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小西行長

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こにしゆきなが

戦国武将。堺の豪商の次男。初めは宇喜多氏に仕えていたキリシタン大名。
関ヶ原の合戦では西軍に属していたが、敗北すると六条河原で斬首される。

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日本中近世史史料講読で可をとろう2ヶ月前

天正17年12月5日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状志岐城*1落居之様子言上*2候、小西摂津守*3同前ニ相動*4砕手*5之由被聞召届候*6、無由断儀、尤ニ被思食候、次天草表儀、是又小西相談、無越度様可申付候、猶浅野弾正少弼*7可申候也、 十二月五日*8 (朱印) 加藤主計頭とのへ*9 (四、2830号) (書き下し文) 志岐城落居の様子言上候、小西摂津守同前に相動き手を砕くの由聞し召し届けられ候、由断なき儀、もっともに思し食され候、次いで天草表の儀、これまた小西相談じ、越度なきよう申し付くべく候、なお浅野弾正少弼申すべく候なり、 (大意) 志岐城を落としたとの報告、行長同様によく働き手を尽くしたこと確かに聞き届けた。油断ないこともっともである。…

#t豊臣秀吉#加藤清正#小西行長#九州御置目#志岐城#倭寇

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17ブックマークasahi.com(朝日新聞社):「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長 - 文化トピックス - 文化「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長(1/2ページ)2011年1月13日16時16分 居城の跡に立つ小西行長の銅像。「極悪人」との反発でトタン板で覆われていたこともある=熊本県宇土市 豊臣秀吉の家臣で、関ケ原で敗れ刑死したキリシタン大名、小西行長(1558〜1600)の人物像が大きく転換している...www.asahi.com

14ブックマーク小西行長が秀吉に重用された理由とは?商人から武将に転身して大出世bushoojapan.com

8ブックマーク小西行長 on Twitter: "@nogawam @NOSUKE0607 偕行社の調査は正しいのですか?"twitter.com

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butatamablog2ヶ月前

小西行長の子孫:歴史を紡ぐ家系の物語小西行長は、豊臣秀吉に仕えた名将として知られ、文禄・慶長の役では朝鮮半島で活躍しました。その後、関ヶ原の戦いで西軍に加担し、戦後に処刑されましたが、その功績と逸話は歴史に深く刻まれています。そんな小西行長の血筋は、どのように現代まで続いているのでしょうか。本記事では、小西行長の子孫たちの歩みを詳しく探っていきます。 小西行長の家族と子供たち 小西行長には、数人の子供がいました。以下は、彼の主要な子供たちとその後の運命です。 長男:小西行長之助 関ヶ原の戦い後、行長之助は父と共に処刑されました。彼の死によって、直系の家系は一旦途絶えることとなります。 次男:小西行景 行景は父の死後、薩摩藩の島津…

#小西行長#小西行長子孫

日本中近世史史料講読で可をとろう7ヶ月前

天正17年11月21日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状(包紙ウハ書) 「 加藤主計頭*1とのへ 」 書状被加御披見候、志岐城為成敗、小西*2相動二付、人数相添遣、自身*3又渡海之旨尤候、然而為後詰天草出候処ニ、其方於手前*4追崩*5、悉切捨之由手柄候、遠路首不及差上候、重而*6志岐・天草物主*7共申付次第、彼首共ハ可持上候、猶以及行之儀、涯分*8惜手*9無越度様ニ、小西摂津守可相談候、侮候て卒尓*10之動不可仕候、猶浅野弾正少輔*11・増田右衛門尉*12可申候也、 十一月廿一日*13 (朱印) 加藤主計頭とのへ (四、2757号) (書き下し文) 書状御披見を加えられ候、志岐城成敗のため、小西相動くにつき、人数相添え遣わし、自身また渡海の旨もっと…

#豊臣秀吉#加藤清正#小西行長#天草氏#志岐氏

日本中近世史史料講読で可をとろう8ヶ月前

天正17年11月11日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写小西摂津守*1志岐・天草*2之奴原*3令成敗二付、為加勢差遣佐々平左衛門*4之由尤候、自分*5相越、不残申付両島*6を、首可差上旨被仰出候、人数*7入*8候事候者、摂津守申次第、其方も同前可相勤*9候也、 十一月十一日*10 朱印 加藤主計頭殿へ*11 (四、2734号) (書き下し文) 小西摂津守志岐・天草の奴原成敗せしむるにつき、加勢として佐々平左衛門差し遣さるの由もっともに候、自分相越し、残らず両島を申し付け、首差し上ぐべき旨仰せ出だされ候、人数入り候事にそうらわば、摂津守申し次第、其方も同前相動くべく候なり、 (大意) 小西行長が志岐・天草のやつらを攻めるにあたり、加勢として佐々平左衛…

