在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 (original) (raw)

17,18世紀にヨーロッパで伝播した日本情報といえば、日本における宣教、受洗、殉教、そして天正遣欧使節団、慶長遣欧使節団が主な物としてあげられます。

日本におけるキリスト教の伝播といえば、イエズス会などの宣教師たちの本国への報告書や書簡があげられます。また、天正・慶長遣欧使節団は訪問先での様子が細かに記され、その様子も伝播していきました。

有名なものに、フランシスコ・ザビエルの書簡集があります。

また、当時の日本の状況を知る史料としても使われるルイス・フロイスの『日本誌』がありますが、東京大学史料編纂所イエズス会の文書の書簡集を編纂しています・

イエズス会日本書簡集』

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kaigai/

ヨーロッパにおける日本関連書籍については国際日本文化研究センターが調査、研究の蓄積があります。

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/

一方でどのように受容されたかという問題がありますが、近年では蝶野立彦氏の「対抗宗教改革期及び30年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈―1580年代~1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景」(『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』、13号、2019年)があります。

もちろん、宣教や殉教の様子は単に文書史料として残るだけでなく、絵画として描かれ、教会や関係者の邸宅に今でも残されているものがあります。また文書についても、そのまま版を重ねるだけでなく、刊行された書籍に掲載された情報が引、二次利用、三次利用というように引用され各地に伝播しました。

鹿毛敏夫編『描かれたザビエルと戦国日本』(勉誠社、2017年))

書籍に掲載された情報についてはまた別項に書きたいと思います。

天正遣欧使節については当時の様子だけでなく、現在までの研究からその史料の価値、グローバルヒストリーのなかで使節団を考える伊川氏の研究があります。

伊川健二『世界史のなかの天正遣欧使節』(吉川弘文館、2017)

伊川健二「天正遣欧使節の史料学」(「WASEDA RILAS JOURNAL」 8、2020年 357-363頁 。

慶長遣欧使節団については日欧の文書を集めた

大泉光一編『支倉六右衛門常長「慶長遣欧使節研究史料集成』(雄山閣、2013年)

があります。

日本を題材としたオペラ、演劇というと、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスムブームのなかのもの、たとえば、ピエール・ロティの『お菊さん』やプッチーニの「蝶々夫人」が思い浮かぶかもしれませんが、それ以前の18世紀初頭からすでに創作されはじめており、近年研究がとみに充実しています。代表的なものに

小俣ラポー日登美『殉教の日本―近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』(名古屋大学出版会、2023)ほか小俣氏の一連の研究があります。

ヨーロッパにおける日本を題材としたオペラ、演劇研究は古くは尾崎賢治訳、トマス・インモース『変わらざる民族 演劇東と西』(南窓社、1972年)

18世紀の初頭からヨーロッパを中心にみられた日本を題材とした演劇、オペラのテーマは、「殉教」、「宣教から殉教」、「受洗から殉教」というようにカトリックの日本における宣教、受洗、殉教へという当時の状況についてのものでした。この背景には、ヨーロッパ側のキリスト教内の状況、すなわち、宗教改革から対抗宗教改革へというカトリックプロテスタントの攻防、さらにはカトリック内の会派における列聖をめぐる問題などがありました。しかしながら事細かく登場人物の名前、時代背景などがテーマとされたのはイエズス会をはじめとした宣教師たちが日本から本国へと詳細な報告を送っていたからこそと言えます。

小俣氏のほかに、当時のヨーロッパの状況をふまえた研究に大場はるか氏の研究があります。

大場はるか「近世ドイツ語圏南部の「宗派化」と日本のキリシタンー演劇に見られる宗派的規範の継承と「他者」の表現」(『歴史学研究』941、2016年)

大場はるか 「近世内オーストリアの居住都市グラーツにおけるイエズス会劇と肥後・八代の殉教者:「日本劇」の比較考察のために」(『比較都市史研究』35巻1号、2016年)

そもそもイエズス会における日本での殉教演劇を対抗宗教改革の一側面として位置づけたと蝶野氏は評しています。

蝶野立彦「対抗宗教改革期及び30年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈―1580年代~1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景」(『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』、13号、2019年)

