降誕祭の夜 (original) (raw)

今年の冬。大学生の頃、邦光史郎の『源九郎義経』を読んだことをふと思い出しました。華々しく戦で活躍した場面よりも都落ちし平泉までの道中や最期の悲劇的な場面のことが思い出されました。読みなおそうかと本棚を見てみましたが、残念ながら大学時代からの引っ越しの間に紛失したようです。

そして、書店に行った時にたまたま司馬遼太郎の『義経』がありました。大好きな作家である司馬遼太郎がどんなふうに義経を描いているのか興味深かったので、購入しました。

読後感は良くなかったです。そのことも踏まえてこの本のことをまとめたいと思います。

みなもとのよしつね——その名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代…… 幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。

上巻は、義経の母である常盤御前藤原長成というあまりパッとしない貴族の妻になる場面から始まります。常盤御前義経の父の義朝の妾であり、その後、敵である平清盛の妾になります。

義経鞍馬山で過ごした時代のことは、思った以上に暗く描かれています。父義朝の死、母との別れ、鞍馬山での生活などが義経の人格形成に大きく影響を与えたことを描きたかったのかなと、下巻を読んでいるときにふと思い出していました。特に鞍馬山での小姓時代に受けた屈辱は、読んでいて切なくなりました。『愛着障害』と言う言葉が思い浮かびました。

上巻では金売吉次に導かれて奥州藤原氏のいる平泉まで行き、そこで騎馬の技術を磨くことも描かれています。そして、源氏という血筋からなのか、危機的な状況での的確な判断力や度胸、多淫であることも描かれながら物語は進みます。

弁慶との出会いや腹違いの兄である頼朝のことも書かれていきます。頼朝のこともかなり詳しく書かれています。

義経は、肉親の情を求め、平家を倒すことに自分の生きがいを見出したのだろうと思いました。特に、肉親の愛情を求め兄頼朝を慕う描写が多かったです。土地も家来もない彼には『源氏』と言う家柄が拠り所だったのだと思います。残念ながら頼朝とは最後まで気心が通じることはなかったとことは、この小説の中でも詳しく書かれていました。

義経の家来である弁慶や伊勢三郎との主従関係、静御前との関わりなども描かれてはいましたが、情緒的な描き方ではなく、淡々と描かれていていきます。

上巻の最後で、木曾義仲を京都から追い出していくところから義経は歴史の表舞台へと登場します。

戦に対する戦術の確かさ、兵の統率力などは神がかっていて、そこには甘ったれで女好きの義経の姿はありません。自軍を鮮やかな勝利へと導いていく下巻へと続きます。

義経は華やかに歴史に登場する。木曽義仲を京から駆逐し、続いて平家を相手に転戦し、一ノ谷で、屋島で、壇ノ浦で潰滅させる…その得意の絶頂期に、既に破滅が忍びよっていた。彼は軍事的には天才であったが、あわれなほど政治感覚がないため、鎌倉幕府の運営に苦慮する頼朝にとって毒物以外の何物でもなくなっていた。

下巻の前半では義経の華々しい戦の様子が描かれていきます。

彼の頭の中には、戦場の地理関係や相手の動きが明確にイメージでできていたのだと思います。戦術を考えるための情報収集もきちんとしていることも描かれていきます。偶然も味方する場面もありますが、司馬遼太郎は、義経の類まれな天才的な戦術家しての能力を丁寧に描いていきます。平家との最終決戦である壇ノ浦は、決して最初から源氏が有利であったわけでなく、どちらかと言うと水軍は平家のお家芸ということや、もともと瀬戸内海は平家の地元ということもあり、どちらが勝ってもおかしくないと言う状況であったようです。どちらかというと平家に有利だったようです。壇ノ浦の決戦は読み応えがある場面でした。

しかし、下巻の帯にもあるように義経は残念ながら政治感覚は全くなく、兄に肉親の情は求めましたが、兄の置かれてある立場は坂東武士のあくまでも代表であり、その拠り所は北条氏の娘婿という立場であることの意味を理解できていなかったのだということです。

