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島津忠恒
(
社会
)
【
しまづただつね
】
日本の安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。大名。
初代薩摩藩主で後に島津家久に改名した。
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ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•10ヶ月前
谷山の補陀山慈眼寺跡(慈眼寺公園)、島津忠恒のお気に入りの場所補陀山慈眼寺(ほださんじげんじ)は薩摩国谿山郡谷山郷下福元村(鹿児島市下福元町)にあった。その跡地は慈眼寺公園として整備されている。 慈眼寺跡の紅葉 鹿児島藩(薩摩藩)の初代藩主の島津家久(しまづいえひさ、島津忠恒、ただつね)は法号を「慈眼院殿花心琴月大居士」という。「慈眼寺」はこの法号からとられたものとも。慈眼寺は島津家に大事にされ、江戸時代はかなり興隆していたという。 日羅作の聖観音像を安置していたと伝わる 廃寺跡を公園に 慈眼寺跡を散策 慈眼寺公園の自然遊歩道 日羅作の聖観音像を安置していたと伝わる 慈眼寺に関する情報は、『三国名勝図会』(19世紀に編纂された地誌)にちょっと掲載されてい…
#慈眼寺#慈眼寺公園#島津氏#日羅#稲荷神社#谷山#鹿児島#紅葉#島津忠恒
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ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•1年前
加治木の長年寺跡、山号の「松齢山」は島津義弘の法名から大隅国加治木(かじき)に松齢山長年寺(しょうれいざんちょうねんじ)という寺院があった。現在の鹿児島県姶良市加治木町木田のあたりだ。ここは加治木島津家の菩提寺。寺院跡には墓所が残っている。国史跡にも指定されている。 ちなみに山号の「松齢山」は、島津義弘(しまづよしひろ)の法名「松齢自貞庵主」から。 島津義弘の位牌を置く 加治木島津家の菩提寺 長年寺の墓地へ 島津都美の墓と亀趺碑 椿窓院殿供養塔 島津義弘の位牌を置く もともとは「鳳凰山大樹寺」(「大寿寺」とも)と号し、加治木城(かじきじょう、姶良市加治木町反土)の東麓にあったという。 島津義弘は慶長12年(1607年)より加治木館(姶良市加治木町…
#長年寺#寺院跡#加治木島津家#島津義弘#島津忠恒#島津重豪#島津氏#加治木#姶良市#鹿児島県
歴史ぶらり1人旅•1年前
<天下分け目の関ヶ原8>壮絶! 島津の退き口を追う(義弘編)(3/3)こんにちは、rekikakkunです。 今回は島津の退き口も3回目、 ラストとなります。 前回の島津退き口は、島津豊久公の 足跡を巡りました。 今回は、主将島津義弘本隊の足跡を、 桐野作人さんの著書をベースに、 確認していきたいと思います。 (ほぼ行ってないので写真2枚だけですm(__)m) 義弘の退却ルートはざっくり下図になろうかと思います。 各ポイントの場所に番号を振ってお話していきます。 ~①関ケ原島津陣跡~ 島津軍、関ケ原を正面突破、退き口開始。 関ケ原 島津軍の突破開始(赤矢印が島津隊) ~②伊勢街道、牧田~ 関ケ原を突破し伊勢街道に入った島津義弘本隊は、 養老山系と南宮山の間、伊勢…
#関ケ原#島津義弘#島津退き口#島津忠恒#亀寿
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•2年前
宇喜多秀家が隠れ住んだところ、関ヶ原から逃れ逃れて大隅牛根へ慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける脱出劇というと、島津義弘(しまづよしひろ)がよく知られている。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)から国許の南九州まで、長い道のりを生還した。 関ヶ原から南九州まで落ちのびた大名がもうひとりいる。宇喜多秀家(うきたひでいえ)だ。 宇喜多秀家は島津家に匿われ、大隅国牛根(うしね、鹿児島県垂水市牛根麓)に隠れ住んだ。その潜伏場所を訪れてみた。 宇喜多秀家潜居地跡 宇喜多秀家ってこんな人 関ヶ原から薩摩落ち 宇喜多秀家公潜居地跡を散策 七人塚へ 八丈島に流される 宇喜多秀家ってこんな人 宇喜多秀家は備前国の岡山城(おかやまじょう、現在の岡山市北区)を…
