思い出の向こう側 (original) (raw)

今週の中で断片的な何か、流れて消えてしまうようなものを書き残しておきます。


深夜2時。眠れなくて、こんな時間だけどゴミを出しに外へ出た。雨はもう止んだと思っていたのだけれど、霧雨が舞っていた。傘もささずに歩く。雨に濡れていたいような、どこかそんな投げやりな気分だった。ここで風邪をひいたら後悔することを知っているのに、それでも濡れていたいと思ってしまった。

誰もいない。雨も静かだ。孤独。

ふと、これは孤独であって、寂しさではないのだということを思う。強がりかもしれないが、今の私は寂しいわけではない。ただ、孤独であるということ、一人であるということは強く感じている。何がどう違うのか、私にもよくわからない。

道を歩いていると、豚を乗せたトラックに遭遇した。隙間から見えた豚は動いていて、ああ生きているんだなと思った。トラックの通った道は獣の匂いがした。臭いなと思ったが、その命を享受している私がそう思うことはどれほどの罪深さなのだろう。普段は見えていないこと、意識せずにいられていること。手を下すことも、その命を感じることもなく、ただトレイに入れられた赤い肉の欠片を手に取ってカゴに入れること。フライパンの上で焼いてしまうこと。ぺろりと食べてしまうこと。美味かった不味かったなどとその命を評価すること。その命を、臭いと思ってしまうこと。

そんなことを思った。でもその夜、私は何も思わずに豚のタンを焼いて食べた。美味しかったです。

近所のとあるスーパーで買い物をしていると、ふっと心がしんどくなるような感覚を覚えた。それは、3週間前に同じようにしんどくなったのと同じ場所だった。何かがフラッシュバックするようなそんな感覚で、慌ててその場を去った。ちょうどその時と同じ友達とも連絡を取っていたこともあり、その時の記憶が刺激されたのだろうか。とても怖かった。しばらくあのスーパーには行かないと思う。こうやって恐怖症は作られていくのかもしれないですね。

今、Coccoのライブに行きたいなと思う。最近は久しく聴いていなかったのだけれど、どうしようもない気持ちになったとき、思い出したかのようにCoccoを聴きたくなり、聴いてみるとやはり救いだった。去年も一昨年もライブを観に行っていたというのに、今年はツアーもないからあの歌を浴びることができていない。あの感覚が恋しい。あの、なんとも言えない純粋さを、透明感を、強さを、弱さを、愛を、それら全てを持ったCoccoという一人の人間を。

気温の急激な変化に体がついていけない。体調や睡眠が崩れている。どうにもならない。自分で自分をコントロールすることができないでいる。どうにかなりませんか。

喘息もまだ続いている。もしかしたら心因性かもしれないと思う。でもそうやって全てを心の問題に帰結させようとするのは悪い癖かもしれない。いずれにせよ、そのうち病院に行かないといけないなとは思っている。思っているのに、気が進まないのはなぜなんだろう。とりあえず今飲んでいる市販薬が尽きたら行こうかな。

喘息に限らず、私は喉をはじめとする呼吸器系がどうも弱いみたいだ。喉は枯れやすく、働いていた時も何時間か喋っていると枯れてしまっていた。研修とかで喋って教える羽目になるともう大抵ダメで、そういう日々が数日続くと蓄積したダメージで体調まで崩れていく。それは今でもそう。喋る時間が長い(普通の人にとっては普通の長さかもしれないが)とすぐに枯れる。だからまあ、無口でいる方が元気ではいられるんですよね。喋りたいけど。

声帯の使い方というか、発声が悪いんだろうなと思う。ボイトレみたいなものをして、一から声を作り変えていった方がいいのかもしれない。声は仕事道具なので、ちゃんと持続できるようなあり方を今のうちに考えておく必要があると思う。抑揚のなさとか、滑舌の悪さとか、そういうものも改善できるといいなと思うが、顎関節症的なアレであまり口が開かないのもあり、まあそれは難しいような気がしている。口を指3本縦に入るくらいに開けるとカコカコ言うんですよね。普段は痛みも何もないんですけど、たまにしんどくなる。

やらなければならないことはたくさんある。逃げ出したい気持ちはいつだってある。できることなら全てを投げ出したい。こんなことばかりずっと言っている気がする。でも、まだ逃げ出してはいない。不思議。