#豊臣秀吉#加藤清正#小西行長#志岐麟泉#キリシタン#佐々平左衛門#天草種元

ちわぷ〜の書評ブログ🐶8ヶ月前

運命に翻弄された三人の関ヶ原浪人…「デウスの城」デウスの城 (コルク) 作者:伊東潤 コルク Amazon 「デウスの城」 伊藤潤(著) あらすじ 一番運命に翻弄されたのは、天草四郎ではなく小西家家臣だったのかも知れない。 まとめ こんな人にオススメ こんにちは、ちわぷ〜です! 最近、力を入れて調べている天草四郎関係。 今回は、天草四郎が主役ではないのですが、あの時代に翻弄された人々を描いた良作を読みましたので、ご紹介させて頂きます☆ 「デウスの城」 伊藤潤(著) あらすじ キリシタン大名の小西行長は、関ヶ原で敗れて斬首されてしまう。 行長の三人の若き家来たちも、それぞれの道を進み運命に翻弄される。 そして、運命の島原の乱へと至る… 一番運…

#デウスの城#伊藤潤#天草四郎#島原の乱#小西行長

日本中近世史史料講読で可をとろう10ヶ月前

天正17年10月3日松浦兵部卿法印宛豊臣秀吉朱印状(包紙ウハ書) 「 松浦兵部法印*1 (異筆) 「到来 天ノ十七 十一ノ七日亥刻」*2 」 急度被(闕字)仰出候、①日本国〻之事者不及申、海上迄静謐ニ被仰付候*3故、従大唐*4令懇望、相渡候進物之船罷出候処、去春*5②其方自分領号商売船*6、てつくわい*7と申唐人為大将、八幡*8ニ罷越、彼唐船之荷物令海賊候由、被(闕字)聞召候間、右之商売舟之由申候て、去春罷出候てつくわい・其外同船之輩、何も不残可差上候、於此方被遂御糺明、可(闕字)被仰付候、自然*9彼者共何角申族有之、於不罷出者、其方迄可為曲事候条、成其意、早〻可差上候、猶小西摂津守*10可申候也、 十月三日*11 (朱印) 松浦兵部卿法印 …

#豊臣秀吉#松浦兵部卿法印#小西行長#八幡#海賊

日本中近世史史料講読で可をとろう1年前

天正17年3月28日宗義智宛豊臣秀吉判物去〻年九州御進発*1之刻、以次高麗之儀為可被仰付、御人数差遣候処仁、父子*2出之砌、於箱崎*3高麗之事、何様共御意次第之趣、御侘言被申上*4、去年高麗国王可有参内*5由被申ニ付、被成御延引候、雖然至于当年遅参候、自然又如去年滞儀茂可有之被思食、小西摂津守*6・加藤主計頭*7両人江筑紫*8御人数共被差副、為御先勢被差遣候処ニ、其方高麗江渡海仕、当夏中仁国王令同心可罷上候、御人数被遣候而者、迷惑*9仕由候条、今少可相延旨被仰遣候、成其意、国王参洛之儀、可相急事肝要候、少茂於相滞者、京都迄程遠候、小西摂津守・加藤主計頭かた迄、一左右*10可申候、其次第可相動*11旨、堅被仰出候、其段相心得、両人かた…

#豊臣秀吉#宗義智#小西行長#加藤清正#宗義調

日本中近世史史料講読で可をとろう2年前

天正16年閏5月15日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状(包紙ウハ書) 「 加藤主計頭とのへ*1 」 其方事、万精を入、御用*2ニも可罷立与被(闕字)思食付而、於肥後国領知方一廉*3被作拝領*4、隈本*5在城儀被(闕字)仰付候条、相守御法度*6旨、諸事可申付*7候、於令油断者可為曲事候、就其陸奥守*8事、以一書*9被(闕字)仰出候ことく、去十四日腹を切させられ候、①雖然家中者*10之儀者不苦候間、②其方小西*11相談、其〻ニ見計、知行念を入遣*12之、為両人可拘置候、猶浅野弾正少弼*13・戸田民部少輔*14可申候也、 後五月十五日*15(朱印) 加藤主計頭とのへ (三、2513号。下線、番号は引用者による) (書き下し文) その方こと、よろず精を入…

