【10分で聴く私本太平記3】下天地蔵5〜6🪷〜足利又太郎尊氏殿、今度は新千載和歌集を撰した 冷泉為定殿に会いに行く。和歌の学びも武家の嗜み🌟勉強は大事なり📕by 😼 (original) (raw)
【私本太平記5 第1巻 下天地蔵5〈げてんじぞう〉】🎍「‥あの傲慢な生き物が、わしには、まざと、鎌倉の執権殿そッくりに見えてきたのだ。そこが酒だな。もう余りは過ごすまい」
「右馬介、右馬介っ。早く来い。逃げるが一手だぞ」
わざと五条橋を避け、
主従とも、七条河原へまぎれたのは、
相手の追尾《ついび》よりも、帰る先と、
身分を知られることの方が、
より恐《こわ》かったからにちがいない。
「いやどうも、若殿のお悪戯《わるさ》には、
驚きまいた。物にもよりけり、相手にもよるものを」
「やはり酒のなせる業《わざ》だったな」
「そんなお悪いご酒癖《しゅぐせ》とは、
ついぞ今日まで、右馬介も存じませんでしたが」
「はははは。犬も悪かった。
あの傲慢《ごうまん》な生き物が、
わしには、まざと、
鎌倉の執権殿そッくりに見えてきたのだ。そこが酒だな。
もう余りは過ごすまい」
「ここは闇の河原、ご放言も、まず大事ございませぬが、
そんなお胸の底のものは、
他所では、ゆめ、おつつしみなされませ。
先刻の小酒屋でのお振舞なども、
金輪際《こんりんざい》、ご口外は」
「右馬介は、いつまでわしを子供と思うてぞ。
知っている。心得ておるよ。
……ところで、除夜の鐘はまだか」
「はて。除夜はとうに過ぎておりまする。
やがて東山の空も白みましょうず」
「では、はや元日か。
さても、おもしろい年を越えたな。
今年は初春《はる》の夢占《ゆめうら》も
よからん気がするぞ。
なあ右馬介、もう寝るまもあるまい。
宿所へ戻って、若水《わかみず》でも汲むとしようよ」
やがて二人の姿が帰って行った先は、
北ノ六波羅の一|郭《かく》だった。
むかしは平家一門の車駕《しゃが》が
軒なみの甍《いらか》に映えた繁昌のあとである。
平家亡んで、
源 頼朝、実朝の幕府下にあったのもわずか二、三十年。
——以後、北条氏がとって代ってからは、
中興のひと北条|泰時《やすとき》の善政、
最明寺時頼《さいみょうじときより》の堅持、
とまれ、北条家七代の現執権高時の今にいたるまで、
侍どころ所司《しょし》、検断所、越訴《えっそ》奉行などの
おびただしい鎌倉使臣が居留している
その政治的|聚落《じゅらく》も、
いつか百年余の月日をここにけみしていた。
夜はしらむ。
年輪をかさねた六波羅松の松の奏《かな》でに。
近くの八坂《やさか》ノ神の庭燎《にわび》、
祇園《ぎおん》の神鈴など、
やはり元朝は何やら森厳《しんげん》に明ける。
【私本太平記6 第1巻 下天地蔵6 〈げてんじぞう〉】二日の昼。彼は、和歌の草稿をふところに、冷泉為定《れいぜいためさだ》を訪ねた。為定は後に“新千載和歌集”を撰した当代著名な歌人である。
明けて、ことしは元亨《げんこう》二年だった。
頼朝の没後から百二十二年目にあたる初春《はる》である。
又太郎は一室で、清楚な狩衣《かりぎぬ》に着かえ、
烏帽子も新しくして、若水を汲むべく、
庭の井筒《いづつ》へ降り立っていた。
上杉|兵庫頭《ひょうごのかみ》憲房《のりふさ》である。
ここはその邸内だったのはいうまでもない。
「アア都は早いな」
井筒のつるべへ手をかけながら、
又太郎はゆうべの酔の気《け》もない面《おもて》を、
梅の梢《こずえ》に仰向けた。
「——国元のわが家の梅は、まだ雪深い中だろうに。
……右馬介、ここのはもうチラホラ咲いているの」
