日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 (original) (raw)

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慰安所の前で巻脚絆(ゲートル)を外し順番を待つ兵士たち 場所:中国、時期:1938年頃
出典:村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録』(初出:日本機関紙出版センター,1987年)新版:2005年

慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。
それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。

以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。

最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。

■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
場所:中国中部の山東

一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。
秦郁彦慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)

この証言について歴史研究者の永井和教授は論文『日本軍の慰安所政策について 日本軍の慰安所政策について』の中で次のように述べています。

この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪(当時の刑法はこちらを参照*2)の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。
慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。
一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。

論文に出てくる『内務省警保局長通牒(原文はこちらを参照*3)』には、現在の警察庁長官に相当する内務省警保局長から全国の各庁府県長官宛に出された通牒『支那渡航婦女の取扱に関する件』 (1938年2月23日)というものがあります。
この通牒は「婦女・児童の売買を禁止する国際条約*4」(未成年の女性を売春に従事させることを禁止し、成年であっても、詐欺(誘拐)などによる強制的手段が介在していれば刑事罰に問われることを定めた国際条約。)に接触しないよう指示した箇所があるのですが、初めから「北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認」して出国に必要な「身分証明を付与」すると抜け穴が作られているのです。
さらにこの通牒は日本国内に限定されたもので、朝鮮・台湾といった植民地では出されていないのです。そのため植民地からは未成年の女性たちが制限無しに国外に誘拐・拉致、人身売買といった強制的手段で連れて行かれたと考えられています。

■長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年
関東軍兵士の記録、場所:中国東北部黒竜江省

東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も…… (一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と営業するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。
これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……
おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。

「東満」地域とは、1943年10月1日、満州国にかつて存在した3省、牡丹江・間島・東安を総括し設置された「東満総省」の地域を指し、「洲崎」とは現在の江東区東陽町にかつてあった遊郭街のことです。

この慰安所にいた朝鮮人女性たちは「従軍看護婦」の「募集」だと騙されて国外に連れて行かれています。これは当時でも誘拐・拉致という犯罪で刑法第226条に違反しているのですが、女性たちの身元も調査しているはずの軍の方で送り返すなどした様子もなく、女性たちは軍の管理下にある慰安所で軍人の性の相手を強要されています。
また、当時この兵士は、慰安所のあまりに人権が無視されている状況に「義憤めいた衝動を覚え」「外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい」と感じたと書いています。この後でも紹介するように、慰安婦の状況を非人道的だと感じた日本軍将兵の手記や証言というものはけっして少なくありません。

■『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
島本重三 軍「慰安所
第七三三部隊工兵一等兵の記録、場所:中国東北部吉林省・琿春

兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。
兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。
日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。
せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。

「まだ幼い顔のまじった」朝鮮人の女性たちは騙されて国外に連れて行かれており、刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たり、国際条約にも違反している可能性が高いのです。しかし慰安所を管理する軍はここでも業者を不処罰としており、女性たちを送り返した様子がありません。

■土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年
スマトラパレンバン憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、場所:インドネシアスマトラ島

慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」
彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……
将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。

ここで詐欺(誘拐)の名目に使われている「女子挺身隊」とは、昭和19年の女子挺身勤労令による女子挺身隊のことではなく、当時の朝鮮で、未婚女性が国(軍)のために勤労報国するという意味で使われた「女子挺身隊」のことだと思われます(こちらを参照*5)。
そしてまた、慰安婦にされた女性たちと慰安所を利用する将兵たちとの認識のギャップが当時から強く存在していたことがわかります。
当時18、19歳の女性が過去の出来事を語っているということは、騙されて連れて行かれた時期は1、2年さかのぼり年齢は16、17歳頃だったろうと推測できますが、このケースも国際条約違反、刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たります。
ここでも軍の方で取り締まった様子はまったくありません。

■菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年
ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録

帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。……メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる女たちの一団(十五、六名)が休息していた。大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。