#宇喜多秀家#関ヶ原の戦い#島津義弘#島津忠恒#宇喜多氏#垂水市#牛根#平家の落人#鹿児島県
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•3年前
『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』(著/新名一仁)、対立したけど仲が悪いわけではなさそう戦国時代の島津氏は「強い」というイメージを持たれている。関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」のほか、「木崎原の戦い」「耳川の戦い」「沖田畷の戦い」「泗川の戦い」などでの劇的な勝利がよく知られている。映画・ドラマ・小説・漫画なんかでも、このあたりがクローズアップされる。また、ゲーム作品でも「島津は強い」という設定になっていることがほとんどである。ゲームから歴史に興味を持つ人は多く、こちらの影響もけっこうあるんじゃないかと思われる。 その一方で、天正15年(1587年)に豊臣政権の傘下に入ってからの島津氏はグダグダである。島津義久(しまづよしひさ、1533年~1611年)・島津義弘(しまづよしひろ、1…
#島津義久#島津義弘#島津氏#戦国時代#関ヶ原の戦い#島津忠恒#新名一仁
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•3年前
鹿児島城(鶴丸城)跡にいってみた[後編] 日本史上最後の攻城戦、西郷隆盛が城山に散る戦争になったら背後の山(上之山城、うえのやまじょう)にたてこもる。そんな想定で鹿児島城(かごしまじょう、鹿児島市城山町)は整備されている。のちに籠城は実行される。築城から約270年後のことだった。 鹿児島城の駐車場から城山を見上げる 西南戦争の最終決戦の地 城山を登る 激戦の爪痕 本丸や二ノ丸については前編にて。鹿児島城の概要についてもこちらで。 rekishikomugae.net 西南戦争の最終決戦の地 明治10年(1877年)、鹿児島で不平士族が蜂起した。西南戦争(せいなんせんそう)である。「丁丑役(ていちゅうえき)」とも呼ばれる。 西郷隆盛は明治6年(1874年)に官を辞して鹿児島に帰…
#歴史#鹿児島#鹿児島城#西郷隆盛#西南戦争#私学校#島津忠恒#島津氏#城
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•3年前
鹿児島城(鶴丸城)跡にいってみた[前編] 江戸時代における島津氏の政治拠点鹿児島城(かごしまじょう)は鹿児島市城山町にある。通称を「鶴丸城(つるまるじょう)」といい、鹿児島ではこちらのほうで呼ぶ人が多い。 鹿児島城跡の大手門 江戸時代の島津(しまづ)氏の居城であり、この地で藩政を行なった。現在、城の目の前には鹿児島市役所や鹿児島地方裁判所がある。また、かつては鹿児島県庁もあった(跡地には「かごしま県民交流センター」)。江戸時代に整備された鹿児島の政治都市は、現代にも引き継がれているのである。 城は上之山(現在は「城山」と呼ぶ)の麓に築城され、本丸・二之丸・出丸の3つの曲輪からなる。ネタはなかなかに豊富だ。てなわけで、記事は2回にわけて掲載する。前編は本丸・二ノ丸を中…
#鹿児島城#歴史#鹿児島#島津氏#島津忠恒#島津重豪#島津久光#天璋院#城#薩摩義士
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•3年前
建昌城(瓜生野城)跡にいってきた、島津季久が帖佐に築いた豊州家の拠点建昌城(けんしょうじょう、たてまさじょう)跡は鹿児島県姶良市西餅田にある。現在、山城の南側には九州自動車道が通る。城跡の山塊は、桜島サービスエリアからも見える。 建昌城を桜島サービスエリア(上り線)より見る もともとは瓜生野城(うりうのじょう)と呼ばれていた。別名に胡麻ヶ城(ごまがじょう)とも。豊州家(ほうしゅうけ、島津氏の分家)の島津季久(しまづすえひさ)が享徳年間(1452年~1455年)に築城したとされる。豊州家は瓜生野城を拠点に勢力を広げた。 rekishikomugae.net ちなみに建昌城と呼ばれるようになったのは17世紀初め頃のこと。島津義弘(しまづよしひろ)が明国から来た人に…
