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2024 年8月13日 投稿

世界史の構造

第三部 近代世界システム

序論 世界=帝国と世界=経済

ここでは、交換様式Cが優位にあるような社会構成体を扱う。まず、交換様式Cの優位性がいかにして成立したのか、を問う。マルクス主義者の間では、これは「封建制(交換様式B)から資本主義への移行」という問題として議論されてきた。マルクスは、近代資本主義の起源をマニュファクチャーに、しかも生産者(自営農民)自身が資本家として始めるマニュファクチャーに見出した。すなわち、封建制社会が内部的に解体されたことである。同時に、マルクスは、世界商業と世界市場が資本の成立する歴史的前提となった、としている。ポール・スウィージーは、資本主義がそれに先立つ交易の発展(アメリカ大陸からの銀の流入など)の上にあることを強調し、モーリス・ドップは、封建制の内部的解体を強調した。しかし、柄谷はこれだけでは、資本主義経済がなぜヨーロッパにおいて発生したかを説明できない、と述べている。これを説明するためには、なぜヨーロッパ特有の封建制が始まったのか、またなぜ「世界商業と世界市場」がヨーロッパから始まったのかを、問わねばならない。

フェルナン・ブローデルの、世界=帝国と世界=経済を区別することを出発点とする。両者の違いは、国家による交易の管理があるかどうか、という点に集約される。ブローデルは、世界=帝国から世界=経済への「発展」という見方を斥けた。ヨーロッパは16世紀以前から世界=経済だったというのだ。西ヨーロッパに世界=経済が発生したのは、それが文明的に進んでいたからではなく、ローマ帝国、さらにそれを受け継いだアラビアの世界=帝国の亜周辺にあったからである。ヨーロッパも世界=帝国を実現しようとしたが、王や封建諸侯が濫立し、国家の統制なしに交易や市場が自由になされた。その結果、自立的な都市が多くできた。ヨーロッパでは、「封建制」(帝国ができなかったこと)と「世界商業」は不可分であった。

ブローデルは、世界=経済には一つの中心があり、中心的な都市(世界=都市)がある、とする。世界=帝国においては、都市は政治的な中心であるが、世界=経済においては、交易の中心である都市が政治的に中心となる。そして、世界=経済において、中心はたえず移動する。例えば、アントワープアムステルダム→ロンドン→ニューヨークといった具合だ。

世界=帝国では、中心と周辺という空間的構造は、政治的・軍事的な力によって決まる。帝国の範囲は、ロジスティック(兵站)によって限定される。次に、帝国の境界を拡張することで得られる富と、そのための軍・官僚制のコストの比率によって決められる。一方、世界=経済には、理屈の上では「限界」がない。しかし、具体的な商品交換は、国家による法と安全の確保が不可欠である。したがって、歴史上に存在した世界=経済は、世界=帝国に破壊されるか、併呑されてきた。しかし、西ヨーロッパに広がった近代の世界=経済は、逆に世界=帝国を飲み込んだのである。

世界=帝国と世界=経済の構造には決定的な違いがある。世界=帝国では、中心部が暴力的な強制によって周辺部から余剰を収奪するのだが、周辺部に行くとそれは困難になる。帝国の版図を拡大するためには、逆に中心部の余剰を周辺にまわさなければならない。つまり、互酬的な交換が残る。ところが、世界=経済では、直接的な収奪ではなく、たんなる商品交換を通じて、中心部が周辺から余剰を収奪する構造がある。世界=帝国では、周辺部が原料を加工した生産物を中心部に送るのに対し、世界=経済では、周辺部が原料を提供し、中心部でそれを加工・製造する仕組みになっている。このような分業においては、最終製品を作るほうが価値生産的であるので、剰余価値を獲得するのである。略記すれば、世界=帝国では、富の蓄積=収奪が、暴力的な強制と安堵という交換、つまり交換様式Bにもとづいている。一方、世界=経済では、富の蓄積=収奪が商品の交換(註:不平等な)、つまり交換様式Cにもとづいている。ヨーロッパで始まったこのシステムが、それまでの世界システムを急激に変えていった。

注意しておくべきは、グローバルな世界=経済の中で、周辺的な地域や圏外地域が西欧諸国によって簡単に植民地化されたのに対して、旧帝国の中核や亜周辺は容易に植民地化されなかった。亜周辺にあった日本は世界=経済に急速に適合しその中核に入った。また、世界=帝国の中核にあったロシアや中国は、世界=経済の中での周辺化に対抗して、新たな世界システムを再建しようとした。ロシアや中国の社会主義革命は、そのような企てとして見るべきであろう。