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シネマヴェーラ渋谷アイダ・ルピノ特集でノン・クレジットながら実質初監督作品となった『望まれざる者』(1949)を観る。すでに他のアイダ・ルピノ監督作を全て取り上げたので(※注1)、これも外すわけには行かないだろう。
もともとはサイレント期から活躍する職人監督エルマー・クリフトンが撮るはずだったが、病気で倒れ、ルピノがほとんど撮ったといわれている。またルピノは、制作・脚本にも加わっている。
当初予定されていた題名 "Unwed Mother" が示すように、無知と向こう見ずゆえに未婚の母となってしまう少女の悲劇を取り扱っている。いかにもルピノ-というか、ルピノとコリアー・ヤング(※注2)のチーム-らしい社会派の題材だ。

それにしてもルピノ演出はこれが初とは思えぬほど才気と力強さに満ちていて、驚かされる。
例えば、ヒロインがどんどんこちらに向かって歩いてくるファースト・カットも強烈だが、すぐ後の赤ん坊を抱き上げてからの移動ショットの素晴らしいこと! ヒロインがピアニストと破局して、叩きつけるように弾くピアノの音が漏れ聞こえる中を夜道を歩き去るカットなども凄く、言葉に頼らずともカメラが役者を追うことで何とも言えぬエモーションが満ちてくるのが見事なのだ。
ラストはヒロインと彼女を愛した義足の男の追跡シーンになり、義足であんなに走れるのかとも思うのだが、ここはもう、見せ場として歌舞伎のかけ声でいう「たっぷり!」ってところで、息をこらして見るしかないだろう。荒唐無稽に近いかも知れないけど、ロケーション撮影の生々しさも効果的で、これぞ映画の力と感動してしまう。
もちろん会話による芝居シーンの役者たちの動かし方、それらを捉えるカッティングも適切で、確信あるクローズアップにも引き込まれる。スピーディに撮りながらツボを外さないプロらしさが、既に完成されているのだ。

ヒロインを演じるのは初期ルピノ監督作を彩る美少女、サリー・フォレストで、これが初主演作-というか、それまではダンスシーン出演ばかりだったので初ドラマ演技作-とは思えぬ大熱演。監督でも先輩女優でもあるルピノの指導に、よく応えている。
彼女を愛する二枚目どころのキーフ・ブラッセルも悪くはないが、むしろ印象に残るのは半ば悪役とも言えるピアニストのレオ・ペン。女に無責任でありながら、どうしようもない漂白者の哀しみも漂っていて、実に見せる。ピアノの弾きっぷりも見事なものだ。
このひとは赤狩りブラックリストに載り、映画界を干されてテレビ界に移ってからも役者としては敬遠され、テレビ監督に転身して活路を開いたという波乱の生涯のひと。ショーン・ペンクリス・ペン、そしてミュージシャンのマイケル・ペンの父親である。
他に役者では、アイダの妹のリタ・ルピノが、ヒロインの産院の同室の女性を演じて、なかなか印象深い。
ピノ監督とはこの後も組むリース・スティーヴンスの音楽も、雰囲気満点で素晴らしい。

なお本作を含むルピノ監督作品のほとんどは、この記事を書いた時点で YouTube で全篇視聴可能。興味あるひとは原題+制作年(本作の場合は "Not Wanted 1949")で YouTube 検索してみて欲しい。

注1:「アイダ・ルピノ監督作『恐れずに』(1950)『暴行』(50)『ヒッチハイカー』(53)」 および「アイダ・ルピノ監督作『強く、速く、美しい』(51)『二重結婚者』(53)『青春がいっぱい』(66)

注2:初期のルピノ監督作のパートナーとなった脚本家・プロデューサー。ルピノと共に社会性のある題材を低予算で制作するプロダクションを興した。また、1948~51年の間、ルピノの夫でもあった。

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シネマヴェーラ渋谷で開催中のアイダ・ルピノ・レトロスペクティブ「カメラの両側で…」で未見だった3本の監督作を観て、この麗しい女優が凄い監督だという確信を、ますます深めた。
ということで本記事は、2023年7月4日の "アイダ・ルピノ監督作『恐れずに』(1950)『暴行』(50)『ヒッチハイカー』(53)" の続編である。

ここでまず、ルピノの決して多くはない監督としてクレジットされた劇場用映画を、アメリカ本国での公開年月とともに列記してみよう。

恐れずに』(1950年1月)
暴行』(1950年9月)
強く、速く、美しい』(1951年5月)
ヒッチハイカー』(1953年3月)
二重結婚者』(1953年11月)
青春がいっぱい』(1966年3月)

上記の他に、急病のエルマー・クリフトン監督に代わりノン・クレジットで初監督した『望まれざる者』(49)、ニコラス・レイ監督作だが部分的に監督した『危険な場所で』(51)があり、両作とも今回の特集で上映されている。また、『サンセット77』『ヒッチコック劇場』『逃亡者』『トワイライト・ゾーン』等々、かなりの数のテレビドラマの監督作があり、職人としての手腕が信頼されていたことがうかがえる。