まだ、頑張ってみたいと思っているのだと思う。自分の可能性を信じていられているのだと思う。もう少しだけ頑張ろうというのを立ち止まりながらもここまで続けてきていて、これからもそうしていくことしかできないかもしれないが、それでも一歩一歩前には進めているようには思えている。自信を持つことは簡単にはできないけれど、でもまあ少しくらいは信じてあげてもいいのかもしれない。

焦りはある。空回りしてしまっているところも恐らくある。どうしていいかわからなくなって途方に暮れているときもある。こういうときこそ深呼吸。リラックスして冷静になりましょうね。まあ、喘息で苦しいとどうしようもないのだけれど。

色々なものを治してしまいたい。完全な状態にしてしまいたい。でも、どこかに欠落があるのが人間で、どうしたって完全な状態になどなれないのだから、この不完全さを受け止めないといけないのかもしれないとも思う。まあいいか、これが私だしと思えるようになったら楽なんだろうな。

歩いていたときに、ふと「風になりたい」と思った。吹いていた風が心地よかったからかな。歌詞は今の私の気持ちとは違うものだけれど、”天国じゃなくても楽園じゃなくても”ではありますね。

日記のようなものです。


くどうれいんさんの新著『日記の練習』が先日発売された。くどうさんのエッセイや日記の大ファンなので当然買う一手。そして、せっかくならサインが欲しいな、なんて思った。くどうさんは岩手の人で、岩手であればサイン会みたいなものや、サイン本が積まれている本屋があったりするんだけど、私が岩手を旅していた時はまだ発売前で、だから無理だった。

とはいえ、サイン本を手に入れるチャンスはなくはない。Twitterを眺めていると9/21に大阪でサイン会をやるとの情報があった。私はミスチルのライブで前日に大阪に行く予定だったので、これはチャンスと思っていたんだけど結局諦めちゃった。疲れてたし。

このとき書いていた翌日のイベントはこのサイン会だったのでした。

で、諦めたんだけど、くどうさんは大阪の本屋(梅田蔦屋と丸善高島屋大阪店)でサイン本をそのとき作ってくれていた。翌週も大阪に行く予定(BUMPのライブ)だったから、そのときに買えると嬉しいなって思っていた。でも、丸善の方は1日も持たずにサイン本完売とのTweetがあった。蔦屋は何も情報がなかったけれど、とはいえ丸善の様子を見るにまあ無理かもしれない。

もうサイン本は諦めて適当に買おうかな、と思っていたとき、くどうさんのやっているエフエム岩手のラジオ『丸顔たちは、きょうも空腹』で、サイン本を3名にプレゼント!というキャンペーンを耳にした。まあダメもとで応募するか、と思って、神戸へと向かう高速バスの中でメールを送った。こんなの大体当たんないんですけどね。

9/29。

BUMPのライブ前に大阪に行ってダメもとで蔦屋に寄ってみると、そこにはサイン本がまだあった。というわけでもう迷わずに購入。とっても嬉しかった。

そしてその数日後。ヤマトから荷物が届くとのメールが届いた。心当たりが全くなかったが、発送元を確認すると岩手県だった。

……そうです、当たっちゃったんです。こんなにも嬉しいのに、こんなにも申し訳ない気持ちになるなんて。せっかく送っていただいたのに、絶対他の人に送った方が喜ばれたんじゃないかと思う。でもそんなこと言えないですね。

というわけで、今私の手元には『日記の練習』のサイン本が2冊あります。大事に読もうと思います。

左がラジオプレゼントのサイン本、右が大阪で買ったサイン本

これはくどうさんのエッセイで好きなものの一つ。くどうさんにとってのねぎとろは、私にとっての何だろうか。


夏休みが終わった。2ヶ月くらい休みだったものの、実習やら集中講義やらでこまめに削られ、まとまった休みという実感はあまりないまま終わってしまった。本当はこの期間にもっと色々なことを勉強しようとか、研究を進めようとか思っていたのに、結局ほとんど何も進まないまま。

別にそれをそんなに悔いているわけではないんですけどね。もちろん怠惰に過ごしてしまった時間はたくさんあったけど、必要な休養だったとも思うし、別に何も考えずに過ごしていたわけでもなかったから。たくさん本を読んだ(専門書ではないから直接的な成長かと言われるとそうでもないが)し、旅行もできたし、色々な人と話をしたりして色々なことを吸収した期間だったと思う。あとは実習でもすごくたくさんのことを感じ、考え、学んだんじゃないかと思っている。

