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tennkataihei’s blog1年前

つくられたエミシ (市民の考古学) 2018/8/15 松本 建速 (著) 同成社古代日本国が征討したとされるエミシ。しかし彼らは存在していなかった!?考古学や文献史学、言語学の手法を駆使し、隠された真相に迫る。 2018年に出版されたときに読んで、今回これを書くに際して再び読み直したが、やはり珍説・奇説に類したものだろうとの読後感を持った。蝦夷・えみしとの抗争が律令国家とエミシとの間で実際には起きていなく、文書の中だけで存在するのだと著者は言う。律令国家が文書上で作り出したものだと著者はいう。 俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼ん…

#蝦夷征伐#エミシ#蝦夷#蕨手刀#俘囚

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10ブックマーク俘囚 - Wikipedia俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。 7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争(蝦夷征伐)で、大和へ帰服した蝦夷のうち、集団で強制移住(移配...ja.wikipedia.org

6ブックマーク俘囚・夷俘について - heuristic ways源頼朝はなぜ「奥州征伐」あるいは「エゾ征討」を行なったのか。 主な理由は、頼朝と対立するに至った弟の源義経を奥州藤原氏がかくまったからだと言われている。だが、頼朝が奥州征伐を敢行したのは、「義経の身柄をさし出せば恩賞も与えよう」という頼朝の甘言につられて、藤原泰衡(やすひら)が義経の館を急襲して...d.hatena.ne.jp

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忘れなそ、ふるさとの山河 〜郷土史編〜1年前

笑わない佐伯の歴史4、佐伯の名称の起源1.古代佐伯氏の職掌 「佐伯」の名前は545年に「佐伯連」として初出する(第三十代敏達天皇時代)。古代、佐伯氏は大伴氏に連なる朝廷に仕える軍事氏族であった。大伴家持の「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大王の辺にこそ死なめ」は大伴・佐伯両氏による天皇家への忠誠歌である。 この佐伯氏は歴史上有名な事件にも登場する。蘇我馬子に命じられて皇位を狙う穴穂部皇子を誅殺(587年)した佐伯丹経手(にふて)、壬申の乱で中大兄皇子に従い蘇我入鹿を殺害(645年)した佐伯子麻呂と、武力行使を担った。 遡ること第十二代景行天皇の時に東国征伐による俘囚を西国(播磨、伊予、讃岐、阿波、安芸)に移住させたのが「佐伯部…

#佐伯氏#佐伯部#佐伯院と佐伯荘#俘囚#大伴氏#海部郡#佐伯姓

小説を 勝手にくくって 20選!1年前

19-1 炎立つ(ほむらたつ)① 高橋 克彦 (1993)炎立つ 壱 北の埋み火【電子書籍】[ 高橋克彦 ]価格: 713 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 <第一部> 奥州に自らの手で王国を築きたい野望を持つ安部頼良(のち頼時に改名)。この男が灯した火種が奥州全土を覆い、130年に渡り代々奥州の地に受け継がれ、光輝く国とした。 藤原経清は誇り高い武士でありながら、欲深い陸奥守藤原登任に使われる一介の郡司に過ぎない。そんな経清が安倍頼良の次男、安倍貞任の婚儀出席のために衣川を訪れる。「俘囚」と蔑まれている安倍氏が、その胸の中に秘めていた「武士」として心意気に共感する藤原経清。その一方で陸奥守登任は安倍氏の富を知り、それを奪うために計略を企てて戦端を開…

#安倍頼時#藤原経清#源頼義#俘囚#前九年の役

晴耕雨読 趣味と生活の覚書4年前

国名について調べて見た③ 東北地方前編これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。 私は、秋田で生まれ育ったので、東北というところが日本の歴史の中で、いったいどういうものだったかが、ずっと気になっている。その割には、東北の歴史についての知識がない。 日本史の教科書にあった「前九年の役」とか「後三年の役」という言葉は知っていても、その前後の事情とか詳細については、わかっていない。 令制国というのは、8世紀の初めに大和朝廷が律令制を採用した時に、それまでの国造による国から移行した地方行政区分である。国造が世襲化していたので、国司とい…

#令制国#陸奥国#出羽国#蝦夷#俘囚#俘囚長

北海道~東北関係史検討グループ報告書4日前

「鬼の痕跡を探せ!」…修験の跡を追う「特別ミッション」の備忘録https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/01/113707 「山形市「盃山遺跡」を探る「特別ミッション」…中世城館以外での石垣の登録事例の備忘録」… さて、上記を前項として。 関連項は下記。 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659 「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道、日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」… https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/…

壬生之力の歴史道11日前

叛乱 結城合戦 第25話それでも敢えて云いたい。私たちは、困難を克服し、互いの信頼関係を構築し、手に手を取って未来へ進んでいけると。 映画「八犬伝」(サウンドトラック) アーティスト:北里玲二 Rambling Records Amazon 頂上至極 (幻冬舎時代小説文庫) 作者:村木 嵐 幻冬舎 Amazon 反乱に関する一愚考 本稿は、史実を元に記述していますが、多種多様な諸説学説がある事は否めません。読者諸賢におかれましては、筆者の私見である事をご賢察いただけますようお願いいたします。 かすみ編が悲劇的とは云え、なんとか終幕できたところで、筆者が常日頃から、いや、歴史に興味を持ち始めた小学生だった頃から疑問に思…

