島津忠義とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな (original) (raw)

島津忠義

(

社会

)

しまづただよし

幕末から明治時代の大名、華族。薩摩藩の第12代(最後)の藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等。

幼名は壮之助。通称は又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)であったが、藩主在任中は島津茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ

ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。2ヶ月前

鹿児島縣護國神社、幕末・維新の薩摩藩の殉難者を祀ったのがはじまり鹿児島縣護國神社は鹿児島市草牟田に鎮座する。護国神社は全国にあり、英霊(国家のために殉難した人の霊)を祀る。鹿児島縣護國神社は鹿児島県出身の英霊が7万7000余柱を御祭神とし、郷土の守り神として崇敬されている。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀 御祭神 参詣する 鹿児島縣護國神社頓宮 御祭神、幕末・維新の殉難者から 日下部伊三次翼命 日下部裕之進信政命 有村次左衛門兼清命 有村雄助兼武命 有馬新七正義命 柴山愛次郎道隆命 田中謙助盛明命 弟子丸竜助方行命 西田直五郎正基命 橋口壮助隷三命 橋口伝蔵兼備命 森山新五左衛門永治命 道島五郎兵衛正邦命 山本四郎義徳命 美玉三平親輔命 是枝柳右…

#鹿児島縣護國神社#護国神社#幕末#明治維新#神社#戊辰戦争#薩摩藩#島津忠義#鹿児島

関連ブログ

旅人サイファのお出かけブログ3年前

桜島を眺める庭園の絶景!『仙巌園』【秋の鹿児島旅行記】⑤こんにちは!旅人サイファです。 本日も【秋の鹿児島旅行記】からの記事をお送りします。 今回は前回からの引き続き、「尚古集成館」と同じ敷地内にある『仙巌園(せんがんえん)』へ向かいます。 いや!ここがまた素晴らしかった! いかがですか!この表門の風格! それもそのはず。ここ『仙巌園』は、江戸時代中期の1658年に、第2代薩摩藩主「島津光久」によって作られた藩主別邸なのです。 その後、代々の藩主が愛した別邸として使われていましたが、明治維新とその激動で殿様の生活は一変します。 一時東京で生活していた最後の殿様「島津忠義」は、明治21年、本国鹿児島に帰郷。その際の彼ら一家の住まいとして、ここ『仙巌園…

#鹿児島県#尚古集成館#仙巌園#島津忠義#桜島

ガエル記4時間前

『昭和天皇物語』能條 純一 その3ネタバレします。 大正4年3月 この頃、裕仁皇太子は学友5人と共に各地の天皇陵、火葬塚などを行啓している。 東宮御学問所歴史御用掛、白鳥庫吉の教育方針だった。 足立タカは裕仁殿下の10年間の養育日誌を記していた。それは御側日誌とは別の記録だった。 木戸孝正はこれを受け取り読んだ。 なかに「こころえ」の一冊がありそこにはタカの殿下への深い愛情がこめられていた。 「私の次に殿下のお世話をする方に」と書いてあるから突如タカ自身が掛から外れるような場合を想定して記したのだろうか。 そこには殿下が草花が好きなこととイソップ物語が好きで自作のイソップ物語を話される時があってその時は心から褒めてあげて欲しい…

ホリショウのあれこれ文筆庫3日前

第1206話 賞典禄序文・薩長土肥で分配 堀口尚次 賞典禄は、明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。 戊辰戦争から箱館戦争の間における旧幕府軍及び佐幕派諸藩との戦いにおける官軍の勝利は、明治政府の構成員であった公武の人々のみならず、当初は日和見的な態度を取っていた諸藩の官軍への参加もあってのものだったため、官軍参加諸藩には旧幕府や佐幕派諸藩・旗本から政府が没収した所領の再配分を望む者が少なくなかった。大久保利通や木戸孝允らはこれに反対したが、諸藩の強い要請から明治2年6月に政府は功労のあった公家・大名・武士・兵隊などに賞典禄という恩賞を出すことを決定し…

ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。14日前

『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』、なんだかんだで700年島津(しまづ)氏は12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得て、その歴史がはじまる。日向国・大隅国・薩摩国にまたがる島津荘(しまづのしょう)を領したことから「島津(しまづ)」を名乗りとした。また、三ヶ国の守護職にも任じられる。 初代の島津忠久(惟宗忠久)から29代当主の島津忠義(ただよし)まで、じつに約700年間にわたって南九州を治めた。 こんな本が出た。読んでみた。 『島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』著/新名一仁・徳永和喜 島津氏 鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略 (PHP新書) 作者:新名 一仁,徳永 和喜 PHP研究所 Amazon 700年の歴史が「…

ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。2ヶ月前

鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」、海を渡った19人のサムライ「若き薩摩の群像」はJR鹿児島中央駅前の広場にある。 「若き薩摩の群像」 19人の像が並べられている。彼らは何なのかというと、慶応元年(1865年)に薩摩藩がイギリスに派遣した一団だ。「薩摩藩遣英使節団」と呼ばれている。外交使節3名と通訳1名、留学生15名(第一次薩摩藩英国留学生)からなる。留学生は「サツマスチューデント」と呼ばれたりもする。メンバーは次のとおり。 外交使節/新納久脩(にいろひさのぶ)・五代友厚(ごだいともあつ)・寺島宗則(てらしまむねのり) 通訳/堀孝之(ほりたかゆき) 留学生/町田久成(まちだひさすみ)・町田申四郎(しんしろう)・町田清次郎(せいじろう)・畠山義成(はたけや…

夏さ、また。2ヶ月前

大学時代の友達にあう5月5月に大学時代の友達が東京に来てくれました。明日推しのライブらしく3時間ほどしかし会えなかったのだけど、コロナ禍ぶりなのでとても嬉しかったです。 池袋であんスタのカフェに寄ってから来るとの事なので、有楽町に集合。待ち合わせが比較的容易であることと、ご飯を食べる時に飯屋を探すのが楽だからという理由での選択でした。 仕事終わりに集まった。話を聞くとカフェで沢山食べて満腹らしい。ならば腹ごなしに歩こうということで、丸の内のKITTEの博物館に行くことにした。数年ぶりなのに歩いてる時の会話が推し活の話ばかりで、今大学3年生だったっけ?と錯覚したくなった。3年生に戻りたい。 博物館の展示方法が西洋っぽい…

ビクティニと昔ロマンのブログ4ヶ月前

奄美大島&鹿児島旅行記 2024GW 4日目前篇 桜島が見える仙巌園を見物みなさん、こんにちは。 今回は、フェリーで奄美大島から鹿児島まで移動しまして、仙巌園せんがんえんを見物します。 なお、4日目では前篇と後篇に分けてお送りします。 フェリーから見る薩摩半島 夜に奄美大島を出発し、深夜にトカラ列島、屋久島や種子島を越え・・・。 夜が明けると、フェリーは鹿児島湾に入ってきました。 鹿児島湾は、九州(本土)南端に存在する湾で、姶良カルデラおよび指宿カルデラによって形成された湾です。薩摩半島と大隅半島の2つの半島に囲まれた、地形的に珍しい内海ですが、水深は一番深いところで237メートルあります。 ところん:おはようございますビクティニさん、薩摩半島が見えてきましたよ! …

WALK4ヶ月前

【旧藩主の邸宅⑥】重要文化財<旧島津家本邸 本館>(清泉女子大学本館)訪問したのはだいぶ前になってしまったけれど現在は清泉女子大学本館である「旧島津家本邸」に行ってきました。

愛に恋4ヶ月前

日本の偉人伝 Part.9 五味康祐、剣豪小説で知られますが麻雀、占い、オーディオなど様々な分野で著作を出し大変人気がありました。 檀一雄です。ライフワークとなった火宅の人などの他、檀流クッキングなど料理本も執筆しています。最後の無頼派と呼ばれたりもしましたが、しかしどうだろう、失礼ながらあまりモテるようなタイプとも思えないが女性遍歴は豊かだった。だがどうしたわけか、娘のふみにはとんと浮いた話もなく、今年、ついに70歳を迎える。 1863年の2月14日は日本の思想家、文人の岡倉天心が生まれた日です。語学にすぐれ、ニューヨークで『茶の本』を出版しました。日本の美術史学の開拓者で日本美術概念のの確立に寄与し、英文で著作を発表…

ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。5ヶ月前

近世における島津氏の分家、江戸時代の「〇〇島津家」いろいろ17世紀以降の島津氏の分家についてまとめてみた。 島津氏にはもともと分家が多い。鎌倉時代から続く歴史の長さに加え、子沢山な当主も多かったりする。そんなわけで、一族の枝葉をいっぱいに広げる。中世から続く家柄もあり、江戸時代に立てられた分家もあり。 中世の島津氏 薩摩藩における分家 薩摩藩主家/島津本家 重富島津家(越前島津家) 加治木島津家 垂水島津家 今和泉島津家 玉里島津家 日置島津家 都城島津家 花岡島津家 宮之城島津家 永吉島津家 豊州島津家(黒木島津家) 知覧島津家 佐志島津家(佐司島津家) 新城島津家 市成島津家 島津本家準三男家(忠広一流) 島津本家準二男家(島津大蔵家) 島津本家…