「私は女優としては安上がりのベティ・デイヴィスだったけど、監督としては安上がりのドン・シーゲルだったわね」

この言葉はまあ自嘲ではあるのだが、一方でルピノの監督としての特徴をも捉えている。
実際、シーゲルを思わせるような要素はあり、それは単に題材としてのサスペンス演出が得意というだけでなく、人物間の緊張関係を素早い手つきで画面に収め、さりげなく次なる劇的展開への予感を感じさせ続けるような、言わば「あらゆる瞬間が活劇」といった映画作りにある。
その上で社会問題への関心の高さが作品に力感をもたらし、また嫌味にならない才気はしばしば描写の新鮮さとして結実しているのだ。

今回観たうち最も年代が早い『強く、速く、美しい』(別題『砂に咲くバラ』)は、テニスの天才少女が野心家の母親の意図に乗せられてスター街道を駆け上っていく話で、金に汚れたアマチュア・スポーツ界の問題を扱っている。

クレア・トレヴァーの演じる母、ミリーの人物像が強烈で、彼女を中心に人々の関係が軋んでいくのが、テニスという対決のドラマとシンクロして映画に血を通わせる。そしてテニスの試合がネットで左右対称に仕切るように、ミリーと夫の寝床は奇妙な対称構図で捉えられ、娘とは柱を隔てた構図から衝突のドラマに展開する。
やがてミリーは次々と周囲の人間に見放されていくのだが、中でも病床の夫が-死にゆく者の特権であるかのように-断罪の言葉を連ねて徹底的に突き放すところは強烈だ。
娘役は『望まれざる者』『恐れずに』でもルピノと組んだサリー・フォレストで、ドラマ部分だけでなくテニスでも大健闘している。

『二重結婚者』はタイトル通り、本妻がいながら出張先で新たな女性と結婚してしまった男を巡る物語。本妻イヴをジョーン・フォンテイン、新たな妻フィリスをルピノ自身、二人に引き裂かれる男ハリーをエドモンド・オブライエンが演じる。
ちなみにルピノの仕事上のパートナーであり本作でも脚本と制作を担当したコリアー・ヤングは、ルピノと51年に離婚したばかりで本作撮影時にはフォンテインと結婚していた。

まず始まってしばらくは養子斡旋業の男によるハリーの身辺調査を探偵もの風に描き、第二の結婚生活という真相にたどり着いてからは、ハリーが男に語るフィリスとの出会いから今に至るまでの回想談となる。この構成が実に巧みで、ヤングの名脚本と言えよう。
ピノ演出もそれまでの作品よりも一段と磨きがかかった印象で、ハリーとフィリスのバスでの出会いは名シーンと言っていいし(役者アイダ・ルピノの美しさ!)、フィリスのアパートの階段の使い方も良くて、登っていく彼女と下のハリーがなかなか手を離せないところなど実に巧い。
やがてハリーは自らの罪を警察に自供し、本妻イヴのもとを去るのだが、そのシーンの扉(部屋の扉とエレベーターの扉)と窓、そして電話が、フォンテインの大熱演の中でドラマチックに機能するのなど、鳥肌が立ってしまう。電話から漏れる重婚の事実を伝える声が映画音楽(つまり本作の劇伴)にかき消されるのも凄い(※注)。
続く最後の法廷シーンとその幕切れも、役者で見せる映画として見事。

その後、ルピノ監督作はテレビドラマばかりになり、10年以上を経てやっと撮ったのが『青春がいっぱい』。そして結局、劇映画としては最後の監督作となった。
それまでシリアス色の強かったルピノ監督作だが、これはタイトルからもうかがえるように明るいコメディで、軽い注文仕事のようにも思えるし、本人もそのつもりで取り組んだのかも知れない。
しかしこれが本当に傑作で、個人的におススメするならこの1本と言えるぐらいなのだ。

内容は尼僧院の全寮制の女子校にやってきた女の子たちの卒業するまでの日々を描いたもの。主にいたずら好きの問題児のメアリー(ヘイリー・ミルズ)と美人だがちょっと抜けたレイチェル(ジューン・ハーディング)のコンビが中心となる。彼女たちを厳しくしつける院長がロザリンド・ラッセルで、本当にいい。
この3人に立場と年齢を超えた友情めいたものが感じられてくるのに、社会派監督だったルピノヒューマニズムが濃厚に感じられる。

アニメーションの愉快なクレジット・タイトルから数シーンあって、レイチェルたちがバスで学校にやってきて車窓から寂れた景色を見て不安がるところに、どことなく西部劇的な呼吸を感じる。
そういえばルピノは『ヒッチハイカー』でも大いに西部劇らしさを感じさせた。さすればこの題材を、女たちの騎兵隊駐屯地もののようにも感じながら撮ったのかも知れない。

