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対馬国

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地理

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つしまのくに

かつて日本の地方行政区分だった国の1つで対馬島などを領域としていた。現在の長崎県対馬市の行政区域にほぼ一致している。西海道に含まれていた。

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関連ブログ

書痴の廻廊7ヶ月前

尊皇攘夷の秋は今 ―明治三十七年、対馬―もはや開戦秒読みの時期。 再三の撤兵要求を悉く無視し撥ねつけて、帝政ロシアが持てる力と欲望を極東地域に集中しつつあったころ。 スラヴ民族の本能的な南下運動を阻まんと、大和民族が乾坤一擲、狂い博奕の大勝負に挑まんとしていたあの時分、すなわち明治三十七年、日露戦争開戦間際。 『報知新聞』に投書があった。 送り手は、玄界灘の一島嶼、対馬に住まう老人である。 (『Ghost of Tsushima』より) (ははあ) 担当記者は内心密かに、 (来るべきものがついに来たか) と頷いた。 中世期、元寇という日本史上稀にみる本格的な対外戦争を経験した土地だけに、およそこの種の騒ぎには敏感たらざるを得ないのだ…

#報知新聞#日露戦争#対馬国#投書#対外戦争#ゴーストオブツシマ

関連ブログ

北条高時.com1年前

対馬の歴史をざっくり解説〜国生み神話から白村江、元寇、倭寇、朝鮮通信使、日本海海戦まで壱岐対馬に行って来たので、前回の壱岐に続いて今回は対馬の歴史と旅の備忘録をまとめてみた。対馬といえば、コミックス『アンゴルモア 元寇合戦記』やゲーム「GOAST OF TSUSHIMA」で注目のスポットじゃな。 対馬やまねこ空港

#対馬国#対馬

戦国日本の津々浦々 ライト版2年前

陳 仏奴 ちん ぶつど中国明朝の浙江出身の人物。対馬の時羅が浙江を襲撃した際に夫の符旭とともに掠われ、時羅の妻とされたという。時羅が朝鮮を訪れた際に、同国の官人に救出され、明朝に送還された。 朝鮮王朝による被虜中国人の送還 参考文献 朝鮮王朝による被虜中国人の送還 1417年(応永二十四年)九月、対馬の時羅(四郎)が「貿販」(交易)のために朝鮮の慶尚道富山浦を訪れた。これより以前、時羅は中国明朝の浙江を襲撃しており、その際に陳仏奴は掠われて時羅の妻とされ、陳仏奴の夫であった符旭は奴とされたという。 kuregure.hatenablog.com 朝鮮の万戸・金従善は富山浦において、雑穀20余石で時羅から符旭を購入。…

#倭寇#対馬国

戦国日本の津々浦々 ライト版2年前

被虜唐僧 ひりょとうそう応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。 朝鮮使節の見た中国人の境遇 中国出身の奴と対馬 参考文献 朝鮮使節の見た中国人の境遇 応永二十六年(1419)、朝鮮軍が対馬を襲撃した「応永の外寇」が起こる。翌応永二十七年(1420)、朝鮮政府は対馬や室町幕府との関係修復をはかり、日本回礼使として宋希璟を派遣。釜山を出発して対馬に到着した希璟一行は、同年二月十七日、西泊(対馬市上対馬町西泊)に入った。 この対馬において、宋希璟の船を…

#倭寇#対馬国#宋希璟#海民

戦国日本の津々浦々 ライト版2年前

イルカ(対馬) いるか中世の対馬国の海域では、イルカなどの「大物」は、島主である宗氏への上納が義務付けられていた。一方で宗氏は海士に浦々でのイルカ漁を免許。対馬では海士を主体としたイルカ漁が近世初頭まで続いたという。 宗氏への上納 海士の活動 参考文献 宗氏への上納 応永十一年(1404)十二月、対馬の島主・宗貞茂は与良郷大山村(現在の対馬市美津島町大山)の在地領主・大山氏*1に対し、「八かい(海)の大もの(物)」の取り沙汰を命じている(「大山小田文書」)。「八かい(海)」とは、対馬八郡(対馬全島)の海域を意味し、「大もの(もの)」はイルカやマグロなど大型の海中生物を指していると考えられている。 またこの時の書下に…

