吉備津神社 名神大社 (備中国)④ (original) (raw)

式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』より、【神職】・【祭祀】

詳細に記録されており、興味深いです。

もう少し、氏の、出自について説明があればより面白いと思います。

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神職】當社の社職および神職制度は古來いくたの攣遷を経た。文化文政の頃、社家の

賀陽貞持の著はした『吉備津宮略書記』によると、次の如く記してゐる。當社には古代

から應(応)永の頃まで奉仕した神官の数は常に三百家に及んだ。天正以降でも神主を

初め「みやつこ」の家は七十餘家、それに番匠(大工)・陶師(スエノモノ)らを合せる

と八十餘家に及んだ。そのうち神主・大禰宜・祝(ノリト)部などの重職は賀陽

(カヤ)氏(のち賀陽(カヨウ)氏ともいふ)であり、それについで神饌(しんせん)を

司つた御供座(ゴクウザ)は藤井氏と堀家氏。紳樂座を組織したものは藤井氏と河本氏

とで、その外に無座と称する宮侍の家が十敷家あつたといはれる。

賀陽(カヤ)氏(のち賀陽(カヤウ)氏ともいふ)の由緒 ] 當社の神官として最も

早く確實な文献に見えるのは賀陽氏である。『扶桑略記』寛平八年(896)の條に、

備中賀夜郡葦守郷(足守郷)に備前少目賀陽良藤がゐた。その兄は賀夜郡の大領賀陽豊

仲、弟は統領賀陽豊蔭であり、いま一人の弟は吉備津彦神宮の禰宜賀陽豊恒、また嫡男

は兵衛志賀陽忠貞であり、かれらはみな「豪富の入也」とある。足守郷の西南に賀夜郡

服部郷があり、そこに備中の國府があつた。この國府址に近く今、賀陽山門満寺(賀夜寺

ともいふ)があり古刹である。これは賀陽氏の氏寺といはれ、奈良朝の古瓦や礎石があ

る。賀陽氏は賀陽國造族の宗家で、足守郷を本貫としてゐたが、平安末期から、約八キロメートル南方の吉備津宮の近邊に移住し、當社の神官を世襲して近世に及んだ。

『続左丞抄』に依れば延久二年(1070)吉備津宮の神主賀陽貞政朝臣が勝手に社倉を

移却し、被疑者として京都に召喚されたといふ事件がある。このとき氏人の正六位上

朝臣致貞・正六位上賀陽朝臣清任・蔭子正六位上賀陽朝臣貞經らが連署して神祇官

対し「神主の在京の間、神主の代官に氏人賀陽致貞を補任して神事を執行したい」と

願ひ出て許可されてゐる。鎌倉初期臨濟禪(禅)を宋より傳へた榮西禪師はこの「賀陽

貞政の曾孫也」と『元亨䆁書』に見える。

この足守郷から吉備津宮の近邊に移住して吉備津宮の神官となつた賀陽氏は、鎌倉時

代以降も神主家・大禰宜家・祝(ホワリ)家・左行事家・右行事家・吉上家・上番家・

中番家・下番家などいくつかに分れて神務を分掌した。これは賀陽神主家に傳へられた

数十通の『賀陽家文書」(現在は吉備津神社所藏)や、その他の當社の中世文書などに

よつて裏づけられる。ただし賀陽氏に傳へた系圖や記録によると、神主職を世襲した

宗家の賀陽家は賀陽高治を最後として天正二年(1574)嗣子なくして絶家となつてゐ

る。大爾宜家も同じ頃に絶家となり、その他の一族も多く衰滅して、祝師の賀陽氏と

上番・中番・下番の四家の賀陽家が江戸時代までつづいた。

藤井氏等の由緒 ]藤井氏も王朝時代から當社に仕へた祠官であつた。六正官(賀陽氏

のこと)に次いで御饌司一人、大饌司兼本宮司一人が、ともに藤井氏を称した。その先は

正六位下備中天目大中臣宿禰高雄と傳へるが正史には見えない。『元享釋書』『拾遺往

生傳』によると吉備津宮の神官に藤井久任あり、寛治四年(1090)都宇郡撫河郷の柴津

岡に薪を積んでその上に座し、念佛を唱へながら性生の素懐をとげた、火定の入として

特筆してゐる。とにかく藤井氏の氏人は次第に繁衍(はんえん)して、近世の初頭の

ころ藤井氏を称する社家は三十餘家に及んだ。これらの藤井氏のうち御饌司と大饌司を

世襲した藤井高安家と藤井末吉家は賀陽氏四家と共に社家頭として七十餘家の社家達を

統率して社務を司り社領の支配に當つた。たまたま貞享から享保にかけて事により六家

の社家頭は追放され、代つて藤井氏三家、堀家氏二家が新に社家頭(社司とも神主ともい

ふ)となり維新に及んだ。

社家の堀家氏(堀毛氏ともいふ)も世襲の神官である。留靈命の裔と称する。この堀家

氏も王朝以來の社家で一族数家に分れ、中世には吉上(キチジヤウ)・横箭(ヨコヤ)