本題に入ってからの学校の日々では、省略を利かしながらシャキシャキとつないでいってるので、あれもう1日経ったの?もう半年?…と戸惑ってしまうのだが、そんな中で女の子たちがイキイキとし続けてるので、浮世離れた映画の世界の日々として、気持ちよく受け入れられてしまう。
そして観終えたあとは、ひとつひとつのシーンを幸せな思い出のように愛することができるのだ。

そんな中でも、院長が窓からレイチェルのおじの愛人を見て、無言のうちにレイチェルの不幸さを感じ、見捨ててはならぬと決意するところなどは、深みを感じさせる演出といえる。
そしてラストにはみごとな駅の別れのシーンが用意されているが、詳細は書くまい。ただ、見逃さないで欲しいのは、物言わぬ他人たる車掌の使い方の巧みさだ。

ピノ監督作としては珍しいカラー作品だが、ライオネル・リンドンの撮影が美しい。実力の割にあまりにも監督作の少ないルピノではあるが、これを撮ってくれて本当に良かった。

注:音楽といえば、『二重結婚者』には素晴らしいジャズ系シンガーソングライターのマット・デニスが登場して、自作曲 "It Wasn't The Stars That Thrilled Me" を披露してくれるという嬉しい御馳走がある。

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YouTube にテリー・O・モース監督作『ギャング王デリンジャー』(1965)が全篇あがってるのを、発見した。
1930年代に数々の銀行強盗を繰り返した有名なギャング、ジョン・デリンジャー伝の映画の1本。同じ題材のものには、当ブログでも取り上げたマックス・ノセック『犯罪王ディリンジャー』(45)、ジョン・ミリアスの監督デビュー作『デリンジャー』(73)、マイケル・マンパブリック・エネミーズ』(2009)などがあり、いずれも観ているので、比較したい気持ちもあって無字幕版ながら観てみた。

デリンジャーというとベビー・フェイス・ネルソンら曲者たちを率いた親分のイメージが強く、実際の写真を見ても年齢以上の貫禄を感じる。役者で言えばミリアス版で演じたウォーレン・オーツが顔も似てるし、最もハマリ役だろう。
対して、ニック・アダムス(※注)演じる本作のデリンジャーはすぐキレ散らかすチンピラで、原題の "Young Dillinger" が示す駆け出しの頃だけならそれもアリだが、強盗チームを率いて名を上げてからも雰囲気が変わらないのは、少々、軽すぎる。ロバート・コンラッド扮するプリティ・ボーイ・フロイドのほうが、格上に見えてしまうぐらいだ。
ちなみに『犯罪王ディリンジャー』も若い頃から始まるが、主演のローレンス・ティアニーは危ないやつのままリーダーとしてのふてぶてしさを備えていく感じを、もっとうまく出していたと思う。

まあ主人公がそんな感じだから安っぽく見えてしまうのは仕方なく、実際本作はB級映画の傑作とされる『犯罪王ディリンジャー』よりも更に低予算で手早く撮られた感じがする。こうした条件下では作り手の力量がストレートに反映してしまい、観ていて悲惨な思いをする場合も多々あるのだが。幸い本作はストレス無く楽しんで観続けられるだけの、プロの仕事としてのレベルは保っているようだ。
これは撮影が『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942)『狩人の夜』(55)『ショック集団』(63)の巨匠スタンリー・コルテスということも、大きいのだろう。カットを割らずに途中でカメラが寄るだけの長回しであってもフレーミングが的確なので、画面がそこそこ締まって見えるのだ。ウエスト・コースト・ジャズの大物、ショーティー・ロジャースの音楽が活気を添えているのも嬉しい。
またモース演出も随所でやる気を発揮していて、デリンジャーとフロイドが監房で取っ組み合いの喧嘩を経て仲間になるところとか、役者の頑張りもあってちょっとした名シーンになってる。低予算なりのドラマの見せ方はそれなりに心得た職人だったのだろう。
一方、物足りない部分もあって、特に盛り上がるべきクライマックスの現金輸送車襲撃で、アクションの段取りがもたついてしまうのは残念なところだ。これが例えばドン・シーゲルなら、誰かが撃ってる間に誰かが次に繋がる動きを "同時に" やってるのをテキパキと見せて、活劇の醍醐味を味わわせてくれるだろう。休まない疾走感が大事なのだ。