人生全体で見たらこの夏休みはちゃんと前に進んだ期間だったと思う。堂々と胸を張って言えるほどじゃないんですけどね。できていないこともたくさんあったから。でもまあ、良かったんじゃないですかね。

夏休みが終わる日。大学の廊下から見える夕焼けがとても綺麗だった。とても綺麗だったから、呼び寄せられるように廊下の先のガラス扉を開け、夕陽を直接眺めようと外に出た。そこには二人の先輩がいた。先輩たちもまた、夕陽が綺麗でそれで廊下からここへ来たのだと言っていた。直接見る夕陽は廊下で見たそれよりもなんだかちっぽけでがっかりしたのだけれど、でもまあそんなことはどうでもよくて、同じように夕陽を見てここへ呼び寄せられた人がいたということがなんだか嬉しかった。

夕陽が綺麗だったから、というとても素直な心持ちで日々を生きていられたらどんなに綺麗なことだろうかと思う。本当に、ただそうありたいと願う。金を稼ぐとか、誰かの役に立ちたいとか、勉強とか研究とか、そういうのは本当はどうでもよくて、ただそうやって綺麗なことだけで生きていられたらそれでいいのにな、と思っている自分がいる。本音、でもこれもまた言えないこと。そしてそれが全てではないことも知っているから、私は頑張って生きようとしている。


最近は歩くときに音楽を聴くことが減った。外にいるとき、音楽を聴いていれば世界のいろいろなものは遮断され、私は大丈夫でいられた。音楽は私を守ってくれているものだった。今、世界が少し大丈夫なものに思えているのかもしれない。本当に良かったと思う。

それでも時折、ふとしたはずみで世界がこわくなるときがある。今日はそういう日だった。

街で用事を済ませ、南珈琲店で本を読んでいた。読み進めていると、私の心の中にすっと冷たく染み込んでくるものがあった。これはもう、誰かがいるところでは読み進めることができないと思った。それで慌てて席を立った。そのまま映画を見に行こうと思った。『ナミビアの砂漠』の上映時間が迫っていた。そもそも今日はこの映画を観るつもりで街に出ていたのだ。でも、映画館に向かう途中で「今日は観れない」と思った。疲れていたとか、少し眠かったとか、いろいろな理由が思い浮かんだけれど、多分何かがこわかったんだと思う。今、この映画を観ることで、何かが壊れてしまうような、そんなこわさ。普段ならえいやと踏み込むのに、実際に壊れることは多分ないことも知っているのに、今日はそれができなかった。

それでそのまま電車に乗って帰ることにした。本の続きを読む。一人でなければ読めないと思っていたのに、一人でない場所で読んでしまったからか、冷たさが身体を侵す。

不規則に縦に横に揺れて走る車両。身体がそのリズムにうまく乗れない。私だけがこの世界のリズムに乗れない、そんな錯覚を覚える。世界から置いてかれてひとりぼっち。ふと、数十人の乗客それぞれに人生があって、物語があるということに、その情報量にこわくなる。押し潰されそうだ。カバンを胸に抱え、ぎゅっと抱きしめる。それ以外に今の私を支えられる術がないように思えたから。

誰もいない無人駅で降りた。駅の明かりが眩しい。誰もいないベンチで座りたかった。でも駅は誰もいなくても明るい。明るいところで座る気持ちには、どうしてもなれなかった。暗闇に一人座っていたかった。そんな場所はどこにもなかった。目の焦点がどこにも合わない。疲れているのか、それともこわいのか、よくわからなくなる。

なんとか頑張って歩いて帰宅した。でも、それでも音楽を聴こうという気持ちにはならなかった。むしろ静寂を聴いていたいと思っていた。暗闇の中では世界と仲良くなれるような、あるいは味方でいてくれるような気がしたのかもしれない。

布団に倒れ込む。やっぱり疲れているようだ。夕食を作らなきゃ、と思う。芋煮を作ろうと思って、材料だけは用意してあった。

里芋を剥く。剥いていると、力の掛け方がまずかったのか、あるいは経年劣化か、セラミックのピーラーが割れた。途方に暮れる。普段であればピーラーを買いに行ったのかもしれないが、ちょうど自転車のタイヤがパンクしていて使えず、そして歩いて買いに行く気力はなかった。仕方ないので包丁で剥こうとしたが、手が震えていてどうにも危なっかしい。もはや世界は私に味方してくれていないことを感じる。今日はこういう日なのかもしれない。

