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平将門

平安時代中期の武将。生年不詳、西暦903年、916年とする説がある。没年940年。
『平家物語』の冒頭で「承平の将門」と語られるのはこの人。
京で藤原忠平と主従関係を結び武士としての出世を願うが、父の急死により帰郷。ところが帰ると叔父の平国香らが父の遺領を勝手に相続していたため、平将門の乱を起こす。
その後、下総の猿島(茨城県)に独立国を立ち上げようと画策したが平貞盛*1藤原秀郷*2らによって討死。

将門の御霊

崇徳院菅原道真と並び日本三大怨霊の一人とされる。
将門の首塚は東京・大手町のど真ん中にある*3
が、朝廷からは中世まで単なる反逆者とされていた。その間は現地の人々によって崇拝される。

江戸時代

江戸幕府3代将軍・徳川家光*4の代に「将門は朝敵に非ず」とされた。幕府は朝廷を霊的に抑えようと将門の霊魂を盛んに崇拝し、神田明神の遷座などを行う。

戦前

再び反逆者として問題視され、将門を祭る寺社のいくらかがその本尊や祭神を変えてしまう。江戸幕府が将門の神霊を崇めて朝廷を抑えたとされることから、明治天皇はその神霊を鎮めるために神田明神へ行幸するも、その話を聞いた神主が事前に祭神から外してしまった。
先の大手の町の首塚も撤去されようとしたが関係者の不審死が相次ぎ、将門の祟り*5と恐れおののいた政府は元のように戻してしまう。

戦後

GHQによって再び首塚の撤去が画策されるも、またしても関係者の不審死が相次ぎ頓挫。
民主主義へと移り皇国神道の呪縛も解けたことから、神田明神などは再び平将門を祭神に据える。

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