#豊臣秀吉#加藤清正#小西行長#佐々成政

日本中近世史史料講読で可をとろう2年前

天正16年閏5月15日大矢野種基宛豊臣秀吉朱印状写肥後国天草郡内千七百五十*1之事、此度以御恩*2地之上、為被宛行之訖、全令領知、小西摂津守*3于致合宿*4、可抽忠節候也、 天正十六 後五月十五日 御朱印 大矢野民部大輔とのへ*5 (三、2512号) (書き下し文) 肥後国天草郡のうち千七百五十石のこと、このたび御検地の上をもって、これを宛てがわせられおわんぬ、まったく領知せしめ、小西摂津守に合宿いたし、忠節抽くんずべく候なり、 (大意) 肥後国天草郡のうち1750石、このたびの検地により充行うものである。これを領知し、小西行長の与力として忠節をつくすように。 Fig. 肥後国天草郡大矢野島周辺図 『日本歷史地名大系 熊本県』より作成 佐々成…

#豊臣秀吉#大矢野種基#小西行長#天草五人衆

日本中近世史史料講読で可をとろう2年前

天正16年閏5月6日北里政義ほか1名宛加藤清正下知状(1)清正は、5月25日付の朱印状の11日後、つまり当時の交通・通信事情からいえば「ただちに」本文書を発給している。しかも朱印状をそのままなぞっているのではなく、現地の状況に即し清正なりに咀嚼している点でも興味深い。なお本文書名を「下知状」と呼ぶのは書止文言が「仍下知如件」とあることによる。 定 ①一、国中一揆起候といへ共、去年之儀者平百性之分被成御免御検地被仰付上*1ハ、如前〻罷直*2耕作等無如在*3可仕事、 ②一、平百性一揆御赦免之上ハたがひ*4之諸道具*5取散候共*6、いしゆ*7いこん*8有間敷候、若此旨相背候者於在之者、至隈本*9ニ可申越事、 ③一、国中麦年貢之儀、御検地之上を以三分二召置、…

#加藤清正#北里政義#下知状#肥後国人一揆#平百姓#閏月#小西行長

Their Finest Hour -歴史・ミリタリー・ウォーゲーム/歴史ゲーム -7日前

「関ヶ原」(エポック/サンセットゲームズ)を対戦する【1/2】往年の傑作、「死ぬまでに一度はプレイしておきたいゲーム」に迷わず推薦したい一作「関ヶ原」(エポック/サンセットゲームズ)を、四半世紀以上ぶりに対戦しました。 担当は、ダイスにより西軍になりました。以降、東軍に関する記述は内容を知ることができない情報もあるため推測で書いている点をご了承ください。 第1ターン(1600年8月19日~21日) 東軍諸将の進撃 織田秀信の出陣 松坂城(東軍方)落城・竹ヶ鼻城(西軍方)落城 第2ターン(1600年8月22日~24日) 木曽川合戦 安濃津城落城 立花宗茂軍の岐阜入城 第3ターン(1600年8月25日~27日) 西軍諸将の集結 揖斐川での対峙 池田輝政の調略…

華寿過ぎて・・・これからの準備10日前

もしもの備え「海将」を読んでいる。 小西行長の物語なのだが、上巻が100円だったので、手を出して、まんまと下巻を定価で買ってしまった。 その中に、宇喜田直家が家中では月に2~3日食べずに、合戦に備えて穀物を蓄えておくという記述がある。 それが戦費になるのだ。 それを見て、私も週に1日位は食べたつもりでそのお金を蓄えておくことが必要じゃないかと反省する。 有るお金を有るだけ使ってしまうのは、精神的に疲れる。 例え僅かでも残そうとは思う。 思うのだが、つい食べることに走るのでね。 1日1000円、月4000円、年48000円、20年で96万円か。 無いよりはマシかな。 楽天で「ホラ吹き昆布茶」を買う。 それも…

