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崇徳院

崇徳院

平安時代末期の第75代天皇(在位:1123年〜1142年)。崇徳天皇。諱は顕仁(あきひと)。
譲位後、新院と称した。讃岐に配流された後は讃岐院と呼ばれた。

保元の乱まで

鳥羽天皇の第1皇子として1123年即位したが、後に父に強制的に譲位させられる。
鳥羽天皇は、弟の近衛天皇後白河天皇を相次いで擁立したため、崇徳院は朝廷内での権力回復を図り、保元の乱を起こすが、平清盛らに鎮圧され失敗。讃岐に配流された。

配流後

乱後、仏教に頃倒し、経典の写本作りに専念。完成した写本を京の寺に収めようと朝廷に差し出したが、治天の君・後白河法皇の影響下、朝廷は拒否し、写本を送り返してきた。よって、崇徳院が激怒し、「叔姪、兵を交へ兄弟相仇す。古自り之有り。朕、懴悔の爲めに親ら佛經を書するは、特に冥福を修す。今生の爲め非ず。而して猶且つ之を藏するを許さ不。」といい、自分の舌を噛み切って、その血でせっかくの写本に呪いの文章を書き、さらに「願くば大魔王と爲り、天下を擾亂せん。5部の大乘經を以て惡道に廻向す。民を皇に、皇を民にす。」という言伝いがあるという。この後、朝廷を恨み、夜叉のような姿で死んだと伝えられる。

怨霊、妖怪説

菅原道真平将門と並ぶ日本三大怨霊とされる。また、崇徳院の大天狗として白面金毛九尾の狐酒呑童子と並ぶ日本三大妖怪ともされる。
崩御後、天変地異が相次いだため怨霊とされ、丁重に祀られた。
鎌倉時代以降、武士の世が続いたのも院の呪いとされている。孝明天皇が霊魂を鎮めるために京都に移すよう命じ、明治天皇の代にようやく今の白峰神宮に遷宮された。

歌人

歌人としても知られていて、詞花和歌集、小倉百人一首に収録された「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ」の歌が有名。

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