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津城

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ダイコンオロシ@お絵描き6日前

関ヶ原の戦い@安濃津城 記事まとめ2024年9月28日から9回にわたり「関ヶ原の戦い@安濃津城」として、現在の三重県津市・津城跡周辺を舞台にした東軍・西軍の戦いについて述べてきました。 長くなりましたので以下に戦いのあらすじと、ブログ記事(イラスト回含む)のリンクを並べます。 前提:慶長5年の安濃津城の戦いについて 関ヶ原の戦いは慶長5(1600)年9月15日に現在の岐阜県関ケ原町で行われた大会戦です。7月中旬に大阪方(西軍)が伏見城を攻めてから関ヶ原の戦いの本戦までの間、日本全国で軍事衝突が起こりました。*1 安濃津城の戦いは、8月下旬に伊勢国安濃津(現・三重県津市)で行われた攻城戦で、東軍・富田信高らが籠る安濃津城を、本戦…

#関ヶ原の戦い#津城#富田信高の妻#浮田氏#宇喜多氏

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5ブックマーク江戸時代の津城に幻の天守か 藤堂高虎が築く? 絵図発見:朝日新聞デジタルwww.asahi.com

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ダイコンオロシ@お絵描き7日前

関ヶ原の戦い@安濃津城9 宇喜多氏の奮戦と開城(イラストあり)関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、9回目です。 当初想定していたよりかなり長くなってしまいましたが、これでラストにします。 前回まで diconoroshi.hatenablog.com 慶長5(1600)年8月、関ヶ原の戦いの前月。東軍についた富田信高・分部光嘉ら1700人の兵と城下の避難民が籠る安濃津城(現・三重県津市)に、毛利勢を中心とする西軍3万が迫ります。 8月23日、籠城側は、やたらとアグレッシブな綾井・斎田の鉄砲隊と、スナイパー弓削忠左衛門らの活躍で、西軍(大坂方)の先鋒に損害を与えます。 8月24日、城は西、南、東の3方向から攻め立てられ、城下の各所で火の手が上がります。槍を…

#関ヶ原の戦い#津城#富田信高の妻#イラスト

ダイコンオロシ@お絵描き10日前

イラスト)宇喜多氏(富田信高の妻)2024年9月18日から始めた「関ヶ原の戦い@安濃津城の戦い」が思ったより長くなってきました。終盤間近ですが、ここでイラストを1回挟みます。 diconoroshi.hatenablog.com イラストは、安濃津城の城主・富田信高の妻「宇喜多氏」です。安濃津城が西軍に攻められた際、槍を振るって富田信高の危機を救ったと伝わる女傑です。*1 富田信高の妻(宇喜多氏/浮田氏) 宇喜多氏の記録~「武功雑記」 富田信高の妻、宇喜多氏(浮田氏)の装いについて、「津市史」が引く「武功雑記」に詳しく記されています。 「若武者緋縅の具足に中二段黒革にて縅したるに半月打つたる兜の緒をしめ、片鎌の手槍をおつ取り」…

#関ヶ原の戦い#津城#イラスト#富田信高の妻

ダイコンオロシ@お絵描き12日前

関ヶ原の戦い@安濃津城8 追い詰められる城兵とその抵抗関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、8回目です。 前回のあらすじ diconoroshi.hatenablog.com 慶長5(1600)年8月24日、毛利勢を中心とする西軍が安濃津城への攻撃を開始。城を出て城下町で戦っていた兵が、城の東側にまわった西軍(宍戸元続・鍋島勝茂・龍造寺高房)の攻勢を支えきれず城内に撤退します。その際、城の北にあった西来寺を西軍に拠点化されることを避けるため火を放ちますが、その火は市街地を焼き尽くします。 城の北にあがる黒煙に、南の守備兵など城内は動揺し、西軍は勢いづきます。 当時の安濃津城 ここで、「津市史 第1巻」の記載から当時の安濃津城の縄張りをみてみましょう…

#関ヶ原の戦い#津城

ダイコンオロシ@お絵描き13日前

関ヶ原の戦い@安濃津城7 西軍の進軍と攻撃関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、7回目です。 前回のあらすじ diconoroshi.hatenablog.com 慶長5(1600)年8月23日、東軍についた富田信高らが籠る安濃津城(1,700人)に西軍(3万)の先鋒が迫ります。塔世川(現・安濃川)を挟んで対峙した両軍ですが、籠城側のまさかの襲撃により戦いの幕が切って落とされます。 安濃津城主・富田信高の制止を振り切って渡河した綾井権之助・斎田隼人指揮の鉄砲隊60人に急襲され、200~300人の西軍部隊が散々に打ち破られます。 西軍は綾井・斎田隊が城へ退くところを追撃しますが、綾井・斎田を援護に来た籠城側の鉄砲の名手・弓削忠左衛門により…