岩手県人としては、奥州藤原氏義経の結びつきや弁慶を含め最後まで義経の側にいた家来との関わりなども掘り下げて欲しいところもありましたが、司馬遼太郎がこの小説で描きたかったのは、貴族の社会から武家社会へ変化していく中で、義経と頼朝が果たした役割だったような気もします。本来は武士である平家は、政権をとってからは貴族化してしまいます。新興勢力である武士の不満もあったことと、坂東武者にとっては平家の領土を得ることができる私利私欲もあったとも書かれています。

源氏の敵である平家は、源氏と違い同族意識が強く、情に厚いことも描かれていました。清盛が頼朝と義経に哀れみをかけたことが、平家にとっては仇となりました。

判官贔屓】という言葉の通り、後世まで京都での義経の評判は良かったとも描かれています。

平家物語義経記も読んでみたくなりました。

今年の夏に『一握の砂』を購入しました。

盛岡への小旅行にて。

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夏から秋にかけてはこの本と司馬遼太郎の『義経』、今年の大河ドラマの『光る君へ』のガイドブックを並行読書していました。寝る前の10分から30分が読書タイムです。

一握の砂

では、『一握の砂』を読んでの感想になります。

まえがきより

この本の編集者である近藤典彦氏は、

・「1ページ二首、見開き四首」であるという編集の意図を復元したこと。

・各章の冒頭の解説

・歌番号と索引を入れていること

が、この本のセールスポイントであると書いています。氏が啄木を敬愛し啄木の作品を愛したこたということが伝わって来ました。また、啄木の「三行書き」も啄木の野心的な試みであることも書かれていました。啄木以前の「五七五、七七」では読まないで、一行ごとに読むことを読者に要求しているとのことです。

読み進めていくと、短歌というよりは詩のような味わいがることも分かりました。朗読するのが最高の啄木短歌の鑑賞法とあったので、黙読してから声を出して読み、脚注がある歌はそれもきちんと確認しながら読み進めました。

そして、彼の短い生涯の晩年の作品であることも初めて知りました。

我を愛する歌

「我」とは啄木自身とのことです。つまり「自分を愛するから作る歌」とのことです。

東海の小島の磯の白砂に

われ泣きぬれて

蟹とたはむる

この章の最初の歌です。そして、この章では、さまざまな場面での彼の心の動きが見えるようでした。彼の置かれている生活環境や時代の空気を感じました。

タイトルの「煙」は夏目漱石から借りたツルゲーネフの小説『Smoke(英書)』に由来するそうです。「煙 一」は彼の青春時代である盛岡中学校時代、「煙 二」はふるさと渋民村のことが歌われています。

不来方のお城の草に寝転びて

空に吸われし

十五の心

これからの自分の人生に対する希望や不安を感じたであろう15歳の時の自分の心持ちを思い出して、読んだ歌なのだと言うことを知りました。

この章ではどこに行っても故郷のことを忘れずにいたのだということを思いながら読み進めました。

秋風の心地よさに

明治41年、「下宿を追い出されそうになった啄木は金田一京助に救われ、その年の秋と冬の食と住を確保できた」とのことです。この章は、「窮迫の秋」を「安堵の秋」としてくれた金田一京助への感謝として捧げられたそうです。

金田一京助に援助を受けたことは知っていましたが、感謝の思いをこのような形で表していたのは初めて知りました。

旅の子の

ふるさとに来て眠るがに

げに静かにも冬の来しかな

エピローグのこの歌は、金田一京助のおかげで安堵して冬を迎えられる喜びがしみじみと表出されているとい言う解説です。

忘れがたき人人

国木田独歩の名作「忘れえぬ人々」を踏まえたタイトルとのことです。北海道を漂白した一年間に出会った人たちを歌っているそうです。

「忘れがたき人人 一」は、渋民村退去から釧路を去るまでの歌とのことです。函館・札幌・小樽・釧路の各歌群の冒頭にはその地名入りの歌が配置されています。

「忘れがたき人人 二」の二十二首は全て、函館区弥生尋常小学校代用教員時代の同僚の橘智恵子に捧げられたそうです。そして、啄木はここに込めた愛を知ってもらうためにこの『一握の砂』を送ったそうです。歌集が恋文・・・・。