#イルカ#対馬国#海士#宗氏

戦国日本の津々浦々 ライト版3年前

火砲(対馬) かほう対馬の前期倭寇が用いた火砲。鋳鉄製。中国明朝から日本に移入されたものとみられる。 対馬の中国製火砲 朝鮮王朝による硝石製造技術の秘匿 参考文献 対馬の中国製火砲 1418年(応永二十五年)八月、朝鮮王朝の敬差官として対馬を訪れた李藝は、中国で製造された鋳鉄製の火[火甬]・碗口(バズーカ砲風の小型火砲)を、「賊倭」の処で入手して本国に持ち帰った(『世宗実録』)。朝鮮では、これらの火砲は銅によって鋳造していたが、銅の産出が乏しいため、十分に製造することができなかった。李藝は、対馬で得た鋳鉄製の火砲を試造し、各州県に配備することを提言している。 当時の朝鮮では、日本の火砲の技術は、倭寇によって捕虜と…

#倭寇#対馬国#火器

水無月 龍馬の日本探訪記3年前

【龍宮城伝説】和多都美神社【対馬國】・Youtube 水無月の日本探訪記 【龍宮城伝説】和多都美神社【対馬國】https://youtu.be/zTv_aeNv7_w 長崎県は対馬の和多都美神社。 祭神は彦火々出見尊いわゆる山幸彦 この神社の参道が海に通じてるのが最高にいいね 南国な感じも素晴らしい。 そして何よりもこの三角鳥居、実に珍しいものがある。 こういう珍しいものがあるから神社巡りはやめられない。 そして、この対馬という土地は面白いもんで 大陸から近い場所なせいか、鉄器と銅器が程同じ時代に入ってきている場所。 対馬の資料館めぐって気づいたのだが、当時の鉄の釣り針が展示されている。 当時鉄というものは大変珍しく、貴重なもの…

#旅行#カメラ#神話#パワースポット#日本神話#山幸彦#対馬国#和多都美神社#三角鳥居

日本中近世史史料講読で可をとろう3年前

天正15年10月14日宗義調・宗義智宛豊臣秀吉朱印状態染筆候、肥後*1国一揆等少〻令蜂起付而為可成敗、小早川左衛門佐*2・黒田勘解由*3・森壱岐*4被差遣候、毛利右馬頭*5も自身罷立候、猶様子為可被聞召、小西摂津守*6被差遣候、依一左右御人数之儀、大和大納言*7・江州中納言*8・備前宰相*9、其外四国之者共を始、出陣之儀可被仰付候、九州之儀者五畿内同前ニ被思召候条、何之道*10ニも堅被仰付候ハて不叶儀候、殿下*11も来春者至博多被成御動座、唐・南蛮*12・高麗国迄可被仰付候、然者高麗国之儀、以最前筋目*13急度相究可申越候、猶小西可申候也、 十月十四日*14(朱印) 宗讃岐守とのへ*15 宗対馬守とのへ*16 (三、2355号) (書き下し文)…

#豊臣秀吉#宗義調#宗義智#肥後国人一揆#肥前一揆#朝鮮国王#対馬国#自力救済

暇な年寄りtomyKのブログ1日前

卑弥呼・天照大神の素顔2024年10月9日時点での考察 ど素人ですので、他人の意見を聞く度 今までの考えが大きく変わります。ご容赦ください。 (宗書)478年中国に使いを出した 倭王武が、21代雄略天皇だとすると 神武天皇の間には20代居るので278年が、神武天皇の時代となる。それから5代遡ると天照大神の時代は まさに 卑弥呼の時代となる。 第10代 崇神天皇の時代に 第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそ ひめのみこと =箸墓古墳)が出て来るので、卑弥呼とは80年~100年ほど違う。〔日本書紀に崇神天皇が占わせたと書かれているので、巫女は桃の種を使った〕 この事を前提として 話を進めます。 …

横から失礼します4日前

邪馬台国から大和へ 19 -邪馬台国への旅程10 邪馬台国までの距離ー邪馬台国までの距離について考えた話です。 不弥国までは辿り着いたが これ以上は手詰まりか と考えられてきたが 不弥国までは辿り着いたが 前回の記事で、九州上陸後の旅程を不弥国まで考えました。 yokositu.hatenablog.com 結論的には、不弥国は周防灘に面した、築上町築城付近ということになりました。 残る旅程は、投馬国、邪馬台国への2行程となります。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、対馬国に至る ↓ 南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、末廬国に至る ↓ 東南、陸行、500里、伊都国に至る …