この日本人女性たちは就業詐欺(誘拐)など強制的手段で連れて行かれており、こうした犯罪の事例を刑事罰に問うことを定めていた国際条約(婦女・児童の売買を禁止する国際条約)にも違反しています。
また15、6名もの女性たちの一団が違法な方法で集められていることを警察が黙認し渡航に必要な身分証明書を発給していたことになります。「警察が厳しく取り締まっていた」のならこうしたことは起こり得ないはずです。
そしてこのケースも刑法第226条に違反しており、軍が違法な状態で集められた女性たちを軍用船で輸送していたのなら国外移送罪に該当しますし、移送されてきた女性たちを慰安所の設置と管理をしていた兵站担当の将兵が収受していた場合は刑法第227条にも違反します。
しかし、ここでも軍の方で犯罪として認識している様子はありません。この女性たちはその後どうなったのでしょう。

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ニューブリテン島・ココポの陸軍「慰安所」に行列をつくり並ぶ兵士たち、時期:1943年末頃
出典:水木しげる『総員玉砕せよ!』講談社,1995年,p.14

1943年末頃にラバウル近郊のココポ(ココボ)にあった慰安所のことを、水木しげる氏が回想しています。

「日本のピー(日本人慰安婦)の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。」(『本日の水木サン - 思わず心がゆるむ名言366日』草思社,2005年)
「彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。」(『水木しげるラバウル戦記』筑摩書房,1994年)

(「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげるhttp://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.htmlより)

水木しげる氏も彼女たちが慰安婦になるために「自由意志で自発的に応募した」とは認識していないようです。

■長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年
軍医の記録、日本から騙されて連れてこられた女性について。場所:中国中部・湖北省武漢

赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉でなきじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く……

(契約書は一般に)はじめに借用証文、次の行に、一、何千円也、ついで右借用候也、右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也と書かれ……

これも騙され連れて行かれたケースです。歴史研究者の吉見義明教授はこのケースについて次のように述べています。

慰安所で働くということは聞いているけれど、慰安所とは何かは聞かされていない。だまされて連れてこられたので、誘拐された女性ということになります。それから、あとのほうでは重い借金を負っていると書かれているので、人身売買でもあります。しかし、この女性が日本から誘拐され、人身売買により連れて来られているにも関わらず、軍はこの女性を解放せずにそのまま慰安所に入れるわけです。連れてきた業者はもちろん逮捕されていない。これは、こういうことが一 般的に行われていた、ということを示すものではないでしょうか。

慰安婦問題に関する吉見義明教授の講演 文字起こし:http://www.ianfu-kansai-net.org/2012-10-23.html『2. 朝鮮・台湾では、軍または総督府が業者を選定し、業者が誘拐や人身売買などにより連行した。これも強制連行。』【資料4】より

吉見教授はさらに戦前の日本においても契約書に書かれている「右の金額は酌婦稼業により支払う」という「売春によって借金を返させるという」契約は「民法90条違反だった」ことを指摘しています。

■小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ

(朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」
考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。「その後この少女たちはどうなったろうか」
(『ビルマラングーンの「慰安所」情報』:http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070603#p1より)
*将校クラブとは将校専用の慰安所のこと。

この口述資料からは、軍の方で将校クラブを含め各慰安所に配置する慰安婦の人数を決定していたことがわかります。そしてこれも騙されたケースです。
40名から50名に及ぶ女性たちの一団が、同じ日に同じ場所に到着していることから、軍から慰安婦を集めてくるよう指示された業者による大がかりで違法な徴集が朝鮮半島で行われたことは明らかだと思います。
違法な方法で集められた女性たち(16、7歳の未成年者を含む)に身分証明書と出国許可を与えているのは警察です。永井教授が述べているように、軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずです。
そしてこのケースもやはり刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪、さらに刑法第227条にも違反しています。しかし、軍の方で違法な契約を破棄させ16、7歳の未成年者を含む女性達を送り返そうとした様子はありません。ここでも軍は業者を不処罰とし犯罪を黙認してしまっています。

■『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年
須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所

スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……
慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。
しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシア若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。

