北陸の岸 ―白砂青松に至るまで― (original) (raw)

越後にこういう話がある。

直江津から柏崎に至るまで、十三里に垂(なんな)んとする沿岸地帯。元来あそこは緑の稀な荒蕪地であり、強い北風が吹きつけるたび、砂塵を巻き上げ、人の粘膜を傷付けて、とても居住に適さぬ場所であったのだ、と。

直江津港附近)

変化(かわ)ったのは天和年間、十七世紀末からだ。

時の領主が思ったそうだ、

「あのあたりを松原にしよう」

と。

たちまち数ヶ所が見繕われて、大量の粟が運び込まれる。

そう、粟だ。五穀のひとつ、稗と並んでとりわけ有名な雑穀であり、雑穀中のいわば「顔」。ご丁寧にも脱穀後の実ばかりである。そいつをばさっと、植えるのではない、**打ち水みたいにただ無造作に撒き散らす。**

あなもったいなやと百姓どもが身をよじり(・・・)そうな光景だった。

雀をはじめ、たちまち鳥が啄みに来る。

Japanese Foxtail millet 02

Wikipediaより、粟)

それこそが領主の狙いであった。心ゆくまで飽食しきった鳥類は、代わりに糞をぶちまけて去る。砂上にたっぷり広がるそれらから、やがて植物が芽を出して、頑固に根を張り、地盤を固めてくれるであろう。

現にほどなく、そう(・・)なった。

とくれば最早しめたもの、いよいよ本命、松苗を植える段である。やがて立派な松林が誕生し、防風林の役目を果たし、その後方を農村として活用可能な日が訪れる――。

と、だいたいこんな筋である。

真実であるには面白すぎる、むしろ童話を読むような小気味よさが窺われるが、江戸三百年の泰平中に、日本各地で多種多様な開発が行われたのは確かであった。

なにせ、自領が貧しいからといって気軽に他領を侵略できる世ではない。

(昭和初期の糸魚川

向こうの沃土を狙うより、手元の痩せ地をなんとかして肥やすべく、工夫を練らなければならぬ。

そういう時代で、実際そのことが行われたから、たとえば竹越与三郎なども、

――人若し今日の農村、道路、水理、溝渠を見て、此等が自然に太古より存在したりしものなりとなさば、最も忘恩の甚しきものにして、封建領主の努力か、然らずんば、農村有志の努力によりて、千艱萬難を排して行為せられたるものにあらざるはなし。

と口を酸っぱくして言ったのだろうし、波多野承五郎東海道を歩きつつ、

「この一里塚」

脚下を顧み、おもむろに講義を始めたのだろう。

東海道の街道筋に並木を植えたのは、織田信長だと言はれて居るが、それは、何処から何処まで植ゑたのであるか、明白な記録がない。東海道を始め、其他にも松並木が出来るやうになったのは、徳川が天下を統一してからだ。然るに、旅人が道を歩くのに退屈するから、一里塚を築いて、目標を造ってやる方がよいと研究する人があって、家康が駿府に隠居した時に、大久保石見長安を総督として一里塚を築かせた。(『随筆東海道』6頁)

Ohira-Ichirizuka-1

Wikipediaより、大平一里塚)

近頃、またまた江戸時代への興味が再燃している。

新たな知識を得る前に、今あるものをちょっと整理しておこうと思った。

此度の趣旨はそれ(・・)である。

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