羽州街道を歩く 10 院内宿〜湯沢宿 その2 (湯沢市) (original) (raw)

令和6年1月4日(木)晴れ時々曇り

院内宿〜湯沢宿その1からの続きです。

4 三関(みつせき)地区

奥羽本線の列車で通り抜けてしまった区間は、旧三関村に当たります。南から上関、下関、関口で三関です。日本一と言われる「三関さくらんぼ」の産地です。山形のさくらんぼの押しがあまりに強いので、「秋田のさくらんぼ」は、ちょっとピンときません。

東にある山容の良い東鳥海山を越えると、「稲庭うどん」で有名な稲庭地区があります。街道は途中で国道から離れてフルーツラインの方を通っていたようです。

上湯沢駅を降りて東に向かい、県道279号線に出ます。「三関ゆめ蔵ぶ」のある丁字路を南に下ると複雑な交差点があります。ななめ左からやってくるのがフルーツラインで、これが羽州街道です。

ここを再スタートとして、旧街道を北上(街道順方向)します。この辺りは関口地区です。右手に関口八幡神社の鳥居があります。

上湯沢駅南 荒町会館脇の再スタート地点

この先、関口から寺沢にかけては石材街道と呼ばれ、石材店が連なっています。この辺りで産出する関口石は、比較的均質な砂岩で、美しい縞模様が現れ、工芸品に向いているとのことです。

右手、小野寺石材店の手前には、「御機嫌坂記念公園」と彫られた石碑が建っています。公園らしきものは見当たらないのですが、この辺りは御機嫌坂と呼ばれています。

秋田藩佐竹義宣公は水戸から秋田に国替えになり、失望して雄勝峠を越えてきました。しかし、この坂まで来て、仙北平野の豊かな風景を目の当たりにしたとき、たちまち機嫌が良くなったので、ここを「御機嫌坂」と名付けた。という伝説があります。

御機嫌記念公園の石碑

愛宕町・吹張

先へ進むと国道13号線と合流します。この辺りから愛宕町で、都市周辺の景観となってきます。そして、旧街道は400mほど進んだ西松沢交差点で国道から右の方へ分かれていきます。

愛宕公園の標識の方に入っていくと、愛宕神社があります。愛宕神社は、延暦20年(801年)に征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷地平定の際、蝦夷の首領悪路王を征討するにあたって、愛宕大神に戦勝祈願をし、その霊威によって賊を討つことができた事を報謝し、物見の丘とした愛宕山の頂上に祠を建てて祀ったのが始まりと伝えられています。

愛宕神社入口

愛宕神社の北側には、秋田県立湯沢高校があります。

街道に戻って北進すると、愛宕町の一里塚跡があります。左手の塚が残っていて、塚に植えられたケヤキの木の根が塚を覆い尽くしています。

愛宕町の一里塚跡

その先が、古い家屋が残る吹張(ふきばり)地区です。この辺りからは、湯沢城下町の縄張りの内部であり、街道と直角に交わる◯◯小路という標柱があちこちに建っています。

吹張地区の一番北側に国の登録文化財になっている山内家住宅があります。呉服商を営んでいた山内家の七代目・山内三郎兵衛が建てたもので、1934(昭和9)年に竣工祝いを行っています。本住宅主屋は、梁を重ねた重厚な妻面を見せ、屋根には深緑の釉薬瓦(ゆうやくがわら)が葺かれています。

敷地内には軽快な意匠でまとめられた裏座敷の他、文庫蔵、道具蔵、商品蔵、穀蔵といった土蔵群、洋風意匠の車庫が立ち並んでいます。

山内家住宅

6 田町・内町

山内家住宅の先からかつての町人町である「田町」に入ります。東側の「内町」は武家町です。街道が湯沢大堰と交わっているところから、街道をそれて内町に入ります。ちょっと複雑ですが、Googleマップを見ながら清涼寺の入り口まで行きます。ここに湯沢城正門跡の標柱があります。さらに奥に進むと佐竹南家の菩提寺である清涼寺があります。清涼寺の東の山上には、かつて湯沢城が存在しました。

湯沢城正門跡

湯沢城は、鎌倉時代雄勝郡に入部した小野寺経道の三男・小野寺道貞が1227(安貞元)年に築いたとされます。その後、最上義光が領有を主張して小野寺氏と対立し、1595(文禄4)年に落城し、最上氏の配下の楯岡満茂の居城となります。1602年に佐竹氏が出羽国に入部すると最上氏と領土交換し、佐竹南家の居城となります。初代の佐竹義種が城郭や城下町の整備を行いましたが、一国一城令で廃城となります。その後、佐竹南家は現在の湯沢市役所のところに館を建てて居住します。佐竹南家は、佐竹氏第15代・佐竹義舜(よしきよ)の四男・佐竹義里を祖とする佐竹本家を補佐する家柄です。