シン・ニホンシ5日前

433.建平鳥と出雲に渡来し古代日本の国造りを行った西方由来の民族とは国造りの祖神とされる、古事記に記された建平鳥(タケヒラトリ)に込められたメッセージの謎を解く。これより西方由来の民族の出自を明かしていく。次の流れで紹介していく。・建平鳥(タケヒラトリ)・国造の祖神・天之菩卑(アメノホヒ)・7氏族の国造と現在の都道府県・纏向型前方後円墳と魏や呉への遣使・天之菩卑と墓碑・国造と虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)・タケヒラトリとヒラクテリ・ミズラとヒラクリティ まず、建平鳥について。 ■建平鳥(タケヒラトリ)古事記に登場し、日本書紀には登場しない神である。・武日照(タケヒナテリ)・武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)・天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)もこの建平鳥と同一の…

late4thesky’s blog5日前

邪馬台国はどこにあったか?前回はNHK朝ドラの「虎に翼」についての感想を書きました。 今週からは新番組「おむすび」が始まっています。 「おむすび」の中で、登場人物(祖父)が糸島は昔の伊都の国で、卑弥呼がいたかもしれないと語っていました。(ちなみに、祖父の行きつけのスナックの名称も「ひみこ」でお店のママ?も名前がひみこさんとか・・・) 糸島が魏志倭人伝の伊都国だというのは通説ですが、卑弥呼のいた邪馬台国とは全く別だと考えられています。(祖父は、王貞治に一本足打法を勧めたとも言っていたので、そんなキャラクターなのでしょう) 以前、邪馬台国について書いた時と同じですが、魏志倭人伝の位置についての記述を簡単にまとめると・・・ …

横から失礼します7日前

邪馬台国から大和へ 18 -邪馬台国への旅程9 末廬国から不弥国までー末廬国から不弥国までの旅程について考えた話です。 末廬国から不弥国まで 先ずは結論 末廬国は福津 末廬国から伊都国 伊都国から奴国 奴国から不弥国 末廬国から不弥国まで 前回の記事で、一大国から海を渡った末廬国が、従来考えられて来た松浦ではなく、宗像付近ではないかと結論付けました。 yokositu.hatenablog.com 今回は、やっと九州本土に上陸を果たした末廬国から不弥国までの旅程を考えます。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、対馬国に至る ↓ 南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、末廬国に至る…

横から失礼します14日前

邪馬台国から大和へ 16 -邪馬台国への旅程7 末廬国への旅程と松浦ー一大国から末廬国への旅程と松浦についての話です。 末廬国に渡る 方角が無い 末廬国に渡る 前回の記事では、対馬国から一大国への旅程と、海を渡る記述における方角の有り無しについて考えました。 yokositu.hatenablog.com 方角の有り無しについては、「出発時に目的地が視認出来ないときは、方位を記す」という結論でした。 今回は、次の末廬国までの旅程を見てみます。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、対馬国に至る ↓ 南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、末廬国に至る ↓ 東南、陸行、500里、伊都…

横から失礼します18日前

邪馬台国から大和へ 15 -邪馬台国への旅程6 一大国への旅程と方位ー対馬国から一大国への旅程と方位についての話です。 一大国に渡る なぜ「南へ」が付くのか 到着するのに必要なもの 一大国に渡る 前回は、狗邪韓国から対馬国への旅程と、『魏志倭人伝』で使われている「里」の長さについて考えました。 yokositu.hatenablog.com 今回は、次の一大国までの旅程を見てみます。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、対馬国に至る ↓ 南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、末廬国に至る ↓ 東南、陸行、500里、伊都国に至る ↓ 東南、100里、奴国に至る ↓ 東、100里、…

横から失礼します21日前

邪馬台国から大和へ 14 -邪馬台国への旅程5 対馬国への旅程と短里ー狗邪韓国から対馬国への旅程と短里に土江の話です。 対馬に渡る 1000余里 巨済島と対馬の距離から 対馬に渡る 前回までで、帯方郡から邪馬台国までの旅程のうち、最初に記述のある狗邪韓国が、現在の巨済島にあったと結論されました。 今回は、次の目的地対馬国までの旅程を考えます。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、対馬国に至る ↓ 南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、末廬国に至る ↓ 東南、陸行、500里、伊都国に至る ↓ 東南、100里、奴国に至る ↓ 東、100里、不弥国に至る ↓ 南、水行、20日、投馬国…

横から失礼します1ヶ月前

邪馬台国から大和へ 12 -邪馬台国への旅程3ー「韓伝」から「狗邪韓國」について考えた話です。 前回はやや強引? 前回の記事で、『魏志倭人伝』の邪馬台国への旅程で最初に出てくる国「狗邪韓國」が、名称から想像されるものと違い、倭人の国であり、巨済島がその場所だったのではないかと考えました。 yokositu.hatenablog.com これについては、実のところ都合の良い解釈をしていると言えないこともないのです。 例えば、「到其北岸狗邪韓國」の「北岸」を「倭の北の端の水面に接する岸」と解釈したわけですが、これについては別の解釈もあり得ます。 「湖の北岸」という言い方もあるように、対馬海峡を挟んだ北岸という意味と取ると、「狗邪韓國」は韓人の国…