妻もいて、女遊びもしていた啄木の最後の恋だったのでしょうか。

「忘れがたき人人 一」より

石狩の美国といへる停車場の

柵に乾してありし

赤き布片(きれ)かな

しらしらと氷(こほり)かがやき

千鳥なく

釧路の海の冬の月かな

北海道の風景と人々との暮らしの中で啄木が感じたことを追体験している感覚で読みました。

「忘れがたき人人 二」

君ににし姿を街に見る時の

こころ踊(をど)りを

あはれと思へ

長き文(ふみ)

三年(みとせ)のうちに三度(みたび)来ぬ

我の書きしは四度(よたび)なり

智恵子のことを本当に好きだったんだということも伝わってくる恋の歌二十二首でした。

手套を脱ぐ時

「勤め人が帰宅して緊張の緩んだ時、そんな時、心に浮かぶのはとりとめのないようなこと」を歌にして集めた章とのことです。

読み進めているとその時の啄木の目に見えていたものと彼の心の動きを感じながら読み進めました。

新しき本を書ひで来て読む夜半(よわ)の

そのたのしさも

長くわすれぬ

_本来であれば_、

マチ擦れば

二尺ばかりの明るさの

中をよぎる白き蛾のあり

この歌で終わる予定の歌集でしたが、啄木の長男が急死します。挽歌が最後に八首挿入されて、終わりとなります。

かなしくも

夜明くるまでは残りゐぬ

息きれし児(こ)の肌のぬくもり

ー(をはり)ー

全部で551首。どれもこれも味わい深い歌でした。

最後に編集者である近藤典彦氏の【啄木略伝】がとても良かったです。

彼の生涯がよく分かりました。

啄木については、小中高と国語の教科書で学んだことしかなく、大学の時にローマ字日記を読んで衝撃を受け同郷の歌人なのに避けていましたが、今回この作品を読んで、すごく身近に感じられると共に、やはり『天才』だと思いました。宮沢賢治とはまた違った凄みを感じました。啄木の人生は、狂気と日常を行ったり来たりしていたのかもしれませんが、この歌集に散りばめれている歌には共感しながら読み終えることができました。

北海道に、また行きたくなりました。

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次は、桜山神社に行きました!

盛岡にいる時に車のお祓いをお願いした神社でした。おかげで、以前乗っていた車は12年間で21万キロ走りました。小さな事故や故障等はありましたが、命を守っていただきました。南部藩と関わりのある神社であったと記憶憶しています。

南部家の家紋だったような気がします。

可愛らしい石像もありました!

続いて、三石神社へ行きました。

大過ぎます!

【岩手】の県名の起源になったといれる石と鬼の手形があるということでしたが、ここも初めて訪れました。手形はどこかにあるか分わかりませんでしたが、なぜここにこんんな大きな石が3つもあるのかと考えると非常に興味深いです。

確かに巨大な石が3つあります!三ツ石神社

『鬼が持って来たのでは?』と思えるような不自然な場所にあります。

動物公園は多分30年ぶりくらいかもしれません。 ZOOMOになってから初めて行きました。入り口の表示を見る人間も地球上に生息している生き物の一つであることを実感します。

ワクワクしながら入口に向かいます!

鳥もたくさんいました!

ライオンだ〜

サイ、大きかったです!

キリンの背の高さ5mありました!

見学していたら、雨が降って来ました。飼育小屋の中にいたアフリカゾウの大きさにもびっくりしました。全部見切れませんでしたが、とても楽しかったです。
以前、訪れた時もかなり歩いた記憶がありましたので、疲れるかなぁ、と思っていましたが、とても楽しめました。しっかり整備されていて、大人も十分楽しめる施設になっていました。

夜は、新しくできた『monaka』を通り、桜山神社の近くの飲み屋さんで美味しい沖縄料理をいただきました。

泡盛で、乾杯!盛岡の夏楽しみました。

お盆は、娘と孫、息子のほかに親戚も来るので、15日から盛岡へのプチ旅行を計画しました。不思議なもので、盛岡には25年は住んでいたはずなのに今回も新しい発見があったので振り返ります。

啄木記念公園

啄木記念館に行ったら、改築工事のため休館でした。残念。歌碑のある公園があったはずなので、向かいました。

鶴飼橋です。北上川の幅がまだ狭いです。

宿泊先は、盛岡市内にしていましたので、啄木に縁のある施設!ありました〜!!

