吉備海部氏 大伯国 (original) (raw)

安仁神社が、吉備海部氏と関係がある可能性が分かってきました。

大字藤井は、邑久郡<大伯国にあります。

【 2024/06/22 】でも記載しましたが、大伯国は『吉備』の中でも、吉井川以西とは

少し趣が異なります。

吉備津彦命が『針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ』

た様に、加古川以西~吉井川以東が「大伯国」です。(当時は、和気郡も含みます)

邑久郡は、古くは『オオク・オホク』=「大来・大久・大伯・邑久、他」と

呼ばれていました。下記の瀬戸内市HPでは、『最近の研究で、「大きな区域」を

意味する地名ではないかという説が出されています。』

では何故『大伯』なのでしょうか?

「オオハク」は、少し無理があるように思われます?

『大伯 = 一番上の伯父(伯父・叔父)』ですが・・・

誰に対しての『 伯父 』なのでしょうか? 直系では、無いですね。

大伯国造:神魂命の7世孫である佐紀兄尼命

吉井川以西の国造の祖先:吉備津彦命(第7代孝霊天皇皇子)

(yamane は、祖先は吉備古来の一族と思っています。吉備征服はないですから。)

まさか、大和王権に対して、伯父は無いですよね?!

瀬戸内市ホームページhttps://www.city.setouchi.lg.jp/soshiki/7/3816.html

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「邑久」という地名は、大変古くから郡名等で使われてきました。

「邑久」と表記するようになるのは、和銅6(713)年に地名をおめでたい意味の

二文字で記すよう定められてからです。

それ以前は「大伯」や「大来」などと書いていました。

『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』という平安時代の辞典には、「邑久」と

書いて「おほく(おおく)」と 発音したことが記されています。

最近の研究で、「大きな区域」を意味する地名ではないかという説が出されています。

6世紀ごろ、今の岡山県東南部を治めていた豪族が「大伯国造(おおくのくにのみやつ

こ)」でした。その勢力範囲が邑久郡となるのですが、 和気郡などももとは邑久郡の内だったと考えられています。

邑久郡は当初、まさに広大な郡だったのです。

このように、1400年以上前から使われてきた「おく」の名は、明治22(1889)年に

成立した「邑久村」にも採用され、昭和27(1952)年には「邑久町」に

引き継がれました。

●1996年**岡山市立太伯小学校『創立100周年記念』**シンポジウム「太伯の歴史を語る」

明治の賢人達は、古典にみられるオクの用字変化に着目して、『日本書紀」の

斉明紀七年条に描かれる[ 大伯海 ]・[大伯皇女]の伝承や、『先代旧事本紀』巻十の

「国造本紀」に記された[大伯国造 軽嶋豊明朝御世。神祝命七世孫佐紀足尼賜国

造。]、そして『続日本紀』巻六の和銅六年(713>五月甲子条に記された風土記撰進の

詔の[ 国郡郷名著好字 ] の制を根拠としてオクの用字法が大伯から邑久へと変更された

ことを理解し、邑久の古字を村名に採用したものと推察される。

そして、邑久郡域最大の村へと発展することを願って、大伯に点を打って、大きいもの

の中でも最も大きいとの意味を持つ[太]に改変して太伯の漢字を用いてオクとは読ませ

ず、タイハクと訓じたものと思われる。

※『大伯』というと、『太伯・泰伯』を想起する方がいますが、論外でしょう。

ある意味、太伯村と名付けた『賢人』は罪作りです。

参考文献:『元禄時代小学館〈日本の歴史 第19巻〉、1975年8月10日、189-194頁。

岡山市立中央図書館にあります。)