#歴史#鹿児島#城#島津氏#豊州家#島津季久#島津義弘#島津忠恒
川柳と習字を与那国島から•1ヶ月前
秋の雲 616 宇喜多秀家お遍路・第10日目。15番国分寺から7番十楽寺まで周り、上板町のお寺に泊まる予定です。昨日は雨風の予報が外れて、良い天気の中で周りました。夜は友と徳島駅ビル地下でチョッと前祝いをしました。 「日本史1200人」616 宇喜多秀家(ヒデイエ;1572〜1655) 豊臣秀吉の家臣。織田信長に仕えていた父・宇喜多直家が没したため11歳で家督を継ぎ、中国攻めの最中の秀吉に叔父らと共に従軍した。その年の本能寺の変の直後、秀吉が毛利氏と和睦すると、秀家は備中・備前の大名となり、毛利氏の監視役を担った。元服すると秀吉の養女・豪姫を正室に迎え、天下平定の戦いや朝鮮出兵でも活躍し五大老に任じられた。関ヶ原の戦…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•1ヶ月前
島津義弘は17代当主なのか?島津義弘(しまづよしひろ)は「島津氏の17代当主」とされる。江戸時代に作成された『島津氏正統系図』ではそうなっている。 しかし、島津義弘は家督を相続した事実はないらしい。このことを理由に、「17代当主ではない!」という意見もあったりする。 なんだかモヤモヤした感じなのだ。 結論としては……、 「島津義弘は17代当主である」って言ってもいい、と私は思う。 正統系図がそうなっているのだから、その通りなのだ、と。家督を相続していなくても、である。 系図で「当主とみなす」という例はいくらでもある。例えば、ある当主が長生きして、その世子が早世し、嫡孫に家督を継承。この場合、世子を当主代数に数える場合もあ…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•3ヶ月前
龍門瀑布(龍門滝)、『三国名勝図会』より龍門滝(りゅうもんのたき/りゅうもんだき)というのが、鹿児島県姶良市加治木にある。大きな滝で、けっこう遠くからも見える。高速道路(九州自動車道)を走っていると、加治木インターチェンジ近くで見ることができる。 昔から名瀑として知られていたようで、『三国名勝図会』でも紹介されている。絵が素晴らしい! 『三国名勝図会』巻之三十七より(国立国会図書館デジタルコレクション) 絵図と同じような角度から、写真を撮ってみるとこんな感じ。丘陵を網掛川が流れていて、この場所で一気に流れ落ちるのである。 龍門滝を見る 『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 滝のすぐ目の…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•3ヶ月前
島津豊久(島津忠豊)の戦績、関ヶ原に散った猛将島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。 串木野城で誕生、父は島津家久 弟と姉と妹と 初陣は島原合戦(沖田畷の戦い) 元服 父の降伏、父の急死 佐土原領主になる 朝鮮転戦 庄内の乱 関ヶ原の戦い 島津義弘と合流 島津の退き口 佐土原を没収される 永吉島津家 なお、日付は旧暦にて記す。 串木野城で誕生、父は島津家久 島津豊久は元亀元年(1570年)6月に誕生。父は島津家久(いえひさ)の長男で、母は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘。幼名…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•4ヶ月前
種子島氏、中世から続く南島の領主種子島(たねがしま)は鹿児島県にある島だ。大隅半島の南のほうに浮かぶ。鹿児島港から高速船で1時間半くらい、フェリーで3時間半くらいで行き来できる。大きな島で、南北の長さは57㎞ほど。ちなみに島の北部の西之表港から南端までは車で1時間以上かかる。 この種子島の領主だったのが、種子島氏である。「鉄砲伝来」という教科書にも載っている歴史的なイベントにも遭遇。けっこう知名度の高い一族なんじゃないかと思う。 種子島氏について、ちょっとまとめてみた。 まず、種子島について もともとは肥後氏、大隅国の守護代 伝わっている出自はあやしすぎる 種子島氏の名乗りは14世紀から 禰寝氏との抗争 鉄砲 島津貴久・島津…