北海道~東北関係史検討グループ報告書14日前

「南無阿弥陀仏」を広めたのは誰か?…墓制拡散の担い手を探る為の備忘録https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836 「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」… 前項はこちら。 関連項はこれらか。 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101 「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」… https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134 「和鏡特別ミッションの…

占魚亭残日録17日前

届いた本(私家版)105.海野十三『烏啼天駆全集』(探偵趣味選書) →〈烏啼天駆〉シリーズ全8編収録。附録として「『俘囚』作者の言葉」収録。 106.『「怪奇雑誌」剽窃小説選』(同上) →カストリ雑誌『怪奇雑誌』に掲載された剽窃小説から3編(「生きている子宮」「肉体の積木遊戯」「機械人間の狂恋」)収録。

戦国日本の津々浦々 ライト版25日前

王 孝廉 おう こうれん渤海の遣日本使節の大使。弘仁五年(814)九月に日本の出雲国に着き、翌年正月に平安京にて国書と信物を献じた。帰国中に日本海で遭難し越前国に漂着するが、同地で客死した。日本の文人たちと漢詩を交わし、空海とも交流があったことが知られる。 渤海使の出雲国来着 平安京 越前国での客死 一面新交不忍聴 参考文献 渤海使の出雲国来着 812年(弘仁三年)、渤海では国王大元瑜が死去。王位は長弟の大言義に継承され、翌年正月、唐朝から渤海国王に冊封された。 kuregure.hatenablog.com 冊封の翌年の814年(弘仁五年)、前王大元瑜の死と新王大言義の即位を伝えるため、渤海は日本にも外交使節を派遣…

ツイ史跡巡り部活動日記2ヶ月前

ワーゲン乗って和田堀公園と大宮八幡宮に行ってきました【東京都杉並区】どうも、今日は休みだったので午後から都内に出没してました。月1の恵比寿の用事ですが。 ただ恵比寿来て帰るのもなんだと思う中、最近カーシェアでいろんな車に乗りたい!という趣味に目覚めているので新宿に向かってカーシェア利用して杉並区まで出動しました。 普通に杉並区行くなら京王線の方が早いです。

4〕日本天皇・日本民族と中国・朝鮮両民族との2000年戦争。日本脳。心理学。日本民族の祖先。2ヶ月前

🎍38〕─1・B─弘法大師・空海の佐伯氏は俘囚蝦夷(帰属アイヌ人)の子孫。〜No.119No.120 ・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 旺文社日本史事典 三訂版 「佐伯氏」の解説 佐伯氏 さえきうじ 古代の有力豪族。大伴氏の一族 姓 (かばね) は連 (むらじ) ,八色 (やくさ) の姓制定のとき,宿禰 (すくね) となった。蝦夷 (えみし) の俘囚 (ふしゆう) 佐伯部を率いて宮内の警衛などにあたり,大伴氏とともに軍事をもって大和政権に仕えた。 ・ ・ ・ 日本は、ヤマト王権時代から、ヤマト人(奈良人)以外の多種ような人々が活躍する多様性に富んだ共生社会であった。 活躍した異種の人々は、ヤマト大王(日本天皇)への…

東京ひとり時間3ヶ月前

【読書記録】『風の陣 第五弾<裂心篇>』高橋克彦著こんばんは! 都内在住アラフィフ主婦のnicoです。 ひとり時間を楽しんでいます。 高橋克彦著、 『風の陣 第五弾<裂心篇>』読了。 ※奈良時代の小説一覧はこちら。 『風の陣』シリーズは 高橋氏の「蝦夷四部作」の一作目で、 本作は最終回となります。 道鏡の失脚を題材とした 「風の陣 第四弾<風雲篇>」に続いて 最終回の第五弾となる本作では 主人公と舞台が変わります。 hitorijikan-nico2.hatenablog.com 第一弾~第四弾までは 都で官人として活躍する蝦夷、 道嶋嶋足(みちしまのしまたり)が 主人公として描かれ、 都が主な舞台でした。 しかし、 第五弾の本作は一転して …

赤生津・安部氏の出自を尋ねて3ヶ月前

陸奥話記概要1 奥六郡の司、安倍頼良とは 六つの群をとりまとめる安倍頼良という者がいた。陸奥の国を代々長い間治めてきて、評判がいいし、地域住民から信頼され、安倍氏に従っていた。 (しかし国府が言うには)安倍氏は、六郡を勝手気ままにし、人民をおびやかしている。子孫が栄えて大勢いて、衣川の外まで侵略している。税を納めず、徭役(強制労働)もしない、わがままで、だれもこれを強いて押さえようとしない。 2 鬼切部の戦い「税未納により安倍氏を追討するが失敗」 1051年、陸奥の太守となった藤原登任は、安倍氏を攻めようと、鬼切部で戦ったが敗れてしまった。そこで朝廷は、安倍氏追討のため、戦の駆け引きに優れていた、源頼義を…

