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河内源氏

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かわちげんじ

清和源氏の一流。源満仲の三男の源頼信を祖とし、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いていた。鎌倉幕府の初代征夷大将軍の源頼朝は河内源氏の源義朝の三男である。
一般的に武士で「源氏」という場合、この河内源氏の系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には「源家」という呼称も古くは用いられていた。

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sazaesansazaesan’s diary1ヶ月前

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#歴史学#日本史#光る君へ#河内源氏#清盛以前#源平合戦

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23ブックマーク「河内源氏 – 頼朝を生んだ武士本流」元木 泰雄 著call-of-history.com

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実朝暗殺と公暁撲殺ーそして誰もいなくなった源氏嫡流鎌倉殿の13人 史実だから仕方ないですが今回で三代将軍実朝が甥の公暁に暗殺されてしまい、これで河内源氏の嫡流は滅んでしまいました。実朝暗殺から公暁の撲殺まで伝わっている史実と描かれ方は違いますが、ドラマなので細かいところの重箱の隅をつつくのはあまり意味がありません。そもそも鎌倉時代の「吾妻鏡」も「愚管抄」も政治的立場の違う人間が書いたものであり100%信用できるものともいえないからです。 いずれにせよ、三代将軍の源実朝が甥の公暁に殺されたこと。そして暗殺した公暁も三浦氏(実際には三浦義村ではなく家臣の長尾定景(子孫は上杉謙信になります)が討ち取ります)に撲殺されたことは史実として間違いありませ…

#源氏#河内源氏#源実朝#公暁#鎌倉将軍#鎌倉幕府#清和源氏

旅ながらの日々2年前

【大阪府羽曳野市】河内源氏、壷井八幡宮、そして効果的な水分補給の一方法月が替わり八月になった。 夏も盛りというわけで、この暑さも当然なのかもしれない。 しかし、夕方4時すぎ、クルマの車外温度計が36度をしめしているのは、いくらなんでもやりすぎだと感じていた。 我慢の限界をこえていた…。 運転中ずっと理不尽だ、無茶苦茶だ、文句を言ってやるなどと、そんな言葉がつぎつぎとあたまに浮かんでは消えていった。 カラダが熱っぽく、さきほどから視界もぼやけ始めてきたようだった。まさか、いま猛威を振るっているウイルスの症状なのか。 カップホルダーのアイスコーヒーに手をのばす。 エアコンの液晶表示が33度になっていた。 どうして…。 いつ手が触れたんだ。 コーヒーを置いたときだろう…

#河内源氏#壷井八幡宮#源頼義#壷井水#大阪府羽曳野市#通法寺#デリカD-5

tatsumitatsu3年前

聖徳太子だけじゃない!太子町ポタリング2021年7月31日 朝7時出発。太陽はまだ低く、長い影を作るも、すでにジリジリとくる暑さ。近鉄上ノ太子駅に1時間弱で到着。ここから歴史探訪スタート。 地理的には羽曳野市になるが、まずは河内源氏の氏神である壷井八幡宮から。つか、河内源氏ってなんだ?

#石川五右衛門#竹内街道#近つ飛鳥#聖徳太子#叡福寺#河内源氏

暮らしの顛末(くまくまコアラ)25日前

大阪八尾市の被差別部落について学びなおす。「八尾座」の成り立ちと河内商人の歴史と村社会の差別問題。(超ローカルな話でごめんなさいね)大阪府八尾市で生まれ育って50年。初めて「八尾座」という名を知って興味を持った。 河内国の歴史なども興味深く読めたので、今後、興味を持った方がネットで調べて参考程度になれればと思って書いてみた。 非常にローカルな話になって申し訳ない。 石清水八幡宮の荘園であった大阪八尾市 「八尾座」のなりたち 「馬借」と呼ばれた人達 ここからさらにローカルな話になる「植松村」について 膠(にかわ)作りの村 渋川神社のみこし洗い事件 渋川神社の祭りの差別が続く 八尾座の実業家、柴田利七さんが渋川神社に大鳥居を寄進 さかさ祭りと言われる渋川神社の祭りの由縁 「求む工員、但しここより東の八尾木までの間の者は採用せず…

gashyuku’s diary1ヶ月前

皇別ランキング参加中はてなブログ同盟!初心者歓迎・なんでもOK!日記・雑記10・20・30・40・50・60代ウィキペディアより 皇別(こうべつ)とは、日本の皇室から、神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族を分類した用語[1][2]。弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』で、天津神・国津神の子孫を指す神別、中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々の子孫を指す諸蕃とともに用いられた。また皇別の分類は明治時代の華族の宗族制度でも用いられた[3]。 概要 皇別氏族は天皇が大王であった古代から存在し、息長氏や葛城氏、蘇我氏など、天皇家を先祖とする豪族が勢力を張った。佐伯有清は大化…

