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高木侃『三くだり半と縁切寺』を再読。

三くだり半と縁切寺: 江戸の離婚を読みなおす (読みなおす日本史)

内容は紹介文の通り、

近世女性の立場の弱さを示すといわれた、三行半で書かれた離縁状三くだり半。しかし、実際は女性も対等な立場で、離縁を要求できた。女性唯一のアジールとされた縁切寺の実像と併せて、近世女性の地位を問い直す。

というもの。

「夫専権離婚」という江戸期のイメージを問い直した良書である。
以下、特に面白かったところだけ。*1

武士と離婚

武士の結婚において、夫の家格よりも妻の家格の方が高いのは、一般的にみられる傾向であった(20頁)。
次男三男は、いわば「厄介」であって、いわゆる冷や飯で結婚することは、事実上不可能だった。*2
武士の間では、極めて離婚及び再婚が多かった(21頁)。[*3](#f-a7e86334 "縄田康光「歴史的に見た日本の人口と家族」には次のようにある(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1003948 註番号を削除して引用を行った。)。

江戸時代の離婚率については、前記の陸奥国下守屋村と仁井田村を例にとると、その平均普通離婚率は 4.8に達している。これは現代の米国を上回る高水準である。また、武家の離婚率も高かったと推測される。また江戸時代は、配偶者との死別に伴う再婚も多かった。夫婦が一生寄り添うという家族のイメージは、離婚率が低下し、平均寿命が延びた明治以降に形成されたものと言えよう。

")
妻の多くは、夫の家格よりも高い。そのため、実家を後ろ盾にして家庭内で夫に対して、優位を保っていた。

近世の女性の社会的地位

武士以外の庶民の場合も、当時の妻たちは、夫の家から結構飛び出している(30頁)。

というのも、その労働力が期待され、すぐに受け皿として、再婚先があったからである。
鬼頭宏の研究によると、庶民の離婚率は高く、男子では45歳以前、女子では30歳以前に、離婚死別した場合、8割以上が再婚している。
そもそも、当時庶民、特に農家の家族では、妻も夫と働かざるを得なかったのである(専業主婦など無理だった) (40頁)。
女性の地位はその労働力ゆえに、必ずしも低かったわけではないのである(もちろん、平等というのではない)。
少なくとも江戸後期の離婚は、「夫の専権離婚」と把握することは難しい、というのが著者の意見である(83頁)。 *4

寺以外にも

武家屋敷、寺院、町村役人宅など。いずれも、夫の手に負えぬ所として事実上、妻の駆け込みを受け入れ、離婚を達成してくれた(189頁)。
縁切りは寺だけではなかったのである。[*5](#f-a4c59b3c "村上一博は次のように述べている(「離縁関係文書三題」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001441712 )。

江戸時代において,幕府権力を背景に,寺法にもとつく強制離縁が公許されていたのは,上州徳川郷の満徳寺と鎌倉松ケ岡の東慶寺のニケ寺にすぎなかった。しかし,幕府公認の縁切寺以外にも,夫に対して離縁状を事実上強制しえた場所があった。すなわち,武家屋敷・陣屋・神職・寺院(修験を含む)・町村役人宅などの所謂「権門勢家」=「夫の手に負えぬ所」への駆込みが,地方によっては容認されていたことが知られている

")

実際の離婚事情

当時は法律上、密通したら死罪である。
だが、江戸の刑罰は見せしめとしての側面があった(234頁)。
建前としての法規を厳格に試行することは、躊躇われたのである。[*6](#f-3d272e8b "谷正之は次のように書いている(「弁護士の誕生とその背景(1)江戸時代の法制と公事師」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007577480 *註番号を除いて引用を行った。)。

夫が密通した男だけを成敗したときは,妻は公刑として死罪となった。密通した男が逃亡したときは,妻の処分は,夫の心次第ということであった。夫の姦夫姦婦成敗は,明治時代になっても,なんと明治41年に新刑法が施行されるまで存続したのである。このような成敗をしないで,内済で密通した男が夫に対し賠償し,妻を離婚することもできた。賠償額は,7両2分が相場だった。

参照されているのは、石井良助と平松義郎の著書である。)")
密通があったとしても、これを曲げて、口書には、事実を明記しないということがよくあった。
内済の時に証文に、「夫の疑いが晴れた」という文言さえ書かせればよかった。
この文言さえあれば、奉行所では、事実を問題とせず内済を許可できた。
そこで、密通の事実がなかったことにして解決を図ったのである(235頁)。
心中未遂の場合も同様である。
心中という行為自体を隠す。
酩酊のためとか、口論で逆上して相手を傷つけ、申し訳ないので自害しようとしたが未遂、と供述させる。
これを口書(供述記録)にした。
軽度の場合は、治療代で済んだという。