シーゲルといえば、本作ではデリンジャーが最初の犯罪からずっとヒロインと一緒で、いわゆる "アウトローカップルもの" の味があり、特にシーゲルの傑作でベビー・フェイス・ネルソンを扱った『殺し屋ネルソン』(57)を思わせるものがある。どちらにもデリンジャーもネルソンも登場するのでややこしいのだが、『ギャング王デリンジャー』のデリンジャーと恋人の描き方が『殺し屋ネルソン』のネルソンと恋人のそれに似ているのだ。
単純に影響を受けてるだけではなく細部にも似たところがあって、特に保釈になったデリンジャーが恋人の助けで付き添いの刑事から逃走するところ、コケにした街の顔役を殺すところなど、そっくりと言っていい。後者などロケーション場所も同じじゃないかと驚いたのだが、実は両作ともプロデューサーが同じアル・ジンバリストなのだ。そして本作でネルソンを演じたジョン・アシュリーは「『殺し屋ネルソン』での機関銃や車の衝突場面を流用している」と証言している。
そこで改めて街の顔役を殺す場面を『殺し屋ネルソン』と比べてみると、場所もカット割りもまるでそっくり。それには理由があって、撃たれた3人が階段を転げ落ちる2つのカットだけ、『殺し屋ネルソン』のをそのまま使っているのだ。あまりにも大胆な使い回しに驚くが、他のシーンも細かく調べるといくらでも出てくるのだろう。
ラスト近くでデリンジャーと恋人が(シーンの内容的には特に必要もないのに)墓地にたどりつくところなど、いろいろと使わせてもらった『殺し屋ネルソン』のラストシーンに目配せを送っているようにも思えた。

考えてみれば『犯罪王ディリンジャー』も、フリッツ・ラング暗黒街の弾痕』(37)のカットを流用したことで有名な作品だった。その事件がピーター・ボグダノヴィッチによるラングのインタビュー本のタイトル「映画監督に著作権はない」を決めたぐらいである。
映画世界でのデリンジャーは銀行の金ばかりではなく、映画の画面をかっぱらう男と言えてしまいそうだ。

注:ニック・アダムスといえば『フランケンシュタイン対地底怪獣』(65)『怪獣大戦争』(65)への出演で日本映画ファンにも親しまれてるが、テリー・O・モース監督は初代の『ゴジラ』(54)のアメリカ公開版を作ったひと。本作は監督・主演ともに東宝特撮映画に縁があるのだ。

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シネマヴェーラ渋谷で、離婚を決意した妻が旅に出かけるという点で共通するハリウッド黄金時代の傑作コメディを二本。

うちジョージ・キューカー女たち』(1939)は以前、無字幕のを睡眠不足で観たときに眠ってしまった。
こんな風に、どんな傑作だろうが体調・条件によってうまく観られないことがあるのも、自分は評論家にはなれないと思う理由のひとつである(※注1)。今回は体調万全だし、字幕付きなので安心だ。

プレストン・スタージェスパームビーチ・ストーリー』(42)(※注2)に至っては、以前観たはずで場面の感じも何となく記憶にあったのに、今回、初見なことが判明してしまった。
してみると、俺がその映画だと思っていた、倦怠期(だったっけ?)の夫婦が左右対称の構図でリゾート・ホテルのエレベーターを降りたり、回転ドアを抜けたりする映画は何だったんだろう。
いずれにせよ、どちらも今回、映画館で観られて幸せだった。

『女たち』はタイトル通り女性スターのみをズラリ揃えた一篇だが。観ているときの贅沢感で言えば、どこかホークスの『リオ・ブラボー』(59)などの後期作に通じるものがある。メリハリをつけて物語を一直線に語り切ることよりも、シークエンスごと-いや、もっと極端に言えば-カットごとに役者が芝居の「しどころ」を見せてくれるのを、身を浸るようにして楽しめる花形歌舞伎のような贅沢感。
例えば、地味な役回りにも思えたジョーン・フォンテインがいきなり電話の場面で彼女主役のドラマを演じるときの感動。ストーリー的には無くてもいいような場面で酔わせてくれる豊かさがあるのだ。
もちろん主軸となる話の見せ方も凄いところだらけで、特に主人公ノーマ・シアラーがドレスの展示・試着会で夫の浮気相手が来てると聞かされたときの微妙な表情から立ち上がって人の流れを気にせず歩き続けるのは、キューカー監督の技芸の極致。ラストでやり込められた悪役のジョーン・クロフォードが、たった1カットのアップで、「かっこいい退場」を印象付けてしまうのも凄い。
言うならば、初老のアメリカ人夫婦がディナーを終えてから劇場で楽しむような一級の「大人の娯楽」で、終わってから拍手したくなりましたよ。

『パームビーチ・ストーリー』は、クローデット・コルベール演じるヒロインの行動原理がいまひとつ理屈では分かりにくいところに、逆に浮世離れた可愛さがあるのが、実にこの監督らしい。
愛する男と別れることにこだわって、前後の見境なく行動し続けるのに「このひとはこうなんだから仕方ない」と納得するしかない感じ。まるでシェークスピア喜劇を見ているようなお伽噺感だ。
だから夜行列車で、狩猟会が歌い出そうが、クレー射撃を始めようが、ヒロインが顔を踏んづけた男がアメリカ屈指の大富豪だろうが、車掌が独断で客車を切り離そうが、「そういうものだ」と観続けるしかない。そしてパームビーチに到着してからは、物語の主要部分を社交ダンスのシーンだけで展開して見せる語り芸に、舌を巻くしかなくなるのだ。
ラスト近くで大富豪の歌が実に効果的に使われるのは、のちに『殺人幻想曲』(48)という不思議な音楽映画の傑作を撮ったこの監督ならでは。「全て冗談ですよ」と言わんばかりのオチをぶつけてくるのも、大胆さ炸裂で嬉しくなってしまう。ヒロイン以上にスタージェス自身が-時には計算を離れた-「飛び方」ができるのだ。