もりおか啄木・賢治青春館(旧第九十銀行本店本館)

割とすぐ近くに住んでいて、この建物の前も何回も歩いたり走ったりしていたのですが、初めて中に入りました。

趣のある建物です。マークも素敵です!

展示もとても充実していました。無料です!

二人が過ごした時の盛岡の様子と彼らの生い立ちについても詳しく知ることができました。啄木は26歳で賢治は37歳で亡くなります。『青春館』。彼らが真っさらの時に過ごした盛岡です。素敵なネーミングだと思います。

それから、啄木が愛した『ふるさとの山』は岩手山とばかり思っていましたが【姫神山】ということも展示を見て知りました。何歳になっても新しい学びがあると嬉しいです。

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さて、宮沢賢治の作品はかなり読んできたのですが、石川啄木の作品は、国語の時に学んだくらいです。学生時代に図書館で古代ローマ史を調べて、そこの学生しか入れない蔵書がある部屋で古い文献を探しているときに、たまたま、彼のローマ字日記を手にしました。少しだけ読んだのですが、内容があまりにも強烈で途中でやめました。それ以来、啄木のことを避けていました。今なら『ローマ字日記』も読めそうな気がします。彼の短歌の世界との違いにショックを受けたのだと思います。

ということで売店で『一握の砂』を購入しました。これを読んだら、『悲しき玩具』も読んでみたいです。

そのあとは、以前行ったことのある『北田屋』でお昼にしました。今回は【大冷やしたぬきそば】です。この日も暑かったですからね。

腹ごしらえをしたあとは、神社巡りです!

盛岡八幡宮

秋祭りに行くことが多かったので夏詣は新鮮でした!

こんなに大きな狛犬は初めです!以前は全く気づかなかった〜!

夏詣。風鈴の音が涼しげでした!

参道の向こうにはお城があり、岩手山が見える場所です!

2016年。8年前の夏も暑かったのですが、震えながらこの街を彷徨っていたことが嘘のように盛岡を満喫しています。

でも、その時のことがあったからこその【今】なのだと思いながら、次の目的地に向かいました。感謝。

5日目 愛媛→兵庫→岩手

飛行機の旅は、慣れていないこともありますので、空港へは今回も早めに行きました。松山空港に着いたら、とても可愛いキャラクターやお土産も蜜柑色で欲しくなりましたが、我慢がまん。

蛇口からみかんジュースはすごい発想です!

階段にも素敵な言葉がありました!

大切な人達を思い浮かべながら階段を上がりました。

松山空港から伊丹空港までは、プロペラ機です。きっと高度があまり高くできないからなのだと思いました。伊丹空港から花巻空港までは、いつものようにジェット機でした。

今年は、年に2回も飛行機での旅をしました。北上市の市街地が夕焼けに染まっているのを空から見たときは、旅が終わったことと、大切な人たちが住んでいる故郷に帰ってきたことなど、いろんな気持ちが込み上げてきました。

ありがたいです。

4泊5日の四国旅行は、忘れられない旅行になりました。

5日目 愛媛→兵庫→岩手

坂の上の雲ミュージアム

今回の旅行、最後の見学先になります。

司馬遼太郎の作品を初めて読んだのは、高校生の時です。『項羽と劉邦』です。

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その後、大学生の時も社会人になってからも時折、彼の小説は読んでいました。ほぼ、読んだと思っています。

さて、『坂の上の雲』は、松山に生まれた秋山兄弟と正岡子規との交流を軸に描かれていく小説になります。今回の旅行で松山に行くことがわかった時に、必ず行こうと思っていた場所でした。