REV's blog2ヶ月前

雑記室町時代に脚光 アニメの影響で室町時代に脚光が当たっている。 足利幕府を建てた足利氏は、清和源氏・河内源氏の源義家の孫義康が下野国足利に住して足利を称したのに始まる。覇を競った(競ってない)新田義貞は上野国新田荘の御家人。新田氏は、清和源氏たる河内源氏の系譜であった。 足利幕府なら、足利に幕府を開いてもいいじゃん… 歴史にifがあれば新田郡に幕府が!?(無理)。 徳川家康だって、新田氏支流世良田氏系統の清和源氏、得川の系譜であると自称していたが、この得川氏、新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫としていた。家康が霊廟を日光でなくて太田市につくっていれば(それはない)

keroppyのブログ3ヶ月前

本:河内源氏 頼朝を生んだ武士本流/元木泰雄/中公新書源氏の始祖から、一旦滅亡した頼朝の父義朝までを 描く。頼義の頃に東国に進出した源氏だが決して 武家の棟梁の様な存在では無かった。 前九年の役でも頼義が率いる武士は河内などから来た少数で 勝利を決定したのは、現地の豪族の清原氏の 参戦だった。 八幡太郎義家も武士の棟梁ではなく、後三年の役 でも、朝廷は砂金などの官物を京上しない義家を解任 しようとするなど、朝廷の評価は低く、京の武士として 名声をなんとか保とうとして戦ったらしい。 戦後は陸奥守に在住していた官物の完済に苦しみ、また兄弟間の争いにも 敗北していたが、弟の主君が急死したため、河内源氏の 嫡流の座を奪い返したらしい。 義家の死後、嫡男の…

ホリショウのあれこれ文筆庫3ヶ月前

第1101話 冠者・源義高と大姫の絆序文・又従兄弟同士 堀口尚次 源義高は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者〈冠者とは元服して間もない若者〉と号す。木曾義高とも。源〈木曾〉義仲の嫡男。母は『尊卑文脈』では今井兼平の娘としているが、兼平は義仲と同年代の乳母子なので、義高の母は兼平の妹〈中原兼遠の娘〉と推定されている。 寿永2年、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護したことにより、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出すことで、両者…

墳丘からの眺め4ヶ月前

新羅善神堂 滋賀県大津市園城寺町園城寺亀丘古墳(弘文天皇 長等山前陵)に隣接する森に大きな鳥居がありました。 石段の奥へ進むと大木。 崩れ気味の石垣の間を上がってみます。 石段を上がって振り返って。石がゴロゴロしており、落ち葉も堆積していて、おそるおそる入ってきました。 その先には檜皮葺の社殿が。 優美な屋根。 説明板で、国宝建物と知りました。 足利尊氏再興の社殿国宝 新羅善神堂(しんらぜんしんどう)南北朝時代(貞和3年 1347)桁行三間 梁間三間 一重 流造 向拝一間 檜皮葺 三井寺の鎮守社のひとつで、北院伽藍の中心建築です・現在の建物は、足利尊氏によって貞和3年(1347)に再興されました。。檜皮葺屋根の流れるような美…

隠居日録4ヶ月前

平氏―公家の盛衰、武家の興亡倉本一宏先生の平氏―公家の盛衰、武家の興亡を読んだ。本書には平氏の誕生の経緯から平清盛一族滅亡後の平氏についてまで詳細に書かれている。平清盛一族が滅亡しても、公家の平氏の一部は都で生き残り、明治の代まで続いていた。 平氏の誕生 桓武天皇の第三皇子の葛原親王が天長二(825)年三月二十四日に淳和天皇に上表して、自らの男女に平朝臣を賜ることを請うたが、この時淳和天皇は認めなかった。再び七月六日に子息の一部を臣籍に降下させることを上表すると、今度は許された。上表は一度では許されないのが通例であるのと、最初は全員であったことが認められなかった理由と推測されている。平というのは桓武天皇が平安京(「多比良…

ホリショウのあれこれ文筆庫4ヶ月前

第1072話 森蘭丸の兄・鬼武蔵こと森長可序文・武蔵守→鬼武蔵→武蔵塚 堀口尚次 森長可(ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏。父は森可成(よしなり)。兄に森可隆(よしたか)、弟に森成利(なりとし)〈蘭丸〉ら。受領名は武蔵守。 天正12年、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父(がくふ)〈義理父〉である池田恒興と共に秀吉方に付いた。膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望…

syusyunakのブログ5ヶ月前

実朝の首 葉室麟平成22年5月25日初版発行 平成26年5月25日9刷発行 裏表紙「建保7(1219)年正月、鎌倉・鶴岡八幡宮で将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。背後には北条や三浦の影があったが、公暁も三浦義村に殺されてしまう。混乱の中、少年・弥源太は実朝の首を持ち逃げする。権威失墜を恐れる幕府では、尼将軍・北条政子が悲痛な深謀を巡らせていた。京からは後鳥羽上皇の弔問使が下向、混乱は深まる。幕府、朝廷、弥源太たち三つ巴の駆け引きの行方。新鋭が挑む鎌倉幕府最大の謎、傑作歴史長編。」 雪の降る中、鶴岡八幡宮の儀式が終わり、石段を降りる28歳の実朝を20歳の公暁が斬殺し首を抱えて疾駆して消えた。公暁は前将軍で実朝の…