開けて悔しき玉手箱のブログ5ヶ月前

大正天皇の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)妃に内定していた久邇宮家の良子女王(後の香淳皇后)の家系に色覚異常の遺伝があるとして、1920年(大正9年)から1921年(大正10年)にかけて元老・山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫った事件である。天皇の血統を重んじる山縣らに対し、良子女王の父・久邇宮邦彦王や、皇太子や良子女王に倫理を教えていた杉浦重剛らが人倫論を訴え抵抗した。当時世間一般には知られなかったものの、薩長閥の対立や反藩閥勢力の動き、さらには皇太子の外遊計画への反対運動も絡んで、宮中から政界、右翼な宮中某重大事件 ウィキペディア フリーな encyclopedia 華族 皇族 東久邇宮稔彦王 宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)は、大正天皇の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)妃に内定していた久邇宮家の良子女王(後の香淳皇后)の家系に色覚異常の遺伝があるとして、1920年(大正9年)から1921年(大正10年)にかけて元老・山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫った事件である。天皇の血統を重んじる山縣らに対し、良子女王の父・久邇宮邦彦王や、皇太子や良子女王に倫理を教えていた杉浦重剛らが人倫論を訴え抵抗した。当時世間一般には知られなかったものの、薩長閥の対立や反藩閥勢力の動き、さらに…

arimahamaの日記6ヶ月前

オートファジー949日目と読書三昧2024/4/18木曜日 6時に起床し洗濯と朝食、昼食作り。 ベランダでの水やりを済ませたら、米麹作り。 発酵機の温度設定を最低の25度にしていたからか品温は35度。 設定を31度に上げる事に。 2つの麹蓋に分けたら再び発酵機へ。 やることやったら図書館へ。 返却期限が来た本を返し、予約した本10数冊を受け取り。 帰宅後、早速読書。 まずは西郷隆盛本。 副島隆彦著「真実の西郷隆盛」 この方、島津斉彬公が生存中はめっちゃ好印象だった。 が、2度の遠流から赦免され藩政に復帰した頃から悪くなった。 恐らく、英外交官のアーネスト・サトウや英公使パークスと関わりを持った辺りからだと思われる。 この人が大…

ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。8ヶ月前

樺山氏についてまとめてみた、中世より存在感を放つを島津の支族島津貴久(しまづたかひさ)のいちばんの協力者は、樺山善久(かばやまよしひさ)であろう。 16世紀の南九州において、島津氏は一族どうしで覇権を争った。本家筋の奥州家と、分家の薩州家と相州家と。この中で抗争を制したのが相州家の島津貴久だった。樺山善久は一貫して相州家に協力し、覇権の確立とその後の勢力拡大に貢献する。 樺山氏は島津氏の支族である。その歴史は南北朝争乱期にまで遡る。そして、なかなかの存在感を放っているのだ。そんな樺山氏について、ちょっとまとめてみた。 初代/島津資久(樺山資久) 2代/島津音久(樺山音久) 3代/樺山教宗 4代/樺山孝久 5代/樺山満久 6代/樺山長久 7代/樺山広久 …

旅人サイファのお出かけブログ9ヶ月前

【鹿児島】島津家歴代当主のお墓がズラリ!島津家墓地『福昌寺跡』が破壊されたのはなぜ?『福昌寺跡』は島津家歴代のお墓がずらり並ぶ菩提寺の跡地! 島津家歴代当主の墓所である『福昌寺』跡地。現在は、鹿児島県立玉龍高校の裏手に広がる、英雄たちの墓所です。 筆者紹介 こちらは本業の傍ら全国47都道府県を旅して年間平均40泊!旅行プランナー/ブロガー「旅人サイファ」が執筆運営しております。 旅人サイファ実績 ・スキルマーケット「ココナラ」にて旅行お出かけカテゴリ売上実績No1 ・グルメサイト「ニッポンごはん旅」公認ライター ・スマートニュース/Yahoo!ニュースほかメディア掲載実績多数 ・「にほんブログ村」国内旅行カテゴリPVランキング1位を記録 こちらの記事は【宮崎鹿児島種子島7泊8…

kukunojiji’s blog10ヶ月前

岸田首相に思う5政治問題は来年も続きそうです。岸田首相に、誰でもが辞めてほしいと思っている事でしょう。しかし、変わりが出てきません。どうせ出てこないなら小石川にでもさせた方がまだましなのかもしれません。中国と米国はどちらが日本にとって悪いのだろうか。中国は日本に対して直接的な攻撃はしてこないように思う。所謂、からめ手のような手段にたけていると思う。周りに影響を及ぼし、次第に泥沼に引きずり込むやり方の方が得意のように思えます。米国は直接的に頭を押さえ、頭に言う事を効かせるやり方が得意のようです。言わば相手を対等なものとして見ず、植民地支配のような感覚で物事を進め、邪魔になる者は消せのような態度が見受けられます。…