パッケージプラザ後藤のある交差点から先は、道幅が広くなり、モダンな商店街となります。左手に広い駐車場を持つ銘酒「福小町」の木村酒造があります。

7 大町・柳町

再び、湯沢大堰を渡るところから大町に入ります。大町とこれに続く柳町湯沢市の中心部です。モダンな商店街が続き、北都銀行の向かいには稲庭うどんの店・佐藤養助湯沢店があります。

大町の街並み

湯沢駅入口の交差点から先が、柳町です。ここからはアーケード街となっていますが、閉まっている店がけっこうあります。

柳町アーケード街

少し行った左手、湯沢市観光物産協会の事務所の前には「犬っこ清水」があります。その先の右手、NTTビルのところにも「犬っこ清水」があります。ともに良質の水が湧き出していた場所のようです。

「犬っこ」は、湯沢地方の民俗行事「犬っこまつり」にちなんで付けられた名前です。このまつりは、昔、白昼堂々と人家を襲う「白討(はくとう)」という大盗賊がいて、湯沢の殿様がこれら一味を退治し、再びこのような悪党が現れないようにと、米の粉で小さな犬っこや鶴亀を作らせ、旧小正月の晩に、これを家の入口や窓々にお供えして祈念させたのが始まりとされています。

犬っこ清水

湯沢市横手市のあたりは、良質の湧水に恵まれている場所で、酒蔵がたくさんあります。街道の東には「美酒爛漫」で知られる秋田銘醸の大きな醸造所があります。

8 佐竹町

本日の街道の旅は、柳町までとします。この後は、東側の佐竹町方面に行ってみることにします。

市役所の方に向かうと洋館が建っています。雄勝郡会議事堂記念館です。この建物は、雄勝郡役所の議事堂として建てられたもので、1892(明治25)年に落成式を行っています。基礎は二段切石布積み、外壁は下見板張りで小屋組は木造で洋式の工法をとっています。1923(大正12)年の郡制廃止にともない湯沢町に払い下げられ、その後、湯沢町公会堂・雄勝地方事務所、町役場、市役所、公民館、図書館に利用され、1982(昭和57)年9月まで使用されました。

雄勝郡会議事堂記念館

さらに東に行くと湯沢市役所があります。前述の通り、佐竹南家の居館があったところです。南側の中央公園から湯沢城に登ってみようとしましたが、本丸跡まで遠いので諦めた。清涼寺から登った方が近かったようです。登口に佐竹南家屋敷の門があります。

佐竹南家屋敷の門

公園の東ベリに「力水」があります。昔、「からだに力がつく水だ」と殿様が愛用されたことから、その後、誰いうことなく「力水」と名付けられた。佐竹南家の御膳水として明治25年ごろまで使われていたとのことです。

力水

日も暮れて暗くなってきたので、この後は湯沢駅を見てから今晩の宿泊地「湯沢グランドホテル」へ向かいます。

湯沢駅

最後になりましたが、湯沢市について簡単に記しておきます。

湯沢市は、人口約4万人。山形県宮城県と接する、かつては秋田県の玄関口となっていた都市です。内陸性気候で豪雪地域として知られています。1954(昭和29)年に湯沢町、岩崎町、山田村、三関村、弁天村、幡野村が合併して誕生しました。今年で生誕70周年ということになります。小正月の時期(現在は2月の第2土曜日)に開かれる「犬っこまつり」が有名です。また、酒どころとして知られるとともに、市内で産する「三関せり」はきりたんぽ鍋に欠かせない具材として、知られています。

湯沢市百貨店事情

大町から湯沢駅に向かう通り沿いには、サンロード商店街がありアーケードが設置されています。その中央部に「協働社 湯沢サンエー」という看板を掲げた大きな建物があります。これはかつての「協働社湯沢サンエー」というデパートの跡です。協働社は、かつては東北の各都市に店舗を構えていたようですが、詳しいことはわかりません。現在も靴を売る店が県内に残っているようです。

サンロード商店街

協働社湯沢サンエーの建物

湯沢にはもう一つ「大丈」というデパートがありました。柳町秋田銀行湯沢支店の南側の、現在、商工会の駐車場となっているところにありました。大丈は1920(大正9)年に大友丈吉が湯沢で呉服太物小売商を始めたのが起源です。1973(昭和48)年に、この地に鉄筋コンクリート造り4階建ての「湯沢ショッピングデパート大丈」を建設しました。しかし、業績悪化により1996(平成8)年に閉店。その後、「アエナゆざわ」として地元の物品を扱う店舗となっていましたが、建物の老朽化により2011(平成23)年に解体されました。

柳町の大丈跡地

ここにも、駅前や中心街の商業地は廃れ、それと共にデパートも衰退していった歴史がありました。現在、若者を中心にサンロード商店街を活性化する動きがあるようです。駅前商店街を応援しています。

旅の記録

スタート 湯沢市上院内 12:30

ゴール 湯沢市柳町 15:50 (横堀駅上湯沢駅は鉄道利用)

歩いた道のり 院内駅横堀駅 約5km

上湯沢駅〜湯沢市柳町 約4km

時間 院内駅横堀駅 約1時間

上湯沢駅〜湯沢市柳町 約1時間