秋の雲 616 宇喜多秀家 (original) (raw)
お遍路・第10日目。15番国分寺から7番十楽寺まで周り、上板町のお寺に泊まる予定です。昨日は雨風の予報が外れて、良い天気の中で周りました。夜は友と徳島駅ビル地下でチョッと前祝いをしました。
「日本史1200人」616 宇喜多秀家(ヒデイエ;1572〜1655)
豊臣秀吉の家臣。織田信長に仕えていた父・宇喜多直家が没したため11歳で家督を継ぎ、中国攻めの最中の秀吉に叔父らと共に従軍した。その年の本能寺の変の直後、秀吉が毛利氏と和睦すると、秀家は備中・備前の大名となり、毛利氏の監視役を担った。元服すると秀吉の養女・豪姫を正室に迎え、天下平定の戦いや朝鮮出兵でも活躍し五大老に任じられた。関ヶ原の戦いでは西軍の副大将として奮戦したが敗れ、薩摩国の島津氏を頼った。後に徳川家康に引き渡されたが、島津忠恒と前田利長の懇願により死罪は免れ八丈島へ配流となった。島での生活は不自由であったらしく、嵐のために退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったり、島の代官におにぎりを馳走してもらったりとの話が伝わるが天寿を全うした。
「戦とかあいつの顔も秋の雲 宇喜多秀家 に 端遊」
秋の雲が10月の季語です。秋の雲は形を変えやすいです。島に50年もいたら形も何も、鰯雲が夕焼けに染まるのをボーっと見ているのが関の山です・・・大名の宇喜多家は滅亡しましたが、秀家とともに流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え3家興りました。明治以後、宇喜多一族は赦免となり東京に移住しましたが、そのうち何名かは八丈島に戻り、子孫が現在も秀家の墓を守り続けています。
習字は、「戦とか」は忘れたように、「あいつの顔も」はボーッと、「秋の雲」はふんわりと、というつもりで書きました。