そのほか、カトリックであったオーストリアにおける受容として以下の研究があります

佐藤眞知子訳、マーグレット・ディートリヒ「ウィーン宮廷のイエズス会劇―切支丹に託したオーストリアの敬虔なる心―」(L.アルムブルスタ―、C.ツェーリック共編『大ハプスブルク帝国 その光と影』(南窓社、1994年)所収98-150頁。)

野口英夫「M.ハイドン高山右近劇≪キリスト教徒のゆるぎなさ」―日本が促した再発見

」(『神戸モーツァルト研究会 第258回例会 2018年2月4日』

新山カリツキ富美子「〈日本から世界へ、世界から日本へ〉25ヨーロッパにおける日本殉教者劇:細川ガラシャについてのウィーン・イエズス会ドラマ」(『世界の日本研究』(特集号、国際的視野からの日本研究)2017年、284-294頁。

Detlev Schauwecker氏と西村千恵子氏による有馬晴信のオペラ台本の調査研究もあります。

このように様々な研究がすすんでいますがイエズス会で上演されたものが600以上(佐藤眞知子訳、マーグレット・ディートリヒ「ウィーン宮廷のイエズス会劇―切支丹に託したオーストリアの敬虔なる心―」(L.アルムブルスタ―、C.ツェーリック共編『大ハプスブルク帝国 その光と影』(南窓社、1994年)所収98-150頁。)との研究があります。小俣氏らの研究には、フランシスコ会などほかの会派についての言及もあるので、日本に関するオペラ、演劇と会派の制限を取り外すと、さらに数は増えることでしょう。

いつ頃からか、という問題がありますが、上記の研究を参考にして概して言えば当時の様子は以下のようになります。

日本の殉教者を題材にした演劇上演最古の記述は、

1602年 作者不詳『日本の殉教者たち』と題する芝居がマドリッドから90キロほど離れた町 エル・バルコ・デ・アビラで上演されたもので、これは 長崎26殉教者の死が刊行物によりヨーロッパに伝播の直後のことである。(小俣ラポー『殉教の日本』312頁。)

続いて、1607年 ジェノバ 肥後の小西行長を題材にした悲劇 『アゴティーノ・ツニカミドノ』、同年グラーツで最初の日本劇、イエズス会演劇が始まる『日本王 アゴスティノ・ツニカミンドノ』が上演

(正式『日本の二兄弟の相愛」1603年の八代・肥後における殉教の演劇化の可能性が高い(大場2016))

1620年12月9日 マニラにて フランシスコ会により『日本の殉教者の劇』上演

この後、更に多くの都市で上演されていきますが、上演する際の小道具や衣裳などはどうしたのでしょうか?上演記録はあれどその台本がすべて見つかっているわけではないようですし、また上演の際の衣裳、小道具についてはほぼわからないかもしれません。しかしながら日本に関する情報(文章、絵画、文物)を持ち、かつ日本からの文物が実際に保存されていたイエズス会関連の教会、学校であれば、それを参考にして小道具がつくられたり、衣裳がつくられたからかもしれません。遠いけれども実際にある国、さらにそのような衣裳を模して宣教、殉教劇を繰り広げるのは東方への宣教師を育成する上で活用できると考えられたのではないでしょうか。

文物、書籍の伝播だけでなく、そこから得られる情報をもとにした創作物としての演劇なども17、18世紀ごろには創られ始め、その波はヨーロッパ各地へ、さらには宣教先であるマニラでも上演されていたことなどが明らかになってきましたが、そのことは、19世紀後半から20世紀にかけてのジャポニスムの流行、言い換えれば日本風のものが受け入れられていく前の土壌形成になっていたのではないか、とも思います。

フランス国内に所蔵されている日本関連文物は、漆製品などの美術工芸品、書画、浮世絵をはじめとした美術品が連想されますが、書籍も各地で所蔵されており、すでに研究がありますが、先ごろ、最新の研究調査が発表され機関リポジトリでも読むことができるようになりました。

渡部麻実氏によるフランスの日本関連書籍調査とスイス・チューリッヒ大学所蔵の川端康成書簡に関する調査研究に関する論文が刊行されました。

渡部麻実「フランスを中心とする在西欧図書館における日本関係資料をめぐる状況、ならびにチューリッヒ大学図書館蔵〈川端康成書簡〉の紹介」(『近代作家旧蔵書研究会年報』2号、2024年3月)