里芋は茹でてから手で剥くことで対処し、人参はもう皮を剥かずに使うことにして、ようやく芋煮を作ることができた。できた芋煮は美味しい。でも途中で食べるのをやめ、今この文章を書いている。私にとっての芋煮は、ねぎとろのようなお守りではなかったみたいだ。

こういうときにこそ、音楽を頼るべきなのかもしれないと思う。YouTubeのミックスリストを適当に流してみる。流れてきたきのこ帝国の『春と修羅』、あるいはHommヨの『ライカ』に心が落ち着く自分がいる。ようやく世界が少し自分に馴染んでくる。ホッとする。生きていけると思った。芋煮を食べよう。そして寝よう。

今年に入ってからというもの、まとまりのない文章ばかりが増えている。去年まではどちらかというと何かひとつのテーマに対して文章を書いたものが多かったのだけれど、最近は何もテーマが思い浮かばない。ひとつこれというものについて語りたい意欲が薄れたというか、枯渇してしまったというか。とはいえ何かを書きたい欲求が薄まったわけではなく、むしろ増している。だから最近はずっと、よくわからない日記のようなものになっている。

まとまりを持たせた綺麗な文章を作るのは、どこか今の私を削ぎ落としてしまうところがある。良くも悪くも私そのままではなく、よそ行きの私がそこにはある。それが適切な場合もあるだろうし、今だってむしろその方がいいのかもしれないとは思うが、今の私はぐっちゃぐちゃのままの私を出してしまいたいと思っている。

ありのままの自分を曝け出したい、受け入れられたいという身勝手な欲求からくるもの?

ーー否定はできない。でも、そうだと言ってしまうのもまた違う。なんというか、もうどうしようもなくまとまらないんですよね。本当は綺麗にまとめたい気持ちもある。できることなら綺麗な文章を書きたいし、伝えたいことをちゃんと伝えたい。ぐっちゃぐちゃで書いている本人もよくわからないようなものなんて、って思ってしまうし。

なのに、まとまる気配がない。日々の中で色々なことに感情が動いて、それらをすごく大事にしたいし、それらがどこかで有機的に結びついているような感覚もあるのだけれど、その結びつきを言葉にすることができない。もどかしい。だからせめて、その断片だけでも言葉にして残そうとして、こうやって何かを書いている。

後期の授業が始まった。その中で、「わからなさを抱えながらわからなさに居続けること」「答えを無理に出さないこと」が私たちには必要なのだというような話があった。今の私は練習の中でどちらかというと素直にそれができていたのだと思うが、それはここでわからないまま書くことを繰り返してきたのが大きいのだと思う。まとまらなくていい、よくわからなくていい、何かぼんやりとしたつながりがありそうだという感覚だけでいいと開き直って書いてきたことが、どこか実践として繋がったような気がして、それはなんだか嬉しかった。きっと、そういう訓練というかインプットを通して、体と心が自然とそのような方向に向かっていっていたのだと思う。そういえば、思考というか言葉が私は拡散的だという指摘(指摘でもないけど)ももらったが、それもそういうことなのかもしれないですね。

そもそも人間は誰しもそんなにまとまりがないというか、綺麗に言い表せるようなものではないのかもしれないと思う。色々な顔があるし、どこか矛盾したような思考や感情だってある。全ての行動の理由を説明できるわけでもない。心の中にある糸は絡まってぐっちゃぐちゃで、何がどこに繋がっているのかもわからない。それをほどいていくことがこれからの仕事なのかなと思いつつ、ほどけないままの存在を受け入れることも多分仕事。だからまあ、こんな私でもいいのかもしれないと思う。

日々の色々なことがちゃんと今の私の中に息づいていて、それが結果としていい方向に進ませてくれているのであれば、うまくまとまらなくても今はいいのかもしれない。そう思うと未来は少し明るくなってくる。多分大丈夫。

本当は、まとまらないよ〜って話を枕にしてこのあとにつらつらと日記のようなものを書こうと思っていたんだけど、いつの間にか長くなってしまったのでどうしようかな。まあいいか、一旦これで終わりにして。