それにしてもどちらの映画も、あれやこれやの場面転換や活劇的な役者の動きで楽しませながら、すべて解決する局面では、限定的な室内空間に主要登場人物を集めて、余計なものナシのお芝居だけで見せ切ってしまう思い切りの良さに、感服させられるというしかない。
脚本・演出・スターの魅力の全てに自信がないと、やれないことだ。この余裕を、最近の映画でも見ることはできないものだろうか。

注1:これ以外にも、自分には、ちょっとした気分が割と映画の印象を左右してしまうことがある。そういうのを極力抑えて日常的に作品評をこなせるのが、プロの評論家だと思う。じゃなきゃ、単なる映画ライターだ。

注2:1948年の日本初公開時の題名は『結婚五年目』。

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シネマヴェーラ渋谷が9月7日から「プレコード・ハリウッド」なる特集をやるらしい。
ご存知ない方のために書くとここでの "コード" とは、宝塚歌劇のコメディ(※注1)の題材にもなったいわゆる "ヘイズ・コード" のことで。1934年からアメリカ映画製作配給業者協会によって実施された自主規制の条項で、これがために以後60年代ぐらいまでのハリウッド映画は道徳的な見地から性や暴力などの表現が抑えられ、一方で政府や活動団体による過剰な介入への防波堤となったのである。

こんなのが必要だったのは、それだけ以前にカッコ付きの「良識派」から問題視されがちな題材や表現があったということで、"プレコード(=コード実施以前)映画" という言葉はなかなか魅惑的な響きを持つわけだ。
特にその最後期には実施のきっかけと名指しされる作品も複数あって、今回シネマヴェーラで上映される中ではジャック・コンウェイ監督作『赤毛の女』(1932)などそうした一本らしい。

そして当記事で取り上げるアルフレッド・E・グリーン監督作『紅唇罪あり』(33)は『赤毛…』に強い影響を受けた作品と言われ、ヘイズ・オフィスの警告と全国の検閲官からの反発を受けた自主規制的な変更を経ての公開という経緯は、翌年からの全映画へのコード適用という事態につながっていくのである。
シネマヴェーラの特集からは-『赤毛…』と被るからだろうか-洩れてしまったが、こうした歴史的重要性に加えて、何つっても愛すべきミッシーことバーバラ・スタンウィックの若き日の有名作であり、さらには現在、修正前と修正後のヴァージョンが観比べられるので(※注2)、ヘイズ・コード的なものがその黎明期に映画にもたらした変更が具体的に分かる点で、ハリウッド映画好きには見逃せない一本となっているのだ。

現在、国内で公に見ることができるのは修正された公開版で、財布に優しいコスミックの廉価版 DVD ボックス・シリーズに収められている(『一度は観たい! 珠玉の名作映画 愛の終焉』 DVD 10 枚組)。何でもこれが国内初 DVD 化ということで、コスミックは本当にエライ。英語ヒアリングが堪能な方を除き、日本語字幕付きのこれをまず観るのがいいのではないだろうか。自分はそうした。
で、その後に未修正版を観る正当な方法としては、輸入盤の DVD に公開版/未修正版の両方を収めたのがあるので、それを買えばいいのだが。この記事を書いている時点では、"Baby Face 1933" で Google 動画検索したらネット上にごにょごにょ…(※注3)いや、みなまで言いますまい。とにかく自分は観比べることに成功しましたよ。

物語は地方のモグリ酒場の娘で客に売春まがいのことまでやらされていた主人公リリーが、都会に出てきて大銀行に入り込み、"女" を武器に上司を次々と陥落していって、昇りつめていくというもの(※注4)。
明快な劇画タッチともいえるピカレスク・ロマンで、その割り切った不道徳性には痛快ささえ感じる。勢いで書いたようなスピード感あるストーリーは、ダリル・F・ザナックによるもの。将来有望な若手幹部をたらしこみ、その婚約者の父親の副社長まで夢中にさせて、男二人の血みどろのトラブルにまで至る極端な展開は、まるで鶴屋南北だ。

鋭角的なメイクを施したミッシーは湿りすぎないハードな色気で、男に絡むときの目つき、身のこなしに「うわ、これは確かにたまらんな!」と身震いさせられる。
その行動を(原題になってるポピュラー曲『ベビー・フェイス』(Baby Face)ではなく)『セント・ルイス・ブルース』(Saint Louis Blues)が彩っているのが、また映画にある種の調子の良さをもたらしている。
グリーン演出には天才性さえ感じられないものの、モグリ酒場やオフィスなど、人物が多いところで軽快に芝居をさばくのは、さすがサイレントから鍛え上げた職人のわざ。役者にたっぷり芝居させながらお話をテキパキと語ってくれて、飽きさせない。

