、アメリカで、聴衆もとっかかりやすかったと思います。「管弦楽のための協奏曲」では、東欧で、収集した民族素材にひたりながらも、20世紀の革新的な音楽という、新たな音楽の時代を切り開いた曲と言えます。
ここは、アメリカのオーケストラで聴くのが良いと思い、
エサ=ペッカ・サロネン指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニックで聴いています。
アメリカのオーケストラは、明るい音色のイメージを持っていましたが、この演奏CDは、弱音の音を大事にしている演奏で、ほの暗さを感じる演奏です。
応援よろしくお願いします。