9/29

BUMP OF CHICKENのライブを京セラドームで観てきました。

BUMPのライブは1年半ぶり。

BUMPの思い出についてはこの時書いたし、今回のライブの内容についてはツアー中なのであまり書くべきじゃないんだろうなと思うと、何も書けないってなっちゃう。でも何も書かないのも違うと思うので、最後の方に書いておきます。ネタバレになるので行く人は読まないでくださいね。

とりあえず、めちゃくちゃ楽しかったです!絶対にまた行くし、なんていうんでしょう、それが彼らとの約束だと思うから。

終演時間が読めなくて、間に合うかわからなかったのでバスで帰るのは諦め、フェリーで帰ることにした。18時開演で終わったのは20時半ごろだったから実際には間に合ったと思う。規制退場だったので時間はかかったけど。梅田で適当に晩飯を食べ、三宮から神戸港へ。フェリーは出港が1時、乗船開始は0時半過ぎ。港に着いたのは23時で、ボーッとスマホをいじって待っていた。本を読む気分ではなかったみたいだ。あとこれは別にどうでもいい話なんですけど、財布の中が新札と新500円玉と100円に満たない小銭だけになってしまい、神戸港の自販機でほぼ何も買えませんでした。今、新札よりも旧札の方が価値が高い。

乗船後、疲れているはずだからすぐにでも寝れると思ったけれど、どうにも眠れなかった。腹が痛かったり、隣のいびきが気になったり。そういう日だった。

深夜2時。眠れなくて、売店に行ってうどんを食べた。船内のうどんが内地のそれよりも美味しい理由はないから、あまり期待はしていなかった。が、それはとても美味しかった。前日に食べた何よりも美味しかった。

食べていて、なんだか泣きそうだなと思った。しかし泣きそうだ、なんて俯瞰的に思えてしまうと実際に泣くことは大抵の場合なく、このときも泣くことはなかった。泣いてしまうときはそんなことを思う余裕もなく、つーっと流れるか、あるいは爆発するかのように溢れてくるものなのだと思う。で、どちらでもなかったということです。

こんなに感傷的になったのは船、深夜という状況のせいだとは思う。客観的にはやはり陸で食べる名店のうどんの方が流石に美味しいと思うが、とはいえそういった店では味わうことのできない何かがあったのもまた私にとっての真実で。

朝5時過ぎにフェリーは高松に着き、始発までの時間でバカ一代でうどんを食べた。やはり、流石にうどんとしてはこちらの方が上質だと思った。ちゃんと美味しかった。でも、それはただのうどんだった。

あれはなんだったんだろうって一日経った今も思う。なんだかライブの余韻と繋がっているような、そうでないような、そんなぼんやりとした意識の中で私は生きている。

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9/23

この日は瓦町のfesthalleで羊文学のライブ。去年のクリスマスライブ以来で3回目。

前行った時に書いたのはこれ。

今までだったらライブの感想で一つの記事にしていたんだけど、最近はそこまで頑張って書く気力が湧かなくて、簡単に書いて済ませてしまおうとしている。なんというか、何回か行っているアーティストのライブだと改めて書くようなことがそんなにないんですよね。特別好きな曲は相変わらず好きで、それ以上に言うことがあまりないし。

とはいえ、とても楽しかったので書き残しておきます。

・整理番号が一桁だったので、即入場して最前ど真ん中!今の羊文学をこんな特等席で見れるのはなかなかないことで、すごく幸運なことだった。

・アルバムツアーではないので、最新アルバム『12 hugs』からだけでなく過去のアルバムからも満遍なく披露されていた。特に『our hope』からは5曲だったのだけれど、改めて聴くとめちゃくちゃいいなって思った。リリース当時にはあまり刺さっていなかったんだけど。

・「深呼吸」は変わらずいいっすねぇ。塩塚さんがすごく楽しそうにリズムに乗っていたのが印象的。

・「tears」は初めて聴いた時はそこまでだったんだけど、ライブで改めて聴いてすごくいいなと思った。

・「あいまいでいいよ」からの「永遠のブルー」であったり、「Burning」からの「OOPARTS」そして「more than words」という畳み掛けが最高。本当に目の前で塩塚さんが歌ったり煽ったり、あるいは河西さんと歪んだ音を奏でたりというのが見れてすごく贅沢な時間だったなと思う。あとやっぱり「OOPARTS」は本当に良い。ずっとヘドバンしてた。