いま挙げたような良さは全て公開版でも得られることで、それだけ観ても充分に楽しめる映画とはいえる。
しかし未修正版にはさらにそれらの美点にユニークな輝きを与えるような魅力があり、公開版を気に入ったなら、なおのこと観て頂きたいものになっているのだ。

自主検閲によって何が失われたか-最も分かりやすい部分で言えばまずは性と暴力であって、具体的には次のような違いがある。

まず暴力に関しては、リリーが地方議員をビール瓶で殴打する場面、後半の射殺事件で撃たれた男が倒れる場面などが削除されている。特に前者では、直後に地方議員が血まみれな理由が分からなくなってしまう。
性について最も目立つのは、都会を目指して相棒のチコ(テレサ・ハリス)と貨物列車に潜り込んだリリーが鉄道員に見つかってしまい、誘惑してその場で寝てしまうのがバッサリ削除されていることだ。
ここは最初の方の最高のシーンであり、ミッシーの芝居もグリーンの演出も全力で、物語的にも彼女のその後の生き方を決定づける重要性がある。全篇を通してチコが何度も口ずさむ気怠い『セント・ルイス・ブルース』(先に言及したのは劇伴で、こちらは歌なのに注意)も、素晴らしい効果をあげている。

そして性と暴力の表現への変更以上に、さらに興味深く、作品の根幹を揺るがしているのは、その他の "道徳的判断" による変更である。言うならばリリーの "人生哲学" に関わる変更なのだ。

開巻間もなくリリーに人間らしく接してくれる哲学好きの靴職人、クラッグ(アルフォンス・エシア)が登場する。彼がリリーに現世をたくましく生き抜くために吹き込むのがニーチェ哲学で、未修正版には二箇所、背文字のニーチェ著作のタイトルがアップになってその言葉が引用される箇所がある。

まずは、リリーが父親を蒸留所の火事で亡くし、葬儀後にクラッグの家を訪れる場面。
直前までニーチェの著作『力への意思』を読んでいた彼は、頁を指しながら読み上げる。
ニーチェいわく『どんなに理想化したところで人生は搾取そのものである』-これこそ君に言いたいことだ。自分自身を搾取するんだ。都会に出てチャンスを掴め。強く、反抗的であれ。男を利用して欲しいものを手に入れろ!」
そしてリリーは人生に挑戦することを決意する。

二番目は、男を踏み台にして富を手に入れつつあるリリーが、クラッグから送られてきた本を読む場面。
ここでもニーチェの著作『反時代的考察』の書名が明示され、栞が挟まれた頁の一文がクローズアップされる。
「人生をありのままに受け入れよ。恐れるなかれ。空の月に憧れるのは無駄なこと。感傷など打ち砕いてしまえ」
直後、リリーは訪れてきた(彼女に夢中な)若手幹部を、冷たく突き放す。

これらが公開版ではどうなるか。いずれの場面でもニーチェの書名も、それどころかセリフ中の "ニーチェ" という固有名詞も、全く消し去られてしまうのだ。

前者の「クラッグの家」の場面では、彼が読んでいた書名はハッキリせず、頁を指差すカットも削除され、語る言葉はユニークさを欠いた元気づけの説教になっている。
セリフが-単純な削除ではなく-変更された箇所では、喋るクラッグの背後から肩越しにリリーの顔を捉えたカットがあてがわれているが、長さが合わないので、フィルムをつまんでコマが飛んだみたいになってしまっている。苦肉の策、いいところである(※注5)。

後者の「送られてきた本」の場面の変更は、もっと意味が変えられてしまっている。
まずリリーが手にした本の背表紙が映るが、全く別の本だ。一瞬で読みにくいが "STANLEY'S…ARISTIAS……STITUTIO…" などの文字が見え、ニーチェ『反時代的考察』(NIETZSCHE "THOUGHTS OUT OF SEASON")とは別物である。
しかもここでリリーが読むのは本そのものでなく、挟まっていたクラッグからの手紙で、その内容たるや、何と今のリリーの生き方をいさめ、「この本が君を正しく導くことを願う」というものなのだ。とすると、ありきたりな道徳本か何かなのか。
このままでは、前述のように直後に若手幹部を-彼女の今までの生き方に従って-突き放すのとは、調子が合わなくなってしまう。そこで、読んだ直後のリリーに注目してみたい。
未修正版ではフルショットですぐ次の芝居に行くのに対し、公開版ではもう少し寄りのバストショットで表情を見せた上、芝居の間もたっぷりとられている。恐らく別テイクなのだろうが、その方がクラッグのお説教に憮然とした上で、反抗的に今の生き方を貫こうとしているように見える-という判断があったのだろう。