横から失礼します1ヶ月前

邪馬台国から大和へ 11 -邪馬台国への旅程2ー狗邪韓國について考えた話です。 狗邪韓國は対馬の対岸 狗邪韓國は倭人の国 狗邪韓國はどこに 狗邪韓國は対馬の対岸 狗邪韓國までの旅程は、次のように書かれています。 從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 郡から倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、其の北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。 この狗邪韓國についてですが、前回も書いたように、この後の旅程で、海を渡って対馬に至るという事なので、対馬の対岸の朝鮮半島側にあることは確かです。 yokositu.hatenablog.com 前回考えた帯方郡からの航路で考えても、矛盾はな…

横から失礼します1ヶ月前

邪馬台国から大和へ 10 -邪馬台国への旅程1ー邪馬台国への旅程について考えた話1です。 途中までですが 帯方郡から狗邪韓国 途中までですが 前回までで、魏の後を継いで西晋王朝を開いた司馬氏に、天命を受けるだけの徳が有ったことを示すために『魏志倭人伝』の邪馬台国への旅程の一部が書き換えられていることが分かりました。 書き換えられたのは、投馬国、邪馬台国両国への旅程で、その距離が、里数ではなく日数表示になっている部分だと考えました。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、対馬国に至る ↓ 南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る ↓ 海を渡る、1000余里、末廬国に至る ↓ 東南、陸行、50…

杜の中の閑話室2ヶ月前

長崎ひとり旅vol.1 対馬市「海神神社」フェリーちくし 4時45分。対馬へと着岸した。 遂に対馬というところだが、誰からも歓迎されることなく、フェリー乗り場を除いては未だ深い夜が広がっている。おまけに暗いばかりでなくただただ寒い。ふうと息を吐くと僅かに白くなった。携帯には12度と表示されているが本当だろうか。 厳原の町並み 徐々に明るくなってきた 長い列を作って乗船したあの乗客たちは、私がフェリー乗り場を幾枚か捉える間に散り散りになって、私はひとり厳原の町へ歩き出した。ここで今日の旅程をざっくりと書き出しておく。 まず近世の船着場跡だという対馬藩の「お船江跡」へ向かいて、「対馬博物館」へお邪魔する。午後はレンタカーを借りて「海神神社…

横から失礼します2ヶ月前

邪馬台国から大和へ 3 -旅程の書き換え内容ー邪馬台国への旅程の書き換え内容についての話です。 前回の話から 旅程の疑問点 『魏志倭人伝』に証拠が 書き換え内容 前回の話から 前回は、邪馬台国への旅程とそれに対する解釈について見てみました。 yokositu.hatenablog.com 旅程を素直にたどっていくと、九州を縦断した上にはるか南方にまで至ってしまうことになってしまいます。 この旅程について、距離などの考察から九州にあったとする説、方角が違っていたとして瀬戸内海の先の畿内だったとする説、の2大勢力を中心に、ほぼ全国にその場所を求めるという現状を見ました。 そんな中で、「「邪馬台国」への旅程は、情報操作の為に一部が書き換えられて…

横から失礼します2ヶ月前

邪馬台国から大和へ 2 -邪馬台国への旅程と解釈ー邪馬台国への旅程とその解釈についての話です。 前回の話から 邪馬台国への旅程 様々な解釈 私の説は 前回の話から 前回は、邪馬台国に関する基本的な説明回でした。 yokositu.hatenablog.com その中で、邪馬台国に関するものの中で最大の論点が、その邪馬台国までの旅程にあると書きました。 つまり、その最終目的地である邪馬台国が、はたしてどこにあったのか特定出来ていないのです。 今回は、その旅程とそれに対する解釈について考えます。 邪馬台国への旅程 まず、検討の対象となる、『魏志倭人伝』に記された、邪馬台国への旅程を見てみましょう。 帯方郡 ↓ 南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪…

大和の国のこころ、万葉のこころ3ヶ月前

遣新羅使人の歌(24)-3684~3687訓読 >>> 3684秋の夜を長みにかあらむなぞここば寐(い)の寝(ね)らえぬもひとり寝(ぬ)ればか 3685足日女(たらしひめ)御船(みふね)泊(は)てけむ松浦(まつら)の海(うみ)妹(いも)が待つべき月は経(へ)につつ 3686旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹(いも)し思ひ悲(がな)しも 3687あしひきの山飛び越ゆる鴈(かり)がねは都に行かば妹(いも)に逢ひて来(こ)ね 要旨 >>> 〈3684〉秋の夜が長いせいであろうか、どうしてこんなに寝るに寝られないのか、たった一人で寝るからだろうか。 〈3685〉足日女(たらしひめ)の御船が泊まったという、この松浦の海、その名のように妻が…