などの役を世襲したが、藤井氏と共に御供座に属した。このうち堀家清政家と堀家末政

家は前記の藤井氏三家とともに社家頭として維新にいたつてゐる。

社家の河上氏も十家ぐらゐあり、藤井氏の中の九家と共に占くより神樂座を組織して

ゐた伶人であつた。

江戸時代計家の組織としては社司五家、御供座社家二十四家、神樂座社家二十家、

無座(宮侍)杜家十家、神子家数家等、合計七十家の社家があつた。

これらの多数の社家のうち特筆すべきは、國學者として著名な藤井高尚(1763~

1841)を出した點である。彼は明和元年(1763)に常社の代々の社司藤井但馬守高久の

子として生れた。のち伊勢の本居宣長に入門し、國學を廣めることをもつて己の任務と

した。吉備地方はもちろん、京阪や四國にも多くの門入をもつた。平安朝文學を専攻

し、『伊勢物語新繹』『古今集新繹』『松の落葉』『松屋文集』など多数の著書を著は

した。大正五年正五位を追贈された。

かくして、明治の初まで、さしたる變動もなかつたが、明治二年には神領地を新政府

に奉還し、ついで明治四年には國幣中社に列せられ、宮司禰宜・主典などおかれる

こととなり、從來の社家は失職を餘儀なくせられ、他國に転出するもの、絶家となるも

のも多く、旧來の祭祀も習慣も一變するにいたつた。その後、大正五年官幣中駐に昇格

したが、昭和二十年敗戦となり二十一年より國家の保護をはなれ、やがて神社廰(庁)