#関ヶ原の戦い#津城

ダイコンオロシ@お絵描き15日前

イラスト)弓削忠左衛門先日、ブログで言及した弓削忠左衛門のイラストを描きました。 diconoroshi.hatenablog.com 安濃津城の戦い・1日目では、籠城側・富田信高軍の鉄砲隊が大活躍したので、鉄砲を持った人物を描こうと思いました。 60人の鉄砲隊で200~300人の敵陣に殴り込みをかける綾井権之助・斎田隼人ペアも魅力的ですが、隊長である両名は鉄砲を持っていなかった可能性もあるので、凄腕スナイパーである忠左衛門をイラストの題材に選びました。 ↑、先日Xに投稿したもの(背景付き) https://x.com/diconoroshi_mie/status/1840289038382837847 背景なしバ…

#関ヶ原の戦い#津城#イラスト

ダイコンオロシ@お絵描き18日前

関ヶ原の戦い@安濃津城6 西軍の増援と前哨戦関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、6回目です。 前回のあらすじ diconoroshi.hatenablog.com 安濃津城まであと1日の椋本(現・津市芸濃町椋本)まで進んだものの、徳川家康を恐れるあまり、伊勢湾を進んでくる富田信高らの船団を家康本隊だと勘違いし、パニックになって関(現・亀山市関町)まで撤退する大失態を演じた西軍の先遣隊。 西軍の増援 慶長5年8月中旬、増援を受けた西軍の兵数は3万にまで膨れ上がりました。「津市史 上巻」が引く「日本戦史」には、先導の長束正家(近江水口)のほか、西日本の諸大名の名が並びます。 毛利秀元 吉川広家 宍戸元続 鍋島勝茂 龍造寺高房 長宗我部盛親 …

#関ヶ原の戦い#津城

ダイコンオロシ@お絵描き20日前

関ヶ原の戦い@安濃津城5 西軍の伊勢侵攻(慶長5年8月初旬)関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、5回目です。 前回までのあらすじ 慶長5年、関ヶ原の戦いの直前。家康の命を受けて安濃津城に入った富田信高。伊勢上野城の分部光嘉が合流、松坂城からも増援、地侍の参加などもあり、計1,700名の兵となりました。周辺の住民も避難民として城に入ってきます。 diconoroshi.hatenablog.com 富田信高・分部光嘉が安濃津城に入るより少し前には、毛利勢を中心とする西軍が鈴鹿峠を越えて伊勢国に入り、安濃津城をうかがう地点にまで進出しつつありました。 西軍の部隊 慶長5年8月1日、家康の家臣・鳥居元忠が籠城する伏見城が落城します。伏見城攻めの中心となった毛…

#関ヶ原の戦い#津城#東海道

ダイコンオロシ@お絵描き23日前

関ヶ原の戦い@安濃津城4 安濃津城とその城下関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、4回目です。 前回は、上杉征伐に従軍して関東にいた安濃津城主・富田信高が、家康の命を受け、伊勢湾を渡って安濃津城に帰還した経緯を述べました。 diconoroshi.hatenablog.com 安濃津城の留守兵 安濃津城の留守は富田信高の家臣・富田主殿*1が預かっていました。西軍の伊勢侵攻当初、城中にいたのは老臣の富田五郎左衛門以下、わずか二十数名でした。 もちろん二十数名は少なすぎるので、物見など拠点に在る武士もいたかと推測しますが、それでも、西軍の侵攻には到底耐えられる兵数ではありません。隣の伊賀(筒井定次)でも、20万石という大きな所領でありながら、…

#関ヶ原の戦い#津城#松坂城

ダイコンオロシ@お絵描き25日前

関ヶ原の戦い@安濃津城3 富田信高の帰還関ヶ原の戦い@三重県(津・安濃津)、3回目です。 前回の記事では、関ヶ原の戦いの直前の、伊勢国周辺の大名たちの状況について説明しました。 diconoroshi.hatenablog.com 今回は、関ヶ原の戦いの当時、安濃津城の主であった富田信高が、上杉征伐で駐屯する東国から津へ帰還する経緯を説明します。 関東から帰国の途へ 上杉征伐のため関東に在陣していた富田信高。西軍挙兵の報が届くと、松坂城主・古田重勝、伊勢上野城主・分部光嘉とともに、家康に領国に帰国して西軍に備えるよう命を受けます。*1 3領主は共に江戸を出発し、三河国吉田(現・豊橋市*2)から伊勢湾を西に、それぞれの領国を目指しまし…

#関ヶ原の戦い#津城#九鬼嘉隆

川柳と習字を与那国島から4日前

猪(シシ) 608 古田重勝今日、徳島に入り友と会い、ライターなどを買います。明日からお遍路が始まります。 「日本史1200人」608 古田重勝(シゲカツ;1560〜1606) 豊臣秀吉・徳川家康の家臣、伊勢松坂藩初代藩主。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐・文禄の役などに従う。1595年に秀吉から伊勢国の松坂城を与えられ、同城の改修工事に着手した。1600年、関ヶ原の戦いに先んじて上杉景勝討伐のため会津に向かうが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国した。木食応其より西軍参加を説かれるがこれを拒否し、松坂城に篭り鍋島勝茂らと対峙するとともに安濃津城に篭城した富田信高・分部光嘉に援兵50人を送るなどした。戦後、西軍を引き止めた功により2…