在外日本関連コレクション 博覧会/博物館 調査研究 13日前

18,19世紀の日本を題材としたオペラ・演劇 日本を題材としたオペラ、演劇というと、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスムブームのなかのもの、たとえば、ピエール・ロティの『お菊さん』やプッチーニの「蝶々夫人」が思い浮かぶかもしれませんが、それ以前の18世紀初頭からすでに創作されはじめており、近年研究がとみに充実しています。代表的なものに 小俣ラポー日登美『殉教の日本―近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』(名古屋大学出版会、2023)ほか小俣氏の一連の研究があります。 ヨーロッパにおける日本を題材としたオペラ、演劇研究は古くは尾崎賢治訳、トマス・インモース『変わらざる民族 演劇東と西』(南窓社、1972年) 18世紀の初頭か…

arimahamaの日記20日前

オートファジー1105日目と畑と信長と十字架2024/9/21土曜日 5時に起床。 5時半に畑へ。 ミニトマト枯れっ枯れ。 今年は4回に渡り苗を定植したけれど遂に1個も実を成さず、という前代未聞の結果に。 わいと孫とで収穫する楽しみを何が何でも阻止するその執念は何処から? 帰宅後、シャワー&洗濯。 9時半から読書。 今日からは立花京子著「信長と十字架 『天下布武』の真実を追う」 天下布武の「武」は「七徳の武」禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和衆、豊財から。 美濃の井ノ口を「岐阜」と命名したのは宗恩沢彦。信長の師。周王朝の起点だった岐山に由来。 細川藤孝の従兄弟清原枝賢と叔父の吉田兼右、そして、結城忠正は潜在キリシタンだった。 彼らはガスパ…

2)日本民族の伝統文化と天皇神話の400年宗教戦争。天皇の人道貢献と戦争回避の平和努力。 1ヶ月前

⚔30)─6・G─イエズス会とキリシタンを守る為の長崎の「日本からの分離と軍港要塞化計画」。~No.125 ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 現代の日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない為に真実の歴史が理解できない。 その傾向は、超難関校出の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリ達に多い。 ・ ・ ・ 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群の日本布教とは、異教国日本を滅ぼす為の宗教侵略であった。 その証拠が、中南米におけるインカ帝国やマヤ諸王国の滅亡であり、中南米では約1億人が北米では1,000万人以上が虐殺された。 白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に商品として世界中に輸出していた。 現代…

肝胆ブログ1ヶ月前

佐賀県「唐津城、肥前名護屋城、須古城、虹の松原からの」肥前のお城を回るシリーズ、佐賀県に入りまして唐津や名護屋を訪れたり、龍造寺家本拠の須古城を登ったり、将太の寿司の聖地を巡ったりしてかんたんしてきました。 あちこち旅してると現実逃避できていいですねえふふふ。 唐津城 karatsujo.com 肥前名護屋城の、その後の城ともいわれる唐津城。 はるばる唐津までやってきたものの 台風10号がだんだん近づいてきていたためか天気が不安定。 ちょうど唐津を訪れたときだけピンポイントで大雨でござんした。 お城の様子。 さすが、いい石を使っていて風格がありますね。 お城の看板。 悪天候のため天守閣からお外は見れませんでしたが、水に濡れた立派石垣の迫力と美しさ…

戦国IXA のろしのBLOG もくっ ・ε ・1ヶ月前

【戦国IXA】2024 年 9 月の追加武将一覧8月もおわり 暑さ続きだったところもそろそろ暑さが落ち着いてくる・・・ ・・・の かしらもく?( ・ε・;) コンニチハ~ のろしもく でも徐々に 暗くなるのが早くなってきたり 夜明けが遅くなっているから 季節は少しずつ進んでいるのよねっもく ねっ! ね? …ね 戦国IXA では 9月 の 追加武将 が 公開されました もく 追加されるのは 【 極 】斎藤利三さん 武田信繁さん 坂崎直盛さん 大友義鑑さん 【 特 】三好政康さん 国司元相さん 新造の方さん 【 上 】江上家種さん 【 序 】小西隆佐さん 以上の 9 名 -------------------------------------…