それにしてもなぜ、ここまでニーチェ要素が削除されるのか。こんな俗っぽくエロチックな話にニーチェが出てくるのが、面白いところなのに!
もちろん "身体を使って男を利用しどんどん這い上がること" を肯定する教えとして-少なくとも映画の中では-使われていることも問題なのだろうが。しかし、教え自体にエロスへの直接的な言及はない。
ここはやはり、"ニーチェを扱うこと自体" が大問題なのではないか。
キリスト教道徳の価値観からすると、神の死を宣告したニヒリストのニーチェなど悪そのもので、映画を観たひとが著作に興味を持つ可能性を消し去りたかったのだろう。30年代アメリカ映画における自主検閲には、このような-キリスト教的に許容できない哲学を排除する-方向性もあったことは、覚えておいていいのかも知れない。

さて他には、誰が観比べてもすぐに気がつくのに、ラストの変更がある。
公開版ではリリーはその後、慎ましく貧しい生活を送るであろうことが、はっきり示されている。これは確かに大きな変更ではあるが、未修正版でも彼女は物欲まみれの生活を捨てるかも-という印象が残る。多少なりとも世間に妥協した終わり方に感じたので、個人的には決定的な変更とは思えない(それでも未修正版のスパッとした終わり方の方が良いが)。

それよりもっと、「これ、監督は悔しかったろうな」と思わせる変更箇所がある。
ラスト直前、リリーは若き頭取コートランド(ジョージ・ブレント)から経済的援助を求められるが、見限ってフランスへの客船に乗り込む。客室でリリーは、後ろ髪引かれる思いの中、レコードをかける。流れる『奥様、お手をどうぞ』(I Kiss Your Hand, Madam)。
ここで未修正版では、回転するレコードの盤面にこれまで渡り歩いた男たちの顔が次々とオーバーラップするのだ! その上で最後にコートランドの顔が浮かび、「君は何人もの男を知ってるんだろう。でも関係ないさ。俺は君が好きだし、いつか君の心を掴んでみせる」という声が重なって、リリーは戻る決意をするのである。
今までの人生を振り返ったうえでの翻意を視覚化した秀逸な演出だ。
ところが公開版では、コートランドの顔だけが浮かんでセリフも重ならず、それだけでリリーは戻る決意してしまうのだ。不道徳な男遍歴の印象を薄めるための変更だったのだろうが、映画として重要な見せどころが失われてしまったと言わざるを得ない。

以上が未修正版と公開版のざっと見た大きな違いで、他にもセリフやカットの長さなどで細かい変更がいろいろあると思う(※注6)。いずれにせよ、その後のアメリカ映画全体に及ぶ性・暴力・道徳の自主規制を考えるには、興味深い題材ではないだろうか。
何にせよ、ここでのミッシーの男社会を手玉に取る女一匹ぶりは、魅惑的な輝きを見せている。それが充分に味わえるのは未修正版の方であることは、間違いない。

注1:『ヘイズ・コード』 | 星組公演 | 日本青年館大ホール | 宝塚歌劇 | 公式HP

注2:未修正版は公開から70年以上を経た2004年に発見され、同年のロンドン映画祭で上映された。

注3:さらに検索語に "ok.ru" と付け加えると…。

注4:陥落する男たちの中には、若き日のジョン・ウェインもいる。

注5:この場面の手を尽くした変更は、編集テクニック的には興味深い。

注6:例えば、都会に出てきたチコとリリーがレストランの窓から中を覗き、チコが「ポークチョップ食べたい」と言うのに、リリーが「気の持ちようよ、昨日、食べたよね?」と返すところがカットされているのだが、今ひとつ理由が分からない。ポークチョップに性的な意味があるのか?

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書き下ろしです。

さる7月27日の土曜日、池袋の立教大学タッカーホールの公開講演会「映画人との対話 VOL.2 ~映画監督・黒沢清氏を迎えて~」に行ってきた。司会進行は同大学の現代心理学部映像身体学科で教鞭をとる篠崎誠監督。
これが隅々まで映画キッド "しのやん"(SHINOYANG≒SHARING)の黒沢監督への愛と尊敬に満ち満ちた素晴らしいイベントで、ライブという一回性の中で身体いっぱいに映画を詰め込まれたような幸福感に満たされて、会場を後にすることができた。

オープニング、フランスの芸術文化勲章を黒沢監督が受賞したのを称える同国映画人たちのメッセージビデオが次々と流れ、特にレオス・カラックス監督の凝りに凝ったユーモラスでカッコいい "新作" にはニヤニヤさせられた。

本題に入ってからは講演会というより篠崎✕黒沢のトークショー形式。
同大学が黒沢監督の母校で蓮實重彦に映画を学んだ場というところから「大学で映画を教える=学ぶ」が、たっぷりと語られる。

まず黒沢監督の若き日の "蓮實体験"、そして映画美学校で自らが先生として映画をどのように教えたか。特に後者では『ジョーズ』(1975)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)など超有名映画の一場面を使って、映画の嘘と本当(というか、本当にやってしまってることを撮ること)について語って、観客の興味をぐいぐい惹きつけていった。ここで黒沢映画の3作の場面紹介につなげていくのは、しのやんの見事さ。