フランスの図書館が所蔵する文献についてはすでに

日仏図書館情報学会編『書物史研究の日仏交流』(樹村房、2021年)があります。

フランスのアジア研究は、1822 年のアジア協会(Société asi)が碑文・文芸アカデミー(Académie des Inscriptions et Belles-Lettres)内に設立されたことに始まる。

『アジアジャーナル』(Journal asiatique)、『アジア協会年次報告書』(Rapports annuels faits à la Société asiatique)も刊行した。

本格的に日本に特化した研究(者)は1862 年に日本から竹内下野守率 いる文久遣欧使節団がフランスを訪れた際に公式通訳を務めたレオン・ド=ロニーによるものがあげられます。その際に栗本鋤雲、福沢諭吉、福地源一郎らとの知遇を得ました。

ロニーは1852 年に 15 歳で東洋言語専門学校に入学して中国語を学んだ後、日本語を独学で学び、前述のよう竹内遣欧使節団が来仏した際に通訳をつとめました。1868年に東洋言語専門学校に日本語学科が正式に設置されるとロニーが初代教授となりました。

ロニーの日本に関する研究、著作は多方面に及びました。

たとえば1861 年には地理学会にて発表した日本に関する包括的内容の著作『日本の文明』La civilisation japonaiseされました。

1871年には万葉集百人一首などの和歌を選集、翻訳した『詩歌撰葉』(1871年)ANTHOLOGiE JAPONAISE: POÉSIES ANCIENNES ET MODERNES DES INSULAIRES DU NIPPON,Paris, Maisonneuve et Cie, MDCCCLXXXI(1871)が刊行されたほか、多岐にわたる日本語、日本語の教育本、日本に関する著作を発表しました。

同じく1871年12月22日には、アテネ・オリエンタル座でロニーの脚本による日本を題材とした演劇『青龍の尼寺』が初演を迎えました。(台本作家名は仮名のレオーネ・ダルバーノ)

さらにロニーは、1873 年に第 1 回国際東洋学者会議の開催を提唱し、議長を務めました。国際東洋学者会議(International Congress of Orientalists)は世界各国から東洋学者が参集し、定期的に世界各国で開催される学会で、現在まで続く。第1回国際東洋学者会議は、1873年9月1日から11日までパリのソルボンヌの神学部講堂を主会場に開かれました。9月1日から5日までの5日間に11の研究部会があり、うち8つが日本関係であったのはロニーが議長を務めたからでした。会期中にもロニーの『青龍の尼寺』が再演されました。

なお、1891年9月9日、イギリス・ロンドンでロニーを議長として国際東洋学者会議の日本分科会が法律協会の図書室で開催されました。この時に分科会名誉事務局長アーサー・ディオシーが日本研究を促進するために世界中の日本に関心を持つ人が一同に会することを目的とする協会をロンドンに設置するという構想を述べ、1891年12月8日、日英協会の第1回会合が開かれたことは別の項にあります。

collectionresearch.hatenablog.com

レオン・ド・ロニーの旧蔵書は現在フランスのリール市立図書館が所蔵しています。

その調査及び研究論文がフランス、日本で刊行されています。

Noriko Berlinguez-Kono eds,_La Genèse des études japonaises en Europe : Autour du fonds Léon de Rosny_(「ヨーロッパにおける日本学の源流 レオンドロニー文庫を巡って」),Presses universitaires du Septentrion , 2020.

(ベルランゲ河野紀子編『ヨーロッパにおける日本学の源流 : リール市レオン・ド・ロニー文庫を巡って』)

町泉寿三郎編『レオン・ド・ロニーと19世紀欧州東洋学―旧蔵漢籍の目録と研究―』(日本漢学研究叢刊 1)、汲古書院、2021年。

また、京都外国語大学附属図書館、京都外国語短期大学附属図書館で2008年に

日仏交流150周年記念稀覯書展示会

「フランス人による日本論の源流をたどって」と題する展示会が開かれ、

現在web上で展示目録などからフランス人著作の日本関連書籍についてみることができます。

https://www.kufs.ac.jp/toshokan/france150/index.html

【参考】

クリス・ベルアド「レオン・ド・ロニー『青竜寺』(1872)の構造と物語ーフランス演劇初の「日本」をめぐって」( 『ガリア』(大阪大学) 、51、 2012年11-20頁。)