女性が逃亡しないよう監視されていたことは、慰安婦にされた多くの女性たちの証言と符合します。そして、「周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ」ていることから軍の施設内に「急ごしらえの」バラックを建てそこを慰安所にしていたのではないかと推測できます。
また、女性たちがインドネシアまで連れて行かれるまでには、朝鮮半島で、軍や総督府が選定した業者が違法な方法で女性たちを集めたことを警察が黙認しなければ出国許可は下りていないはずです。1人2人でなく20人近くもの女性たちなわけですから、うっかり見逃すというのは考えにくい。
さらに軍は軍用船の乗船許可を与え女性を移送し、現地では憲兵兵站担当の将兵などが受領しますが、その際も身元調査などを行っているはずなのに軍が女性たちを送り返し業者を罰するなどをしていないのです(刑法第226条、刑法第227条に違反)。
こうした事例を見ていくと、日本政府や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」という否定論者の主張が、まったくのデタラメであるとわかります。

伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212
1938年に入隊した作家の伊藤桂一の記録、場所:中国

兵隊と、なんらかの意味で接触する女性は、慰安婦のほかには、中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団、それに看護婦くらいなものだろう。このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである。

伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社,1986年

騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。

伊藤桂一氏は、92年に慰安婦が大きく問題化する以前はこのように率直に語っています。近年は保守系雑誌『諸君!』で性奴隷を否定する主張などもしていますが、それでも軍が慰安所を作ったことや慰安婦が軍属扱いだったことなどを語っており*6、元慰安婦の悲惨さも知ってるがゆえに彼女たちに同情的です。ネットで捏造を拡散している人達のように「単なる金ほしさの売春婦だ!」などという誹謗中傷はしていません。

■『従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54
陸軍パイロットの証言、場所:マレー

マレーの場合、飛行場は町外れにあったので、町にある慰安所までは、一、二里あります。そこで慰安所に行くときはトラックにギッシリ乗って行きました。中隊ごとに200人ぐらいが外出しました。……「トミコ」という源氏名朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が「私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて…もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。

これも騙されたケースです。刑法第226条、第227条などに違反する犯罪に当たりますが、ここでも軍及び憲兵が取り締まった様子がありません。

■『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16
独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、場所:中国北部の山西省太原

大隊本部がある太原には慰安所がありました。……日本人女性は将校専用なので下級兵士は行けません。朝鮮人と中国人の2ヶ所が下級兵士用です。……朝鮮人のところへ行った時には話をしただけでした。彼女は田舎の出身で家が貧しく、お金儲けができるからと日本の工場へ誘われて来たのに、気がついたら慰安所で、結局あきらめざるをえなかったと言っていました。

これも騙されたケースですが、貧困層の女性であり前借金に縛られ連れて来られた可能性が高いと思われます。ここでも軍は管理下にある業者を処罰していません。

■山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年
第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。場所:ビルマミャンマー )、中国・海南島

第十八師団の兵士が、ビルマのメイミョーの公光荘という軍慰安所で出会ったマリ子という日本名をもつ朝鮮人慰安婦から聞いた話によれば、彼女は、下関に住んでいたとき「対馬陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという。
(吉見義明『従軍慰安婦岩波新書,1995年,p.91より重引用)

これも騙されたケースで、国際条約や刑法第226条及び刑法第227条に違反しています。

■輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』
カリマンタン・タラカンにいた同中隊の戦中記に記された兵士の記録。時期:1944年

慰安婦は三十名余りおり、その中の一人に源子名(ママ)を清子(本名リナー)と名乗る十八才の若い娘を知り、よく遊びに行った。彼女らはセレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙(だま)されて、ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった。

(『皇軍慰安所とおんなたち』吉川弘文館,2000年,p.118、『従軍慰安婦岩波新書,pp.123-124、「戦争体験記・部隊史にみる『従軍慰安婦』」季刊 戦争責任研究 第5号、94年秋季。より重引用)

これは日本内地や植民地から連行されたケースではなく、インドネシアで騙しによる誘拐によって慰安婦を強制されたケースですが、軍の方で当時、犯罪と認識している様子がありません。

■河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年
海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島

一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
秦郁彦慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用)

これも騙されたケースです。刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たりますが、ここでも取り締まった様子はありません。

■鈴木卓四郎『憲兵下士官新人物往来社,1974年,pp.91-93
鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言

