赤坂界隈を歩く(1)赤坂門跡~弁慶橋 (original) (raw)

今回は、赤坂界隈を歩いて見たいと思います。東京メトロの永田町で下車しました。ここの都道府県会館は、建物内には各階に都道府県の事業所があります。内部には各市町村が発行するパンフレットが並んでいて、とても見応えがありました。

↑地上に出ました。青山通り赤坂見附の交差点に向かいます。

↑史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。 赤坂御門は、寛永13年(1636) に筑前福岡藩黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639) には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。

↑赤坂門跡

弁慶橋が右手に見えて来ました。

弁慶橋は江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられいます。

かつては神田松枝町と岩本町との間にある藍染下流に架かっていたが、1885年(明治18年)に藍染川が下水道工事で埋められると弁慶橋も不要となり、撤去されました。しかし、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、1889年(明治22年)に紀尾井町から元赤坂一丁目に通じる道筋にある江戸城外堀へ、元の弁慶橋の廃材を利用して架橋され、橋が無くて困っていた両岸の住民は大いに喜んだといいます。擬宝珠には江戸期に筋違橋、浅草橋などで使われたものが利用されました

↑弁慶橋

↑道の反対側は、弁慶橋ボート場

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑

「紀尾井坂の変」でも有名な紀尾井坂は、清水坂の周りにあった武家屋敷のそれぞれ一字ずつから「紀尾井坂」と呼ばれるようになりました。こちらは、紀州和歌山徳川家の屋敷があった場所です。

↑新紀尾井町ビル

紀尾井町 福田家

芸術家だけではなく、美食家としても広く知られる魯山人。その世界観に魅せられた先代・福田マチは、「福田家」を 開業するにあたり魯山人から一から指導を受けました。北大路魯山人の考え方、美意識が色濃く反映された店と云われています。

次回に、続く。