(佐倉市)明治22年佐倉町の地域探訪 宮小路から城内へ (original) (raw)
(令和6年9月26日その4)
佐倉組十善護国講(内郷組)の札所捜索を兼ねた、佐倉市の明治22年旧佐倉町地域探訪、鏑木町の重願寺&麻賀多神社などの次は、麻賀多神社南の宮小路を西に進んで、佐倉城城内に入ります。
まず、麻賀多神社を出ますが、
鏑木町麻賀多神社南から
神社の南向いに何かあります。
鏑木町麻賀多神社の南向い側
佐倉養生所跡の碑
何かとは、佐倉養生所跡の碑でした。
佐倉市宮小路町佐倉養生所跡の碑
これに拠れば、慶応3年(1867年)、佐倉藩医の佐藤尚中( 佐藤尚中 - Wikipedia )が、長崎に次ぐ西洋式病院「佐倉養生所」をここに設立した。
この碑と神社の間の道、宮小路を西へ進みます。宮小路と南の鏑木小路のあたりは宮小路町(みやこうじまち)、佐倉13町のひとつで、武家の町になります。
鏑木町麻賀多神社前の宮小路
途中、右手に急な下り坂、「みそべやの坂」があります。
佐倉市宮小路からみそべやの坂
続いて、左手に佐倉市民体育館。
佐倉市民体育館前
この体育館手前に、「浜野昇と済生病院」の説明板がありました。
佐倉市宮小路の浜野昇と済生病院説明板前
浜野昇と済生病院説明板
佐倉市宮小路の浜野昇と済生病院説明板
これに拠れば、佐倉藩医の家に生まれた浜野昇は、佐藤尚中に師事後、大学東校から陸軍軍医へ、西南戦争従軍後に佐倉にて私立済生病院を開設した。
さて、宮小路を進んで体育館敷地の北西端へ。ここにも何かあります。
佐倉市宮小路佐倉藩校の碑前
佐倉藩校の碑
佐倉市宮小路佐倉藩校の碑
碑はふたつ。左(東)の碑は、正面「佐倉藩 藩校成徳書院跡 藩校創立二百二十周年記念」、背面は、
佐倉市宮小路の藩校成徳書院跡碑背面
いろいろ説明があり、平成24年(2012年)付となっています。
右(西)の碑は、正面(道路側)に「千葉縣佐倉集成學校」絵図の写し、
佐倉市宮小路集成学校の碑正面絵図
背面は、
佐倉市宮小路集成学校の碑背面
こちらは年表があって、昭和55年(1980年)付です。
両碑に拠れば、寛政4年(1792年)藩主堀田正順( 堀田正順 - Wikipedia )が麻賀多神社前に「学問所」を創立、文化2年(1805年)「温故堂」に改名、天保7年(1836年)藩主堀田正睦( 堀田正睦 - Wikipedia )が大手門前のここに移して「成徳書院」とした。成徳書院は、近隣にも施設を持ち、さらに千葉の猪鼻と、(出羽)山形の柏倉にも分校があった。明治4年(1871年)に藩校は佐倉県(→印旛県)に移ったが、明治6年に旧藩主堀田正倫( 堀田正倫 - Wikipedia )が旧藩校の施設を引継いで「鹿山精舎」を開校、これが明治21年「佐倉集成学校」、明治29年「私立佐倉尋常中学校」、明治32年千葉県に移管して「千葉県佐倉中学校」、明治34年「千葉県立佐倉中学校」、明治43年に堀田正倫の寄贈した鍋山の地に転出。
その佐倉中学校の校地・伝統は、戦後の学制改革により佐倉高等学校に受け継がれた。
さらに宮小路を西へ進むと、右に少し折れるところ、
佐倉市宮小路から佐倉城大手門跡へ
右には佐倉市立佐倉中学校、
佐倉中学校前
左には佐倉城大手門跡の碑などがあります。
佐倉城大手門跡
佐倉城大手門跡
石塔の手前に説明板、後方に復元土塁があります。
佐倉城大手門跡説明板
復元土塁の向こうには復元空堀です。
佐倉城大手門跡の復元空堀
佐倉城大手門跡復元空堀から復元土塁
ここからが、佐倉城三の丸、後の陸軍練兵場、現在の城内町(じょうないちょう)になる、らしい。
城内の広小路を西北西に進みますと、左に千葉県立佐倉東高等学校、
佐倉東高等学校前
さらに進んで、左には佐倉城址公園の駐車場入口とイチョウ並木、
佐倉城址公園駐車場入口と広小路
右の桜並木の向こうの生垣の先には、国立歴史民俗博物館くらしの植物苑、
国立歴史民俗博物館くらしの植物苑入口
そして、車止めがあって、いよいよ佐倉城址公園の主要部です。
佐倉城址公園三の丸側入口
次回は、佐倉城址公園
次回は、佐倉城址公園へ、本丸を目指します。