・サポートドラムのユナさんはHomecomingsでもサポートに入っていて、そちらで2回ほど見ている。Homecomingsの時とはまた少し違った印象があった。どういえばいいのかはわからないのだけれど。

・MCは相変わらず激ゆる。仏生山温泉が大好きらしく、わかるわーってなってた。「香川でライブやるたびに仏生山温泉のタオルが増えていくのが楽しみ」って塩塚さんが言ってた。

・総じてめちゃくちゃ楽しかった!最高!多分また見に行きます。

9/24

夕方。帰宅しようと自転車を漕いでいたとき、通りがかった家の軒先に座っていたおじさんが、こちらに向かってニコニコと手を振ってきた。通学路なので、その人が同じように軒先でのんびりしているのを見かけたことは何回かあった。とはいえ知らない人。家の近所というわけでもないので人違いかとも思ったが、それにしてはやけにずっとニコニコしているし、手も振り続けている。私はぺこりと頭を下げ、そのまま漕ぐ足を緩めることなく通り過ぎていった。

多分、現実的には人違いなのだと思う。本当に知らない人だし、どこかで関わりがあった人だという感じもない。誰かと見間違えて手を振って、間違ったことに気づいたけどそれでスッとやめるのは気まずいからとずっとニコニコしてくれていたのかもしれない。

でも、ほんの少しの可能性として、その人は私のことを何回か見かけてくれていて、それで「毎日頑張っとるな」くらいの、そういう何か暖かな心で手を振ってくれていたのかもしれない、なんてことを思う。あるいは、スーツ姿で自転車を漕ぐ姿に何かを感じ取って、それで思わず手を振ってくれたのかも。

いずれにせよ、その手は私に向けられたもので、そう受け取る方が自然なものだと、その時の私は直感的に思ってしまった。なぜなのかは本当にわからない。でも、きっとそういうものなんだと思う。

なんだか嬉しくなっちゃった。頑張らなきゃ。


秋。過ごしやすい気温になってきて私は嬉しい。長くは続かないのだろうと思いつつ、束の間の楽園を楽しく過ごしている。去年までなら秋の訪れには寂しさを強く感じていたのだけれど、まだ夏が残っているからかもしれないが今年は今のところあまり感じていない。

あの寂しさはどこに行ったのだろう。なんとなく、寂しさがくることをこうして忘れていると、いきなり何かを突きつけられてしまうような冬の冷たさがやってくるような気がして、それが少し怖い。そのことに目を向けたくないから、こうして寂しさを感じないようにしているのかもしれない。その時がやってきた時後悔してしまうことも、わかっているはずなのにね。

それはそれとして、平穏に過ごせる秋が今まであまりなかったということなのかもしれない。だとしたらまあありがたく受け取っておきましょうか。

喘息気味の夜が続く。外にいる昼間はそんなにでもないのだけれど、夜に家にいるとずっと苦しい。換気をすると少しはマシになるから、多分部屋の空気が悪いんだと思う。ちゃんと掃除をしなきゃと思いつつ、何もしないからただ苦しさが続いている。逃げ出したい。しんどい。何もしたくない。

呼吸器系の変調はもう三週間ほど続いていることになる。声帯の腫れ、咳、喘息。身体の弱さを実感し、もう何度目かわからない不適応感を味わっている。毎年のように季節の変わり目に体調を崩す。本当に学習しない。いい加減にしてくれ。もっと楽に生きたいのに、どうしてこうも苦しまないといけないんだ。

自分が悪いのはわかっている。綺麗な部屋を保ち、ちゃんと病院に行って検査をして薬をもらい、生活を整えられればここまで苦しまなくて済んでいるんだろうな、ということは想像がつく。それができない自分が悪い。でもまあ、それができないのも私なんだよな、と開き直ってしまう自分もいる。開き直るくせに苦しさを呪うのだからタチが悪い。けれどまあ、それが人間なんだろうなと思う。

薬が効いてきたようで、息がしやすくなってきた。生きるってこんなに楽なことだったんだ。ありがたい。これでもう寝れるような気がする。

自分を大切にして生きるってこと、忘れないようにしているし、人にも言ったりするんだけど、でもやっぱり忘れてしまう日々がある。自分のわがままを聞くってことではなく、もっと慈しみを持った目で自分を見てあげる必要があるんだと思う。母性的な愛、父性的な愛。もっと大事にしてあげなきゃなぁ。