びーの独り言6ヶ月前

2024/04/19(金)年休「太子」東横イン奈良王寺駅南口。結局、6時まで寝た。6時半からの朝食には一番乗りだった。今日は太子町を狙った。前回の古市で味をしめたのだった。 706発、大和路線JRなんば行きで柏原まで。柏原駅からは近鉄道明寺線に乗り換え。道明寺線は2011/5/5の乗り潰し以来の乗車。まさか用事があって乗るとは思わなかった。JRのホームの端に切り欠きのホームがあり、これが道明寺線だった。ホームには改札機があり、近鉄に乗り換えるにはタッチしなければいけなかった。道明寺線は柏原から道明寺のわずか2.2kmを結んでいた。地図上で見るとなぜ存在するのかわからないような盲腸線だったが、元々は近鉄で一番古い区間だった。乗ろうと…

中世文学漫歩6ヶ月前

番外編:太平記の人々に出会う旅② 第87回「鎌倉市・稲村ヶ崎の奇跡」後醍醐天皇に従って、実質的に鎌倉幕府を滅亡させたのは新田義貞です。義貞は上野国新田庄出身の河内源氏で、頼朝や義仲と同じく八幡太郎義家の子孫になります。 【稲村ヶ崎】 元弘三年(1333)、義貞は小手指河原(所沢市)・分倍河原(府中市)で幕府軍を破り、鎌倉へ向かいます。しかし、三方を山、一方を海で守られた鎌倉に攻め入るのは困難です。義貞は極楽寺の切り通しに向かいますが、その手前にあるのが稲村ヶ崎です。 【稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地】 稲村ヶ崎の狭い砂浜の道は障害物で塞がれており、海上には敵の船が待ち構えています。義貞は海に向かって龍神に祈り、黄金作りの太刀を海中に投げ入れると、見る見る潮が引いて…

鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす6ヶ月前

大江山へ!源頼光&四天王の素性に迫る!~後編「酒呑童子絵巻」 根津美術館所蔵 というわけで後半です。前編を読んでくださった方、ありがとうございます。 前編ではもともと武士とは「破邪/辟邪の力」を朝廷から期待されており、その力でもって災厄やケガレが朝廷に降りかかるのを防ぐ役割を担っていた。酒呑童子伝説で有名な源頼光とその子孫が代々任じられていた「大内守護」という役割においても現代的な警備員や近衛兵とは違い呪術的な力も求められており、それこそ本来の意味での「武力」であった...しかしそれも鵺退治でおなじみの源頼政が打倒平家に挙兵して敗死したのを機に「武力」といえば「破邪/辟邪」ではなく現在の我々が思い浮かべる暴力的な力が主流になっていく..…

鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす6ヶ月前

大江山へ!源頼光&四天王の素性に迫る!~前編勝川春亭「頼光朝臣酒呑童子オ退治之図」 先月末、京都府福知山市にある大江山へ鬼退治へ出かけてきました。 当日の天気予報は朝方まで曇り、午前の半ば過ぎくらいから曇りになる...だったのですが、朝から降り続けていた雨は止む気配はおろかどんどん強まり、有名な鬼嶽稲荷神社に到着するころには暴風&雪に見舞われる始末。 雲海が見られることで知られる当神社前の絶景スポットでは霧&もやで何も見えず(というか強風にあおられて立ってられなかった)、もう少し先に進めば大江山の主峰、仙丈ヶ岳まで(&酒呑童子が住んでいたと言われる「鬼の洞窟」も)行くことができたのですが、「さすがにこれ以上はちょっとマズい」と判断して志…

iinira’s blog6ヶ月前

源義弘:平安時代の武士と政治家アフィリエイト広告を利用しています 源義弘:平安時代の武士と政治家 生涯 生誕: 不詳 没: 元暦元年(1184年)5月4日 家柄: 河内源氏 父: 源為義 母: 六条大夫重俊の娘 功績 鎌倉時代の武将: 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍。 志田三郎先生: 別名としても知られる。 エピソード 常陸南部の抵抗: 関東に下向し、信太荘を開墾。志田三郎先生としても知られる。 頼朝との戦い: 鎌倉攻撃を試みるが敗北。最終的に斬首される。 志田義広は、源平の争乱時代に活躍した武将であり、その生涯は波乱に満ちています。 NHK 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」THE BOOK【電子書籍】[ …