「お国元のご両親にも、今朝は旅のお子のために、
朝日へ向って、ご祈念でございましょうず」
又太郎に、返辞はなかった。
彼も若水の第一をささげて、
まず東方の人に、拝《はい》をしていた。
彼にとれば、ここは旅先の仮の宿所だ。
ひまで、のんきで、身をもてあますほどである。
が、伯父の上杉憲房には寸暇も見えない。
元日の朝、
大書院から武者床《むしゃゆか》を通した広間で、
家臣の総礼をうけたさい、
共に屠蘇《とそ》を祝ったりはしたが、
あとは顔を合せる折すらなかった。
次々の賀客を迎え、客がとぎれると、
彼自身、
駒飾《こまかざ》りした騎上の人となって出て行くし、
夜は夜で、探題からの迎えがくる。
「いや、六波羅勤めも忙しいものだな。
伯父上が口ぐせに、帰国の日を待つお気持ちもわかる」
二日の昼。
彼は一ト綴《とじ》の和歌の草稿をふところに、
冷泉為定《れいぜいためさだ》の四条の住居を訪ねていた。
東国育ちの武家の子又太郎にしては、
そんな文雅な人を訪うのはためらわれたが、
これは母との約束だった。
元来、
母系は勧修寺家《かんじゅじけ》の公卿《くげ》出であったから、
彼の母もわが子をただあじけない坂東骨《ばんどうぼね》一辺の
粗野な武人には仕立てたくはなかったのだろう。
兵家必修の日課のほか、
つねづね彼へ和歌の学びをもすすめていた。
そしてこんどの上京には、
ぜひ冷泉どのの門をたたいて、
末長く詠草を見ていただくようにお願いせよと、
手紙まで持たせられて来たのであった。
折よく、在宅していた為定は、
「おう、めずらしいお文」
と、手にした仮名文《かなぶみ》をなつかしみ、
さてまた、これがその人の子息かと、
ひと間のうちに、しげしげと見て。
「ほ。其許《そこもと》がこのお便りにある
足利清女《あしかがせいじょ》どのの御嫡男かの」
「いえ……」
と又太郎は、うすらあばたの頬を、どぎまぎ紅くして、
さらに居ずまいを改めた。
「——早逝《そうせい》でしたが、兄義高があり、
私は次男にございまする」
「が、まあ、兄君がおわさねば、
其許がお世継じゃろうが。して御官位は」
「申しおくれました。
——下野国《しもつけ》足利ノ庄の住《じゅう》、
貞氏《さだうじ》の次男、
利又太郎|高氏《たかうじ》といいまする。
十五で元服の折、治部大輔《じぶのたゆう》、
従五位下をいただきましたが、何もわからぬ田舎者で」
「御卑下《ごひげ》にはおよばぬ」
為定は、うちけして。
「下野足利ノ庄といえば、天皇領の御住人」
「はい。足利ノ庄の内には、世々、八条院の御旧領があり、
それが今上《きんじょう》の御料に移されておりますゆえ、
畏《おそ》れあれど、申さばわが家は、
朝廷の一|被官《ひかん》でもござりまする」
「それ御覧《ごろう》じ。
お血筋といえば北条殿には劣らぬ正しい源家の流れ。
家職といえば現帝の御被官。
なぜ、遠いお旅をば、供人も召されずに」
「とかく、故なき上洛は、
鎌倉の幕府の忌《い》むところでございまする。
が、父貞氏の健やかなうち、
少しなと世上の見聞《けんもん》を広うしておきたいものと、
たって父母にねだって出て参ったのです。
忍びやかでこそ、六波羅の身寄りの家にも置かれますので」
「なるほど、朝家《ちょうか》の御被官であるだけでなく、
幕府の御家人でもおわせられたの。こりゃ、むずかしかろ」
やはり世事にはうとそうな老歌人の言である。
為定は抜け歯の多い口をあいて笑った。
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