現在も活動している日英協会の第1回会合が開かれたのは1891年12月8日のことです。

その契機となったのは、1891年9月9日にイギリス・ロンドン開催された国際東洋学者会議の日本分科会がフランスの日本研究者レオン・ド=ロニーを議長として法律協会の図書室で開催されました。この分科会の名誉事務局長アーサー・ディオシーが日本研究を促進するために世界中の日本に関心を持つ人が一同に会することを目的とする協会をロンドンに設置するという構想を述べ、支持を得ました。そして開かれたのが冒頭の第1回会合です。日本総領事代理を議長として開催され、ウィリアム・アンダーソンが理事長に選出されました。アンダーソンは、医師として日本に来日して海軍病院にて医術を伝え、教育にあたった人物で、日本滞在中に美術品を蒐集し、イギリスに帰国後にコレクションを大英博物館に寄贈、日本に関する美術書The Pictorial Arts of Japanを執筆、1886年に刊行しました。日本語訳は1896年に刊行されましたが、翻訳したのは末松謙澄です。

末松謙澄(1855-1920年)は、明治~大正時代にかけて活躍した政治家、文学者、批評家で、伊藤博文内閣では逓信大臣や内務大臣を歴任しました。日露戦争中は駐英外交官として日本の広報外交を担ったことでも有名で、一方で文学者として英文学の邦訳や演劇の改良にも携わりました。伊藤博文の娘婿でもあります。末松は1878年に日本公使館付一等書記官見習としてイギリスに留学すると、1880年ケンブリッジ大学に入学、法学を専攻する傍ら1882年には抄訳『源氏物語』の英訳を刊行しました。

末松の留学したケンブリッジ大学には日本関連書籍コレクションが所蔵されています。無論、ケンブリッジ大学は、イギリス国内で刊行されたすべての書籍は、刊行後にケンブリッジ大学に送り、所蔵されるという事情から、イギリスで日本関連書籍が出版された場合は現在なお所蔵されていく、という事情もあります。しかしながら、有名なコレクションは、日本研究者アシュトン、サトウ、シーボルトらの蔵書のコレクションです。これらについてはすでにP・コーニッキー、林望による調査の結果が書籍として刊行されています。

Early Japanese books in Cambridge University Library : a catalogue of the Aston, Satow and von Siebold collections = ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録 : アストン・サトウ・シーボルト・コレクション / Nozomu Hayashi & Peter Kornicki. , / ピーター・コーニッキー, 林望共編 Cambridge University Press , 1991 (University of Cambridge oriental publications 40)

現在は、ケンブリッジ大学立命館大学との共同研究により、検索ができるようになっています。

ケンブリッジ大学図書館蔵古典籍閲覧システム

https://www.dh-jac.net/db1/books/search_cambridge.php

またケンブリッジ大学に所蔵されている日本関連書籍を研究した書籍もあります。

小山騰『ケンブリッジ大学図書館と近代日本研究の歩み: 国学から日本学へ』(勉誠出版、2017年)

小山騰氏は1985年から2015年までケンブリッジ大学図書館日本部長を勤めた方で、ほかにも『アーネスト・サトウと蔵書の行方『増補浮世絵類考』の来歴をめぐって』(勉誠出版、2020年)があります。またケンブリッジ以外にも『戦争と図書館 英国近代日本語コレクションの歴史』(勉誠出版、2018年)では、大英図書館ロンドン大学東洋アフリカ学院図書館、ケンブリッジ大学図書館、オックスフォード大学ボードリアン日本研究図書館が所蔵す日本関連書籍についての研究があります。

「日本」に関連する情報(地理、人口、環境、政治体制など)や文物などは古くから収集、保管されていました。

ヴェネチア国立文書館もその一つです。こちらには、1585年の天正遣欧少年使節に関する文書や、支倉常長を団長とする慶長遣欧使節団に関する文書

1871年に日本を出発した岩倉使節団明治6年5月に訪れたという記録があります。その際、支倉六右衛門が遺した署名入りの文書を見せられたものの、当時は伊達政宗支倉常長を遣欧させたことが知られていなかったため、『米欧回覧実記』にはこの文書の来歴について「怪しむべきに似たり」と書かれています。