その後、スクリーンでは滅多に観られぬ短篇作品の上映と、新作(といっても、上映中のフランス映画版『蛇の道』(2024)から、近日公開の『Chime』(24)『Cloud クラウド』(24)と3本もある!)に関するトークに繋げられていくわけだが。
中でも上映作二本-Amazon Primeの『彼を信じていた十三日間』(『モダンラブ・東京~さまざまな愛の形~』(22)の一話)と『Actually』(22・乃木坂46のMV)-を観ているうちに自分なりに様々な想いが起き、それらによって直後のトークから受ける印象が変化したのが得難い経験だった。

まずは『彼を…』で、オフィス内の人物が椅子に乗ったまま滑車で移動するのに「ああ、これは『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』(1990・テレビ作品)でも観たやつだ」と思い出し。そのまま『Actually』に "入ったら出られない古いスタジオ" が出てきたとき、「ああ、これはあの味噌蔵そのままではないか」と動揺する(と書くと『味噌蔵』未見の方も推測してもらえると思うが、入ったら出られない魔の味噌蔵の話なのである)。
その上で『Actually』の方ではヒロインはあっさり脱出してしまい、建設中のビルを高方へ高方へ、都市の空に向かって開放された場所に登っていくのに、「おおそうだ、黒沢監督は初期は『味噌蔵』のみならず『スウィートホーム』(89)『地獄の警備員』(92)で人物たちを-規模の大小はあれ-密室に閉じ込める作家だったのに、ある時期から簡単に閉じ込めてくれない作家になったのではないか」と、思い至るようになる。
例えば『クリーピー 偽りの隣人』(2016)には脱出しても逃れ得ぬ恐怖があり、『スパイの妻〈劇場版〉』(20)の主人公は箱から出されたときや病棟から外に踏み出したときに地獄に向かい、フランス映画版『蛇の道』で監禁する建物のドアはなぜか不用意に開け放たれてしまう。

ここで『彼を信じていた十三日間』に話を戻そう。これは仕事一筋の中年ヒロインの前にまるで流れ者のような生活感の無い男が現れ、最終的には幽霊だった(と思われる)という話である。とはいえあまりにも普通にそこにいる人間のように思われ、そこがこの作品の "趣向" なわけだが。
トークで篠崎監督に「彼はどこから幽霊になったんですか」と訊かれた黒沢監督は、お話的には分かりやすい転換点を示して「このあたりのつもりです」と解説してくれたが(とはいえ、「強いて言えばこのあたり…」ぐらいのニュアンスかと思ったが)。実は観ていてかなり早い段階から「あれ、こいつ、幽霊?」と思わせられたのであった。
観たひとにしか分からない話で申し訳ないが、ロングショットで電話番号を教えるところで、早々とこの世のものではない印象を受けたし、その後 "転換点" に差しかかる前に男はヒロインの部屋をペンキで塗り替えるのである。となると、どうしても街をペンキで塗り替えてしまったクリント・イーストウッド荒野のストレンジャー』(1973)の "幽霊らしからぬ幽霊" を思い出してしまうではないか。黄色と赤の違いはあるが。

それはともかく、このような幽霊らしからぬ幽霊を扱うようになったことについて、黒沢監督は、年齢を重ねるにつれ生と死の境目があいまいになってきたという意味の発言をされた。
この感覚は自分も最近、分からんでもないのだが、『Actually』でも感じた密室の無効化と響き合う。とりあえずは "越境" という言葉を使ってしまえばいいのだろうか。いや、そんな言葉を使ってしまえるほど開放的なものではないことは、あの世がこの世を侵食するあの恐ろしい『回路』(2001)を観た時点で分かっていたのではないか。
となると、密室は機能しない方が恐ろしいのである。

今やどこにいても感染の危険にある世界の中で、黒沢清監督の映画はこれからも境目をあいまいにし続け、新しいDOORを開け続けるだろう。どうせ恐ろしく危険であるならば、映画の旅を、冒険をどこまでも見せてもらおうではないか。

そんな思いに胸を熱くしていると、さすがはしのやん、イベントの最後にこれまでの黒沢映画を "風" というテーマでつないだ映像を観せてくれた。
画面に示される風は異なる映画でも音声をダブらせて編集することで、映画から映画へと吹き渡っていくように感じられる。もはやそこに境目はない。そして我々もまた、黒沢的な風に身を晒すばかりなのだ。
ただ単に "黒沢監督への愛情" などという言葉で閉じてしまわない、"同時代に映画を生きること" をまず自身が引き受けた上で、その場にいた全員にも求めるような見事な締めくくりで、感動した。

そして当の黒沢監督といえば、四分の一世紀前の自作を、平気で国境を超えてリメイクしてしまっているのだ。越境という言葉の身軽さは、むしろ監督自身に当てはまるものだろう。
こうなると、『蛇の道』(1998)を世界中でリメイクしてもらいたい気分にもなるってものだ。とりあえずはアメリカでイーストウッド老を主演に迎え、『蛇の道・孫』とか、どうだろうか。ぜひ観たいものである。

Amazon Prime Video で観る

「彼を信じていた十三日間」