ツイ史跡巡り部活動日記3ヶ月前

気づいたら戸塚宿跡を巡っていました【神奈川県横浜市】どうも、今日は東海道五十三次戸塚宿の史跡巡りをしてきました。 日中用事で小田原から1時間30分かけて恵比寿に行ってまして、30分ぐらいで予定終了したので都内どっか行こうかと思いましたが三連休中日は無限人間編始まってて終わり。ただ帰るのも味気ないので、戸塚宿跡を巡ってきました。 戸塚駅 西口からスタート 戸塚宿の史跡は東口から柏尾川、国道一号方面にもあるのですが、そちらは過去に訪問済みなので今回はパス。 ただ西口方面は未訪問のため今回はこちらに行きます。 戸塚宿 東海道五十三次の5番目で相模国最東端の宿場 元は保土ヶ谷宿の次は藤沢宿でしたが、戸塚の有力者の嘆願により設立された経緯があります。 宿…

福島のぶゆきアーカイブ3ヶ月前

沖永良部島に西郷隆盛の足跡を訪ねる〇今回の沖永良部島訪問のもう一つの目的は、西郷隆盛の足跡を訪ねる旅。西郷は、水戸藩が大きく関わった安政の大獄後、薩摩藩主島津久光と対立して、薩摩藩の南端の沖永良部島に遠流。その囚われた地に訪れ、像と一緒に復元された牢獄に入りました。 西郷隆盛は、水戸の藤田東湖の影響を大きく受けております。 藤田東湖は、回天詩史で「三決死矣而不死 二十五回渡刀水 五乞閑地不得閑 三十九年七處徙」としています。つまり、3回死を覚悟しながら死ねず、25回水戸と江戸を行き来し、5回斉昭公に暇を乞いながら、結局39年間で7回も水戸藩にお仕えして江戸と水戸とで引っ越すことになります。 でもそれは、「苟明大義正人心 皇道奚…

教養ドキュメントファンクラブ3ヶ月前

6/12 NHK 歴史探偵「平安武士と蝦夷」圧倒的な武力を誇った蝦夷 今回は東北の蛮人扱いされている蝦夷について注目。圧倒的な戦闘力を誇った蝦夷の技術が後に台頭する武士に大きな影響を与えているという観点で注目する。 平安時代、東北地域では戦乱が多かったという。その戦乱の原因となったのがアテルイと呼ばれるこの地方の蝦夷の族長である。蝦夷は狩猟採取民族であり、中央からの支配に反抗を続けていた。アテルイが率いる蝦夷の軍勢は精強であり、当時の絵巻では蝦夷の姿は角のある異形の姿として描かれている。蝦夷は殺傷能力の高い弓矢に馬を巧みに乗りこなした騎射で朝廷軍を迎え撃ったという。だから戦闘力において蝦夷一人で朝廷軍十人に匹敵すると言われたという。 ア…

隠居日録4ヶ月前

平氏―公家の盛衰、武家の興亡倉本一宏先生の平氏―公家の盛衰、武家の興亡を読んだ。本書には平氏の誕生の経緯から平清盛一族滅亡後の平氏についてまで詳細に書かれている。平清盛一族が滅亡しても、公家の平氏の一部は都で生き残り、明治の代まで続いていた。 平氏の誕生 桓武天皇の第三皇子の葛原親王が天長二(825)年三月二十四日に淳和天皇に上表して、自らの男女に平朝臣を賜ることを請うたが、この時淳和天皇は認めなかった。再び七月六日に子息の一部を臣籍に降下させることを上表すると、今度は許された。上表は一度では許されないのが通例であるのと、最初は全員であったことが認められなかった理由と推測されている。平というのは桓武天皇が平安京(「多比良…

北海道~東北関係史検討グループ報告書5ヶ月前

コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−3…螺旋状垂飾の年代特定は?、そして用途は?こちらを前項に。 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820 「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?…螺旋形状をした事例の備忘録」… https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/08/210833 「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−2…螺旋形状をした事例3点の備忘録」… 関連項がこちら「ライトコロ川口遺跡」について。 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/11/195106 「「土鍋,鉄鍋共伴」に「…

北海道~東北関係史検討グループ報告書5ヶ月前

防御性環壕集落「高屋敷館遺跡」とはどんなとこ?…土塁,空堀,鍛冶遺構、そして「二種類の内耳土器」https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606 「北海道の対岸の状況はどうだったのか?-2…浪岡町に検出される「円形周坑」「環濠」そして「防御性集落」の片鱗」… ここで、紹介した「高屋敷館遺跡」。 隣接した野尻各遺跡と継続性があり錫杖状鉄器や 内耳土器が出土している…は既報。 ただ、遺物展示されている「青森市中世の館」は写真NGで詳細は出せなかった。 たまたま、発掘調査概報が入手出来たので、ここで紹介する事にする。 前項で概要の形は現地写真を貼ってあるが、こんな感じ。 では説明していこう。 前項でも説明しているが、野尻遺跡群…