Mottyの旅日記 Archive5日前

徳島城江戸時代に阿波と淡路の2ヶ国を領した、蜂須賀氏の居城。 徳島の建つ山には、南北朝時代の至徳2年(1385)に、管領細川頼之の築いた城があり、風光明媚な中国の渭水から名を取って渭津城や渭山城と呼ばれていた。また麓には、河川を防御の要とした寺島城があったという。 阿波は、管領を務めた細川氏の一族である阿波細川家が守護となっていたが、やがて守護代である三好氏が台頭して戦国大名化し、阿波細川家は衰えた。 しかし、その三好氏も、事実上の天下人であったといわれる当主長慶の没後に、家臣である三好三人衆と松永久秀の対立や、信長の上洛により、畿内の拠点を失い、また、勢力の根源地である阿波も、土佐国長岡郡から興っ…

「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った12日前

13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在) 城郭および武家屋敷塔については実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。 近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。 なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。 [37] 大分県① 中津市 《 中 津 城 》 2002.02.22 県道108号線の山国川に架かる山國橋にて見る中津城。左端の建物です…中津市 2002.02.22 中津城と中津神…

ioritorei’s blog14日前

【TBSテレビ×WOWOW共同制作ドラマ『MOZU Season1〜百舌の叫ぶ夜〜』(2014年)】地上波ドラマの枠を超えた映画級の本格ハードボイルド。TBSテレビ×WOWOW共同制作ドラマ MOZU Season1〜百舌の叫ぶ夜〜 (2014年) MOZU Season1〜百舌の叫ぶ夜〜 (2014年) 地上波ドラマの枠を超えた映画級の本格ハードボイルド 『MOZU』とは 『Season1〜百舌の叫ぶ夜〜』のあらすじ 国家転覆の陰謀のセオリー 地上波ドラマの枠を超えた映画級の本格ハードボイルド (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 『MOZU』とは 『MOZU』(もず)は、TBSテレビとWOWOWの共同制作で放送された刑事ドラマ。 逢坂剛先生の小説『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』を原…

Their Finest Hour -歴史・ミリタリー・ウォーゲーム/歴史ゲーム -14日前

「関ヶ原」(エポック/サンセットゲームズ)を対戦する【1/2】往年の傑作、「死ぬまでに一度はプレイしておきたいゲーム」に迷わず推薦したい一作「関ヶ原」(エポック/サンセットゲームズ)を、四半世紀以上ぶりに対戦しました。 担当は、ダイスにより西軍になりました。以降、東軍に関する記述は内容を知ることができない情報もあるため推測で書いている点をご了承ください。 第1ターン(1600年8月19日~21日) 東軍諸将の進撃 織田秀信の出陣 松坂城(東軍方)落城・竹ヶ鼻城(西軍方)落城 第2ターン(1600年8月22日~24日) 木曽川合戦 安濃津城落城 立花宗茂軍の岐阜入城 第3ターン(1600年8月25日~27日) 西軍諸将の集結 揖斐川での対峙 池田輝政の調略…

マダオなWALKING′!18日前

四国の続日本100名城をすべてめぐる3日間(2024.09.05-07) 1日目徳島城 石垣 四国の続100名城を巡るツアーに参加してきました。地震や台風があり、少し心配でしたが、お天気に恵まれて楽しく巡ることができました。 【1日目 9/5 】 羽田空港✈高松空港==活魚料理 讃岐屋(昼食)==続100名城 引田城 ==続100名城 勝瑞城==徳島(泊)→ 徳島城 1日目で一番気に入ったのは、行程に入ってない徳島城の石垣。時間外に訪れたのですが、とてもきれいですっかりお気に入りになってしまいました。 定刻に高松空港に到着。ヤドンとコラボのバスがありました。といっても、このバスに乗るわけではありません。ツアーバスで昼食会場に向かいます。 活魚料理 讃岐屋 徳島との県境近く…

続々トラベルとかナントカ18日前

三重/鈴鹿② 神戸城跡をゆく!三重県鈴鹿市の旅、第2弾は近鉄/鈴鹿市駅からのアプローチです。 (2012年11月当時) ▼鈴鹿市駅から南西へ100mほど歩いて、川の流れる一帯へ出てきましたが、そこにいくつも小橋が架かっていて、その中で大きな(道幅のある)「寿橋」周辺の様子です。 大きな橋のように見えますが、長さ自体は何メートルもあるようなものではありません。ただ昭和6年当時の写真があるなど、歴史ある橋ではあります。 ▼鈴鹿市駅から寿橋を渡ったところには銀行がありました。 当時は三重銀行でしたが、その後2021(令和3)年に第三銀行に合併される形で「三十三銀行」となっています。 ▼通りがかりには、こんな渋い建物がありました。…