に属し、今日にいたつてゐる。現在の宮司は藤井敬氏である。

【祭祀】神主・大禰宜・祝以下の神官及び、御供座・神樂座の多くの神官の奉仕した

世には、一年中に大小七十餘の神事があつたといふが、社領も減少し神職組織も改まる

に及んだ近世になると、神事の数もその内容も大いに變化するにいたつた。社傳による

と、一月元旦の鎭座會(ミマシマツリ)、一月三日の神樂、一月五日の松植祭、一月

七日の七草祭、二月十三日・十四日の御誕辰祭、四月十九日の御忌日祭、五月十三日の

春季大祭、五月中の卯の酉の卯祭、六月三十日の大祓の祭、十月十九日の秋季大祭、

十二月二十八日の御煤佛(オススハラヒ)、十二月三十一日の晦日祭、その外に、一月

十五日の御國祭、一月十九日の廰所開、八月十五日の放生會、九月一日の大饗會、毎年

春三月の會式、毎年秋の流鏑馬等があつたが、明治以後はおほよそ官國幣社の祭式令に

準㨿(じゅんきょ)する祭儀が行なはれるやうになつた。

ここでは現在行なはれてゐる主なる祭典および神事についてのみ以下に述べることにする。

松 植 祭 一月五日 社傳には祭神在世のとき、備後靹の津の人が千本の松苗を献上

し、「吉備の中山」にしょくゑたことにちなんで行ひ頼蔦と畏怖。謄日、

本殿にて祭典ののち、宮司以下の神官、岩山宮に参向し、祭事を行なひ小松

を植ゑる。思ふにこの神事は植林事業の大事なことを示し給うた神意から

出たと思はれる。

春季大祭 五月十三日 祭神の降誕の日として神寳ならびに大膳七十五臺(台)の献饌

を奉持して御供殿より正宮へ行進供奉する荘嚴稀有の陣事である。俗に

七十五膳の御膳据といふ。近年は五月の第二日曜日に行なふことに改めた。

秋季大祭 十月十九日 祭紳が吉備國の賊徒を平定し、吉備中山に旋施ありし日に當る

といふ。春季大祭と司じく七十五膳の大膳を正宮に献進す。遠近より氏子・

信者蝟集(いしゅう)する。

月 次 祭 毎月十三 日、祭神の降誕の日に因んで毎月齋行される。

御忌日祭 四月十九日、祭紳の薨去の口に當る。

名 越 祭 七月三十一目、夜は境内で氏子の宮内踊(岡山縣無形文化財)が行なはれる。

夏 祭 八月一日、是は末社の字賀神社の祭禮である。

神事のうち當社の特殊のものとして次の三つをあげることができる。

御竈殿の鳴釜神事 ) 當社の境内に御釜殿と称する建物がある。その内部に土竈が

あり、その上に鐵釜がかけられ、さらにその釜の上に木製の甑(こきし)が載せられて

ゐる。釜殿には阿曾女(アソメ)といふ巫女二人が常住して奉仕してをり、明夕の神饌

を作り、本殿に運んで神前に供へるのである。一方、氏子や信者で病氣平癒とか商賣繁

昌とかの所禱を乞ふものがあると、神官は彼等を伴なつて釜殿に行き、その釜の前に

平伏する。一人の巫女は竈の口から松葉を入れてこれを焚く。他の一人の巫女は少量の

玄米を掻笥(カイケ)に入れ、これを甑の中で振り、玄米を蒸すやうな操作をする。

神宮が祝詞を奏すると、やがて釜が鳴りひびき、祝詞を奏し終る頃となると、やがて

釜も鳴り止むのである。このとき神官も巫女も何等の託宣も占(ウラナヒ)の言葉も

信者に與へない。しかし、氏子や信者たちは、古來の傳承として、釜の鳴る音の高低や

大小や長短によつて、みつから吉凶禍福を占ふ。これを「お釜様のおどうじ」と呼び、

「皮革もの」などを信者が釜殿の中に携へてゐると、その「穢れ」によつて「おどう

じ」が悪くなると傳へられてゐる。

この「鳴釜神事」は、古くから天下に著聞してゐたので、當時の文人や學者で當社に

参詣した人は、ほとんどこの鳴釜の神秘を紀行文などの中に書いてゐる。『耳袋』(根岸

守信)、『神社啓蒙』(白井宗因)、『和漢三才圖會』(寺島良安)等々がそれである。

なかでも林道春の『本朝神社考』には詳述してゐる。上田秋成の『雨月物語』の中には

吉備津の釜」といふ一篇の怪奇小論があるが、これもこの當社の鳴釜神事を題材とし

て有名である。

御煤拂(オススハラヒ)の神事 ) 本殿の内々陣に祀る九柱の神座などを一年に

一度、清掃するもので、毎年十二月二十七日から二十八日の暁にかけて行なわれる。

十二月二十六日正午から宮司以下神官は潔齋(ケツサイ)に入る。潔齋は心身を清淨に

保つことが第一とされる。殊に宮司は重いつつしみが要求され、潔齋に入るとともに

忌屋にこもる。潔齋中の宮司は、すべて無言であり、部下の神官との要談もすべて筆談

とする。食事はいはゆる別火で、火打石で作つた火で煮たきする。梅干や鹽魚(えんぎ

ょ)のみで、食事はきはめて粗食である。宮司は淨衣(ジャワイ)を着、毎年新調す

る。十二月二十七日、宮司は潔齋室にこもつていろいろの作法をする。その作法は秘密

とされ、すべて口傳によるが、主なる作業は祭具を作るにある。

二十八日午前零時を期して宮司は、ただひとり本殿に入る。みづから手行燈(テアンド

ン)一個をもつて内々陣に入る。別に清掃の道具であるホウキ(これは山鳥の尾と茅の

シベをもつて作る)と手桶(檜(かい)でつくる)二個と、ハタキ(木の柄の先に紙片を

つける)を持つて入る。桶の中には酒と水とが混入されてゐる。白布で作つ雑巾を用う。

これらの道具をもつて神座の清掃をするのであるが、その順序や方法は口傳(クデン)

による。その間、宮司は白紙で作つた覆面をし、無言である。その間に部下の神官たち

は本殿内の御崎社などの厨子の清掃を行なひ、煤拂の神事が終るのは、たいてい二十八

日の午前二時頃である。

矢立の神事 ) 正月三日 當社の正面の石段下に矢置岩といふ巨石がある。その

説明板に次の如く記されてゐる。

社傳によれば、當社の西北八粁の新山に温羅といふ鬼神あり、凶暴にして庶民を

苦しむ、大吉備津彦命は吉備の中山に陣取り鬼神と互に弓矢を射るに、両方の矢、

空中に衝突して落つ。そこに矢喰宮(旧高松町高塚に現存)あり。また中山主神は

鬼神の矢を空中に奪取す。當社本殿内の矢取明神はこの神を祀る。この戦のとき

大吉備津彦命、その矢をこの岩の上に置ぎ給ひしにより、矢置石と呼ぶ、と。旧記

によれば中古より箭祭の神事あり。願主は櫻羽矢または白羽矢を献る。神官その

矢をこの岩上に立てて祈禱し、のちその矢を御藏矢(オンクラヤ)神社に納むる

例なりき、と。この神事いつしか中絶せしが、昭和三十五年、岡山縣弓道連盟の

奉仕により復活され、毎年正月三日、ここに矢立神事を齋行することとなれり。

以 上(次稿に続く)