川柳と習字を与那国島から•5ヶ月前
雷 535 東郷重位朝、海岸沿いを走ってきました。嫁さんの昨日の試験は保健で、落ち着いて回答できたようです。近くの漁師からも嫁さんの活躍を褒められました。 「日本史1200人」535 東郷重位(シゲタダ;1561〜1643) 戦国から江戸時代の武将、島津氏の家臣、示現流剣術の流祖。島津氏が豊臣秀吉に敗北すると島津義久に従って上洛し、天寧寺の僧・善吉に出会い剣術に開眼して、修行後に薩摩へ帰国した。1599年頃には大勢の門人をかかえ、島津忠恒に聞こえるところとなり、1604年に御前試合で剣術師範を破り島津家兵法師範となった。このとき逆上した忠恒に斬りかかられたが、丸腰の重位はとっさに腰に差していた扇子で忠恒の手を…
るーの戦国IXA不定期ブログ•5ヶ月前
ロト大殿!!私が選んだ大殿はこちら!お疲れサマンサです! てことで、昨日アップされてましたが 今期もこの時期になりましたね! 戦国IXA(イクサ)公式サイト - オンライン戦国体感ゲーム - お知らせ 回答期限は6月30日(日)の23時59分までですね。 忘れないうちに回答しておきましょう。 1回のみ、とのことなので多分回答の変更ができないんじゃないかな? その辺、お気を付けください。 アンケートのURL長いな 表示されたけど、トップページから飛べるのでそちらから 直接飛んでみていいかと~ https://enquete.sengokuixa.jp/1/top/lo28/?timestamp=1719060505&code=Gb…
IXAを前向きに楽しむ•5ヶ月前
ロト大殿のこと(28章予想編)みなさん今日も楽しんでますか?マエムキです。 刷新まで残り7戦、というと「まだまだ」って感じですが、残り1か月と少しというと「あっ」て感じです。ということですっかりお馴染みになりつつあるロト大殿が発表されました。答え発表の動画配信(生とは言っていない)もあるとの事なので、それまでの間、楽しんでみたいと思います。 基本情報 予想のポイント ①登場サイクル ②ストーリー ③家臣武将 ④新規天 まとめ 基本情報 問題 候補者30人の中から、28章の大殿8名を予想 ヒント:伊達政宗(傑)、徳川家康、直江兼続、前田利家、小早川秀秋 回答期間 2024年6月21日(金)メンテナンス後~2024年6月30日…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•5ヶ月前
長照山梁月寺跡(平佐北郷家墓地)、北郷三久と平佐北郷家鹿児島県薩摩川内市の平佐(ひらさ)に、長照山梁月寺跡がある。平佐北郷家(ひらさほんごうけ)の菩提寺である。寺院跡には墓地があり、平佐北郷家の歴代当主の墓が並ぶ。 北郷氏は島津氏の一族で、中世から日向国庄内(しょうない、宮崎県都城市のあたり)を領する。17世紀には「島津」の名乗りに戻し、「都城島津家」と呼ばれる。平佐北郷家はこの北郷氏から分かれた家で、戦国時代末期に活躍した北郷三久(ほうごうみつひさ)より始まる。 平佐北郷家も北郷氏本家(都城島津家)と同様に、薩摩藩で重用された。家格は一所持。藩の家老も出している。 梁月寺跡(平佐北郷家墓地)へ 北郷氏とは 北郷三久と平佐北郷家 三久の兄の妻は、…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•6ヶ月前
近世における島津氏の分家、江戸時代の「〇〇島津家」いろいろ17世紀以降の島津氏の分家についてまとめてみた。 島津氏にはもともと分家が多い。鎌倉時代から続く歴史の長さに加え、子沢山な当主も多かったりする。そんなわけで、一族の枝葉をいっぱいに広げる。中世から続く家柄もあり、江戸時代に立てられた分家もあり。 中世の島津氏 薩摩藩における分家 薩摩藩主家/島津本家 重富島津家(越前島津家) 加治木島津家 垂水島津家 今和泉島津家 玉里島津家 日置島津家 都城島津家 花岡島津家 宮之城島津家 永吉島津家 豊州島津家(黒木島津家) 知覧島津家 佐志島津家(佐司島津家) 新城島津家 市成島津家 島津本家準三男家(忠広一流) 島津本家準二男家(島津大蔵家) 島津本家…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•6ヶ月前