syusyunakのブログ2ヶ月前

関ヶ原・敗者たちの勝算と誤算《下》 武光誠2009年6月10日第1刷発行 目次 第6章 大津攻めの無策―立花宗茂 第7章 敵の主力を阻む―真田昌幸 第8章 大合戦の開幕―島左近 第9章 西軍の勝機―宇喜多秀家 第10章 南宮山の別働隊―毛利秀元 第12章 崩れる西軍―小西行長 第12章 智将の最後の戦い―直江兼続 西軍最強の立花宗茂だったが、大津城攻めに予定よりも日数がかかり、関ヶ原の戦いの当日に参戦が間に合わなかった。大津六万石の領主京極高次が謀叛を起こしたためだった。真田昌幸は上田城を攻め落としあぐねた徳川秀忠の軍を足止めし、秀忠も関ヶ原の戦いに間に合わなかった。島左近は石田三成の軍師として大垣城で作戦会議を開き、総大将の毛利勢が…

やくもとうずしおをがっつりと2ヶ月前

伊豆諸島の旅 その7(全8回)↑新島村の無料バス。便数少ないけど使えます。 ↑民宿の近所のおじさんが自分で釣ったムロアジをさばいて振る舞ってくれました。民宿の他のお客さんといただきます。 ↑猫 ↑新島には本村と若郷のふたつの集落があります。本村はほんそんと読むのですね。 ↑新島でステーキ。 ↑新島でハンバーガー。 ↑新島から神津島へやってきました。 ↑神津島の客船乗り場通路。右手は岩場です。 ↑神津島の港の食堂でカンパチ丼 ↑神津島の路線バス ↑神津島温泉へやってきました。いい湯でした。伊豆諸島の温泉はどれもええ湯です。 ↑神津島の海岸 ↑神津島のトンネル。トンネルを抜けた先は行き止まりです。 ↑行き止まりの先にもトンネル…

~マイノリティでいこう!!~2ヶ月前

映画 ノリャン 死の海韓国映画『ノリャン 死の海』は、豊臣秀吉による朝鮮侵攻「文禄・慶長の役」を題材にした壮大な歴史大作です。この作品は、キム・ハンミン監督が手掛けた「イ・スンシン」三部作の最後を飾るものであり、韓国国内でも大きな注目を集めています。今回は、その見どころや評価について詳しくご紹介します。 映画『ノリャン 死の海』は、日本の朝鮮半島出兵から7年後、豊臣秀吉の死を機に行われた「露梁(ノリャン)海戦」を描いています。この海戦は、撤退を試みる日本軍とそれを阻止しようとする朝鮮・明連合軍との間で行われた、まさに「文禄・慶長の役」の最終決戦です。 物語の中心となるのは、小西行長率いる日本軍と、それを迎え撃つ朝鮮…

川柳と習字を与那国島から2ヶ月前

みせばや 562 加藤清正朝、海岸沿いを走ってきました。シャワーを浴びて体重を測ったら52.9kgと先週より0.2kg減っていました。それから運転免許の高齢者講習に行ってきました。全員車の運転をさせられました。10年くらい運転していませんでしたが特に問題なしでした。これから冷蔵庫の搬入・搬出のために港に行ってきます。 「日本史1200人」562 加藤清正(キヨマサ;1562〜1611) 肥後国熊本藩初代藩主、通称・虎之助。幼少時より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いにおける武功で七本槍の一人に数えられる。文禄の役の際の京城攻めでは、出世を競う小西行長と一番乗りを争った。秀吉没後は石田三成と不仲になり徳川家康に近づき、関ヶ原の…

石垣好きの城歩き2ヶ月前

富岡城(熊本県天草郡苓北町) 天草の乱の行方を左右した激戦地天草の乱の激戦地となった富岡城。この城を落とせなかった天草四郎は島原の一揆勢と原城で合流し、幕府相手に籠城戦を繰り広げました。その後富岡城は経済的な理由から廃城となりましたが、平成に入り櫓や石垣が復元されました。 2023年9月登城 満足度:★★★★★ 歴史 天草の乱 関ヶ原の合戦後、東軍についた唐津藩主・寺沢広高は天草郡4万2千石を拝領しました。ただ、天草は西軍の小西行長の領地の一部であり、肥後の加藤清正へ与えられたが、清正がキリシタンが多いことを嫌って幕府に交換を申し入れたという、曰く付きの土地でした。 寺沢広高は飛び地である天草の拠点として、1602年から天草下島の富岡に城を築きました。…

R13C Lab. ―with a shade of curiosity3ヶ月前

どうする家康 第43回「関ケ原の戦い」