安仁神社 「式内社調査報告」より ② (original) (raw)

式内社調査報告 第22巻(皇學館大學出版部)」より

①【社名】【所在地】

②【祭神】

【由緒】【祭祀】【境内地】【社殿及び末社】【寶物・遺物等】

邑久郡誌 」 にも、諸説のせられていますが、更に解説されています。

【由緒】でも「 祭神 」 ついて語られていますが、所詮結論はでません。

古来神社は、磐座・依代ですから、祭神を特定する必要は無いと思うのですが。

その時代々々で、新しい『 縁起 』 が出来ますね。

神武天皇が東征の途次、吉備高島宮に駐蹕(ちゅうひつ)してゐたとき、藤井の

宮城山には五瀬命の行在所があり、命の没後その行在所跡に安仁神社が創建されたと

してゐる。』でよいのではないでしょうか。無理に、「安仁」=「 兄 」を結び付けた

からいけないのです。『五瀬命に同行した、海部氏達が帰還後、その形見を納めた』

とすれば良いのではないでしょうか?

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【祭神】当社の祭神については古くから諸説がある。まつ、寛文十年(1670)岡山藩

池田綱政が「令子誕生、子孫繁昌」を祈つた『祈願文』には「安仁神肚は天照大神

いはひ祭る一國の大廟」とある。次いで、備前岡山の國學者土肥経平は『寸簸乃塵』

(安永七年)において「其祭神未詳、今按ニ(アンズルニ)参議從三位秋篠安仁卿を

祭し神なるにや」とし、『東備郡村志』(天保年中)もそれをうけて「此神祭る所未詳、

按に参議從三位秋篠安仁卿を祭れる祠にや」としてゐる。

これに対して大澤惟貞は『吉備温故秘録」(寛政年中)において、「富山翁考曰、

從三位秋篠安仁卿を祭し神なるにや」と紹介しながらも、「上古より在る宮なれ共

神體(体)未分明、或曰大納言正三位右近衛大將安倍朝臣安人(仁?)霊歟

(レイか!)」とし、更に「又或説に地主の神にして、上古より御鎮座ありしを承和

八年預名紳とあり」、「一説に曰、阿田賀田須命といふ」と諸説をあげてゐる。

※阿田賀田須命(あたかたすのみこと):和邇君(わにのきみ)等祖【先代旧事本紀巻第四 地祇本紀】

かうした近世の諸説に加へて『大日本地名辞書』には、更に「或人は吉備下道國造

兄彦命亦稻建別と云ふを引き、兄彦命を祭ると曰へり、称聴くべし」、「又安仁は

和遷の訛にて、大和・近江等の和遡氏の同族の入々の、此處に來住して祭る歟とも

日ふ、尚考(うかが)ふべし」、「國邑志云、神社考に安仁社家の説を引き、『孝霊

天皇三子 其一者備前一宮、其一者備中一宮、其一者備後一宮也』といへり、然らは

安仁祠は三皇子(五十狭芹彦命亦名大吉備津彦命、次彦狭島命、次稚武彦命)の長兄君

たる五十狭芹彦命を祭るならむ、其安仁とあるは卽(すなわち)長兄君の謂とす」と

諸説を紹介したうへ、「安仁は阿知使主を祭れるにあらずや、本社に接して阿知村

あり」としてゐる。また『改訂邑久郡誌』(昭和二十八年)も「安仁神社の西に當りて

又阿知といへる所あり。安仁神社は元この阿知の氏神にして阿知神社ありしを、

阿知・安仁、其の音相近ければ遂に安仁の良字を用ふるに至り、其の傳を失ひしに

あらざるか。」と同説を述べてゐる。

以上の諸説のうち、土肥経平や大澤惟貞のあげた秋篠安仁説・安倍安入説について

は、平賀元義は『吉備之國地理之聞書』において「大なる妄説なり」とこれを否定して

をり、また明治三年に岡山藩が作成した『神社明細帳』では安仁神杜の祭神は「不詳」と記してゐる。

一方、神社側では、明治八年に社務太美大造によつて作成されたと考へられる『安仁

神社御傳記』において、「神武天皇の皇兄五瀬命を奉齋、相殿に稻氷命、御毛沼命

配祀せる御社にぞ座ましける。肚號の安仁の名義は兄の假字にて安仁の字義にあらざる

事勿論(もちろん)なり。兄神社と申義なり。」とし、神武天皇が東征の途次、吉備

高島宮に駐蹕(ちゅうひつ)してゐたとき、藤井の宮城山には五瀬命の行在所があり、

命の没後その行在所跡に安仁神社が創建されたとしてゐる。この神社側の説について

『特選神名牒』は「五瀬命といふは近年云出したる妄説なり」と批判してゐる。

その後、安仁神社宮司の作成した『安仁神社御縁記』では五瀬命の名は見えず、

「安仁神社と申奉るは天照大神の御神孫にて(中略)御兄弟の中第一の御子と申傳へ

候。」と「古老の口傳」をあげ、更に大正十四年安仁神社社務所発行の『安仁神祉誌』

も「祭神 安仁神」と記し、五瀬命の名を避けてゐる。

しかし、昭和二十七年の神社明細書では、再び「祭神五瀬命、相殿稻氷命、御毛沼

命」と復活し、今日に至つてゐる。