戦国時代の伊集院一族、島津貴久・島津義久の勢力拡大を支える戦国時代の島津氏の配下には、伊集院(いじゅういん)氏が多い。 島津貴久(しまづたかひさ)が分家から覇権をとって薩摩国を平定する。子の島津義久の代になると大隅国・日向国を制圧し、さらに九州全域へと勢力を広げていく。そして、島津氏は豊臣政権下に入り、関ヶ原の戦いのあとも生き残る。 その過程の中で、伊集院氏の存在感は大きい。戦国期の伊集院一族について、まとめてみた。 伊集院氏とは 全盛期から没落へ 伊集院氏の支族 相州家に仕えた伊集院氏 伊集院忠朗 伊集院忠倉 春成久正 春成久辰 飛松久友(富松久友) 伊集院久宣 伊集院忠次(又七郎) 伊集院久道(伊集院久通) 伊集院久治 伊集院久実 伊集院久信(伊…
そうだ、ひとり旅しよう•6ヶ月前
鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)鹿児島城(鹿児島県鹿児島市) 鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山町(薩摩国鹿児島郡城山麓)にあった江戸時代の日本の城。別名鶴丸城(つるまるじょう)。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。 1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。 日本100名城97番 別名:鶴丸城 城郭構造:平山城 天守構造:なし 築城主:島津忠恒 築城年:1602年(慶長7年) 主な改修者:島津吉貴 主な城主:島津氏 廃城年:1872年(明治5年…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•8ヶ月前
島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す!島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。 ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。 島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降した…
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•9ヶ月前
樺山氏についてまとめてみた、中世より存在感を放つを島津の支族島津貴久(しまづたかひさ)のいちばんの協力者は、樺山善久(かばやまよしひさ)であろう。 16世紀の南九州において、島津氏は一族どうしで覇権を争った。本家筋の奥州家と、分家の薩州家と相州家と。この中で抗争を制したのが相州家の島津貴久だった。樺山善久は一貫して相州家に協力し、覇権の確立とその後の勢力拡大に貢献する。 樺山氏は島津氏の支族である。その歴史は南北朝争乱期にまで遡る。そして、なかなかの存在感を放っているのだ。そんな樺山氏について、ちょっとまとめてみた。 初代/島津資久(樺山資久) 2代/島津音久(樺山音久) 3代/樺山教宗 4代/樺山孝久 5代/樺山満久 6代/樺山長久 7代/樺山広久 …
ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。•9ヶ月前
桜島の月讀神社、月の神と桜島との関係は?桜島のフェリー乗り場のすぐ近くに。鳥居が見える。月讀神社(つきよみじんじゃ)の参道口だ。鎮座地は鹿児島市桜島横山町。月讀神社は古くから桜島の惣社として崇敬されてきた。 桜島は活発な火山である。月讀神社は山の神威をびんびん感じるような……そんな雰囲気である。 もともとは「五社大明神社」 大正噴火で溶岩に埋没 フェリー乗り場の目の前に 桜島には月読命を祭る神社が多い もともとは「五社大明神社」 創建は和銅年間(708年~715年)とされる。 御由緒書きによると、御祭神は月読命(ツキヨミノミコト) で、ほかに邇邇芸命(ニニギノミコト) ・彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト) ・鵜草葺不合命(ウガヤフ…