四月大歌舞伎 第二部 芝翫・菊之助の「太十」、梅玉・孝太郎の『団子売』 (original) (raw)

のっけから今月の歌舞伎観劇からは話しが逸れるが、先月播磨屋倒るの報は、満天下の歌舞伎愛好家を震撼させた。その後詳報がなく、現在もICUに入ったままの様だ。昨年の手術以降「俊寛」、「一力」、「楼門」と播磨屋の芝居を観たが、明らかにいつもの播磨屋ではなかった。その事はご当人が一番よくわかっていたと思うのだが、周囲は気づかなかったのだろうか。批評も全て絶賛に近い評で、それが油断を生んだ遠因でもあるのかとも思う。声が腹から出ておらず、力も入っていなかったのは芝居を観ている人なら判りそうなもの。このブログで無理はしないで欲しいと書いても、播磨屋に届くはずもなく、歯がゆい限りだ。一日も早い回復を祈りたい。

閑話休題。四月大歌舞伎を観劇。その二部の感想を綴りたい。幕開きは『絵本太功記 十段目』、所謂「太十」だ。芝翫の光秀、菊之助の十次郎、梅枝の初菊、彌十郎の正清、扇雀の久吉、東蔵の皐月、魁春の操と云う配役。これが実に素晴らしい出来だった。

何度かブログでも書いているが、丸本は筆者が最も好きな歌舞伎ジャンルだ。しかしその中にあって、この「太十」は少し苦手な狂言だった。最近では芝翫でも観ているし、播磨屋でも観た。浅草の歌昇はまだ手も足も出ない印象だった。その何れも筆者の心に響くものがなかったのだ。お前がこの狂言を理解出来ていないのだろうと云われればそれまでだが、文楽では随分面白く観れたのだ。しかし今回初めて歌舞伎で、この狂言が素晴らしい物であると再認識させられた。

まず何と云っても素晴らしいのは芝翫の光秀だ。元々義太夫味のある優だが、今回は今までよりも更に濃密な味わいで、先年同じ狂言を観た時とは雲泥の違いだ。まず藪畳から現れて笠を取ったところ、古格な役者顔がこの役にぴたりと嵌る。明らかに以前より芸容が大きくなっている。竹を切って槍を作るところから、障子の向こうの久吉(実は母皐月)を刺すところ迄、竹本に乗ったこれぞ義太夫狂言とも云うべき泰然たる所作で、この武将が天下を狙う程の人間である事が自ずと現れる。

芝翫はこの役を亡き團十郎に教わったと云う。その時に「この役は色々考えず、とにかく大きさを出しなさい」と云われたらしい。主役としては科白も多くはなく、兎に角肚で押して行き、團十郎に教わったであろう大きさがしっかり出ている。母と倅十次郎の死を嘆く所謂「大落とし」の古怪さは、その最大の発露。科白も全くなく、所作のみで光秀の嘆き・哀しみを表現する難しい場だが、これほど古怪な味わいのある大落としが出来る芝翫の時代物役者としての力量には、改めて瞠目させられた。

系図正しき我が家を」と主殺しを母皐月に責められての「神社仏閣を破却し」や「討ち取ったるは我が器量」の科白廻しも、甲の声と呂の声を屈指して実に見事な丸本物の科白術。久吉と正清が登場して屋台上の久吉、揚幕前の正清を向こうに回して花道七三で決まった姿も、惚れ惚れする様な役者ぶり。当代最高の光秀役者は、間違いなくこの中村芝翫であると、断言したい。実に見事な光秀だった。

対する菊之助の十次郎も素晴らしい。屋台奥から出て来たところ、討ち死にの覚悟がその眉宇にしっかりと表れている。役が肚に入っている証拠だ。障子に手をついての「母様にも、婆様にも」や「盃せぬが身の仕合せ」の科白も、正統な丸本物の二枚目の科白廻しになっている。戦で手負いになり、合戦の模様を語る物語でも、終始手傷を負っている事を忘れず、しかし乍ら科白の内容はしっかり伝えなければならない難しいところを実に上手く仕おおせている。「もう目が見えぬ」の哀れさも一入で、今まで菊之助の弱点は丸本にあると思っていたが、どうしてどうして今回は大手柄。今後のこの優の丸本物に注目したい。

東蔵の皐月、魁春の操は完全に手の内に入っている。梅枝の初菊も「二世も三世も」のくどきが見事にイトに乗っており、若いながらも素晴らしい丸本の御姫様。扇雀彌十郎も何れもニンで、役者が揃って難しいこの丸本の大作をたっぷり堪能させて貰った。襲名公演でも演じた「熊谷」や「盛綱」も、今の芝翫で改めて観てみたいものだ。

打ち出しは『団子売』。梅玉の杵造、孝太郎のお臼のコンビ。こう云う舞踊で、孝太郎が父松嶋屋以外の役者と組むのは珍しい。度々云っている様に、最後を踊りで〆る狂言立ては、筆者好み。いい気分で劇場を後に出来る。梅玉がこの役を勤めるのは五十五年ぶりだと云うから凄い。その芸風から愛嬌には乏しく、松嶋屋の様な浮き浮きとした味は薄いが、軽さを出していて、こう云う踊りはこの軽みが大事。孝太郎のお臼も世話女房らしさが自然に出ており、この優はお姫様よりこう云う女房役の方がニンであると思う。実に気持ちの良い舞踊だった。

丸本と舞踊。いい二本立てで、楽しめた第二部。一部は高麗屋の『勧進帳』、三部は玉孝三十六年ぶりの『桜姫東文章』と、物凄い狂言が並ぶ今月の歌舞伎座で、つい忘れられがちな二部だが、実に充実していた。その他の部の感想は、また改めて綴りたい。