一九四〇年夏の南寧占領直後に〈陸軍慰安所北江郷〉と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は〈田舎の小学校の先生を思わせる青年〉で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、〈兄さん〉としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。
秦郁彦慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.383より重引用)

軍から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」とのことで女性を集めた朝鮮人の業者自身が騙されていたと思われるケースです。

■鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年
海軍所属の兵士・鹿野正伍の記録。場所:トラック諸島の夏島(現ミクロネシア・チューク諸島)

(夏島の慰安所で)妓に内地に手紙を出してくれと頼まれた。「助けると思って、中を読んでください。騙されて連れてこられました」妓は掌(てのひら)を合わせた。媚びた感じではない。妓の目尻に光るものがみられた。

■『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127
1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された軍属の記録

― その夏島に「慰安所」があったのですね。

松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。

源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。

トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。
http://194586245.web.fc2.com/18.htmlより)

このケースも刑法第226条に違反した犯罪ですが、朝鮮半島を出国する際には警察が身分証を発給し出国の許可を与え、トラック諸島まではおそらく軍用船で連れて行かれていると思われます。
そして、ここでも女性たちは送り返されることなく軍管理下の慰安所慰安婦になることを強要されています。警察や軍が厳しく取り締まった形跡は何処にもありません。

■陸軍通訳の永瀬隆の証言。場所:シンガポール

シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)に駐留していた陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12〜13人が送られてきて慰安所が開設された。……氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、その教育にあたった。彼女らと話をしていた時に「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100 円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えたという。
林博史マレー半島における日本軍慰安所について」http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htmより)

朝鮮人」の「12〜13人」の女性たちは「レストラン・ガール」と騙されて連れて行かれ慰安婦を強要されています。これも刑法第226条に違反する犯罪ですが、軍の方でそれが犯罪であると認識している様子がありません。

■溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58
山口時男軍医の1940年8月11日の日記 場所:中国中部
1940年8月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、20数名の若い女性が集められたが、その性病検査を担当した軍医は、8月11日の日記に次のように記録している。

さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか襌子(ズボン)をぬがない。通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?
なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れない。
(『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波書店,2010年,pp.25-26より重引用)

これは中国人女性の事例ですが、中国ではこのように占領した地域の有力者に女性の供出を命じて女性を徴集した事例が多く報告されおり、徴集の形態が日本内地や植民地であった台湾・朝鮮とは異なっていました。
そしてこの軍医は当時の日記に、慰安婦を強いることが「人間性を蹂躙している」と感じ、そうした「意識が念頭から離れない」と苦しい胸の内を書き留めています。
一方、現在の慰安婦問題否定論者の言動から溢れ出す人権感覚はどうでしょうか、戦時中に存在していた人権感覚よりひどい状態にあると言えそうです…。

公文書に記述された慰安婦の強制

■『日本人捕虜尋問報告 第49号』1944年
1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人慰安婦と2名の日本人の周旋業者に対する尋問調書。
場所:ビルマ・ミッチナ(ミャンマー・カチン州)

1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡し金(前借金)を受け取った。

アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
http://megalodon.jp/2008-1206-1528-25/members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html

この資料は歴史修正主義者に都合良くつまみ食いされることが多いのですが、丁寧に読んでいけば、軍から慰安婦の徴集を依頼された日本人の業者が朝鮮半島で騙しによる誘拐と人身売買によって、連行当時17,8歳の未成年を含む女性たち22名を連れて来ていること。そして女性たちが軍の管理下の慰安所で本人に意思に反し性的“慰安”を強要されたことが明らかにされています。

■『極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186
極東国際軍事裁判東京裁判)の判決
場所:中国南部の桂林

桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した

東京裁判の判決文のなかに、日本の軍隊が女性を「女工を募集」と騙して集め「醜業(売春)を強制した」と記述されています。これは軍が女性たちに売春を強制し慰安婦にしていた証拠ですが、ここで重要なのは、このような犯罪行為が当時、軍のなかでなんら問題にされず見過ごされていたということです。

慰安婦」制度が違反しているもの

当時の、刑法第226条、刑法第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童の売買を禁止する国際条約、強制労働条約 第29号(1930年)、奴隷条約(1926年)など。

引用・参考文献(一部)

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