チケットを購入し見学を始めたら、なんと安藤忠雄さん建築の建物でした。

遠野では木造建築の図書館を見学しました。

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展示の仕方も独特です。丁寧に読みながら順路を進みます。

残念ながら、展示物の撮影は禁止のものがほとんどでした。幕末、松山藩佐幕派だったため、明治維新後は大変だったようです。秋山兄弟の家系図や手紙、日露戦争について、正岡子規の生い立ちや俳句のことなどが散りばめられています。一番心に残ったのがこの小説の主人公の秋山兄弟や正岡子規が、学問で身を立てるために一生懸命勉学に励んだことです。明治時代の志のある若者が全国各地にいたことのスライドや幕末の松山藩のこと、日露戦争の時の捕虜収容所でもあったことなども興味深く見学しました。

空中階段!すごい発想です!!

新聞に掲載された『坂の上の雲』のスクラップブックと壁の掲示

展示の最後の出口には『坂の上の雲』のあとがきの一部が展示されていました

〜要するにロシアは自らに負けたところが多く、日本はその優れた計画性と敵軍のそのような事情のために際どい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。

戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的な強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境としてとして日本時の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて、国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争からわずか40年のちのことである。敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史から見れば、戦争の勝敗などというものはまことに不思議なものである〜

最後の展示が【あとがき】のこの部分を抜粋しているということから、たくさんのことを思いました。

売店でのお土産は自分へのものを買いました。

建物の中から素敵な洋館が見えました。

萬翠荘と愛松亭

見学するには微妙な時間になっていましたので、外から写真を撮るだけにしました。

夏目漱石の最初の下宿先とのことです。

人力車も年季が入っています!

余裕を持って、空港行きのバス停に向かいました。

せっかくなのでお土産のこともまとめます。

いつもは、旅行であまりお土産を買わないのですがが、今回はいろんな方のことを思い浮かべながらお土産を買っていました。

鳴門公園

1 息子へ(渦潮Tシャツ)

自分用にも欲しいくらいのバックプリント!

2 娘と孫(ちいかわキーホルダーと阿波踊りハンカチ)

二人とも喜んでました〜

桂浜

1 職場とお世話になっている取引先へ(土佐英雄伝)

お取り寄せ四国ソラウミネットより引用

小分けになっていて個数も結構入っていて助かります・・・・

2 親戚&我が家へ(塩もちと桂浜もち)

高知は塩も有名なそうです。売れ筋は【桂浜もち】とのことです。

3 コーヒー好きの知人へ(四万十コーヒー)

四万十炭で焙煎

4 妹夫婦と自分用(酔鯨

山内容堂に因んだネーミングでしょうか。すっきりした飲み口でした。

屋島山上と栗林公園

1 猫好きの知人へ(にゃんこうどん手ぬぐい

2 猫好きの知人の猫ちゃんへ(お守り)

可愛すぎます!

金毘羅宮

1 自宅用(加美代飴)

今年は、還暦なので厄払いのお祓いをしたこともあり、お守りやお札などは購入の予定はなかったのですが、入り口の鳥居にいる売り子の方に味見を勧められて購入しました。昔からのお土産のようです。レトロなパッケージです。由緒もあり、売れ筋のお土産のようです。あまり甘くなくて美味しかったので購入しました。

小さな金槌で割って食べます。

善通寺

1 母へ(千枚通)

母に頼まれていて購入したものです。20代の頃から実家にあったことと四国のお寺のものだということは覚えていました。その地に直接行って買う宿命だったのかもしれません。母は、今回私が買った護符を仏壇に大切に置いていました。

4個買ったので4000枚か〜

坂の上の雲ミュージアム

1 自分用(本、マグネット、絵葉書)

本が買えてよかったです。

本には司馬遼太郎直筆の原稿が印刷されていました。

葉書の短歌は秋山真之が7〜8歳の頃に描いたものです。やんちゃだね〜

マグネットは記念です・・・・。

懐具合と相談しながらの買い物でしたが、楽しく選ぶことができました。