「来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に」 権中納言定家 文学と政治の人 (original) (raw)

百人一首第97番目の歌の作者は権中納言定家ごんちゅうなごんさだいえ、藤原定家です。

百人一首の選者ですね。

今回は権中納言定家について紹介します。

中納言定家とは

生年1162年、没年1241年。

藤原俊成の次男。

藤原北家に連なる人。

最終官位は正二位・権中納言

貴族ですね。

百人一首」の他に、「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の選者でもあります。

新古今和歌集」は1204年に一旦出来上がりますが、その後も作業が進められ、1210年完成に全体が完成。

配流後の後鳥羽院が追加した「隠岐本」は1221年に出来上がっています。

藤原定家後鳥羽院が敗れた承久の乱後に大きく昇進した人でした。

中納言に任ぜられたのが70歳を過ぎてから。

その際も、積極的に任官に向けての働きかけを行なっていたそうです。

時代背景

藤原定家は、源平の武力衝突から鎌倉幕府成立、その後の承久の乱を経る、動乱の時代を生きたといえます。

承久の乱は、それまでの政治体制を大きく変えてしまう大事件でした。

そもそも源頼朝が鎌倉に幕府を開いたとしても、それは天皇に将軍に任じられ、東国を治める立場を認められたというだけ。

鎌倉時代を通じて、将軍は、形式的には天皇に任じられていますが、それには幕府側(北条執権側)の意向が強く反映されていました。

天皇や京都の体制に、幕府の側からの睨みを効かせるようになったのが承久の乱後。

承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、後鳥羽上皇隠岐島に配流します。

それから京都に六波羅探題を置き、朝廷側の動きを監視するようになります。

京都の朝廷側は、幕府の意向を汲みながら、朝廷としての治世を行うことになりました。

承久の乱は、関東に成立した鎌倉幕府と、京都の朝廷との関係が逆転するきっかけとなった事件でした。

百人一首の歌

歌:来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

歌の意味:来てはくれない人を待つ、松帆の浦の夕凪どき、自らの身を焦がしながら藻塩を焼いているのです

承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)

「来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に」 権中納言定家

文学と政治の人

またお立ち寄りください。

どうぞご贔屓に。

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