江戸は契約社会

江戸期は、親子等の親族関係にあっても、約束事は契約証書によって履行を確保した(249頁)。

契約社会だったのである。[*7](#f-407bc3b1 "著者高木は、江戸期庶民の契約に対する意識について、別の論文で次のように指摘をしている(「契約書式の戯文--徳川時代庶民契約意識の一斑」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793393 )。

この戯文は上層庶民の「衒学的な遊び心の極致」・「江戸人の洒落心」といえる。しかも戯文の対象とされたものが日常的な契約文書だったことは、同時に庶民意識のなかに契約文書が日常的なものであったことの証左ともなる

 神保文夫も、隼田嘉彦の研究とともに、高木論文(「契約書式の戯文」)を先行研究とし、「庶民意識のなかに契約文書が日常的なものであった」点について比較的肯定的に論を進めている(神保文夫「近世法律文書の戯文」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224652447488 )。  江戸時代の社会が、将来の紛争回避のために、実の親子の間で老後の扶養に関する契約が結ばれるような契約社会だった点については、例えば、著者の「江戸の親子契約」(https://www.jalha.org/bunken/bk1996_j.htm )等を参照。高木によると、こうした契約は実効性が十分あったようである(当該論文14頁)。  以上、この註について、2024/10/7に加筆を行った。")

(未完)

青柳いづみこ『音楽と文学の対位法』を久々に読んだ。

音楽と文学の対位法 (中公文庫)

内容は紹介文の通り、

生誕200年のショパンシューマン…。モノ書きピアニストが、6人の大作曲家と同時代の文学に光を当てる。

というもの。

音楽と文学、どちらかにでも興味があれば、面白く読めるはずである。
以下、特に面白かったところだけ。*1

ハムレットと道化

ユゴーは、シュレーゲル(ドイツ)の影響を受けて、シェイクスピアの演劇を「崇高なものとグロテスクなもの、恐るべきものとふざけたもの、悲劇と喜劇との結合」と称賛している(『クロムウェル序文』) (本書13頁)。

シェイクスピアは、このロマン派の総帥(?)にも、高い評価を受けていたのである。[*2](#f-5df9b243 "永盛克也は、次のように書いている(「シェイクスピアとフランス・ロマン主義」https://researchmap.jp/read0093395/published_papers/19600957 )。

『クロムウェル序文』においてシェイクスピアを自らの理論の体現者と位置付けたユゴーは、後年、亡命中に何をするつもりかと息子 Francois-VictorHugo (1828-1873) に問われて「大海原を眺めるつもりだ」と答えた。お前は何をするつもりだと問い返された息子は「シェイクスピアを訳すつもりだ」と答えたという。息子は 12年をかけて全集(1859-65 年出版)を完成させた─これは 20 世紀においても読まれ続けた版である。父親はこの全集に長大な解説文を寄せて、改めてシェイクスピアへの賛嘆の念を表した。「大海原のような人間がこの世にはいる。この無限にして、測り知れないもの、それらがすべて一つの精神に宿ることがある。その精神を天才と呼ぶのである。」

重いほどの愛である。")
ちなみに、ハムレットマラルメやラフォルグによって道化と同一視された(同頁)が、滑稽な道化ピエロは、ユイスマンスヴェルレーヌによって死神の化身とされた存在でもある[*3](#f-8ea58891 " ユイスマンスの『懐疑的なピエロ』について、大野英士は次のように指摘している(「ユイスマンスとマラルメにみる超越と内在--『ユイスマンスとオカルティズム』発刊によせて」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007699833 )。

「懐疑的な」ピエロは,およそ人間的な感情を欠いた怪物である。若い娘シドニーを部屋に連れ込み,強姦しようとしたあげく,彼女が抵抗すると,生きたまま焼き殺すのだ。そしてこの残酷な行いをしている間もへらへらした高笑いをやめない。

")ので、べつに不思議なことではない。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の特異性

モーツァルトは、<ドン・ジョヴァンニ>において、善悪どちらの人物の心に入り込み、きめ細かく感情を演出する。

そのため、観る側は一つの歌劇の中で、相反する様々な感情を体験する(21頁)。
(彼の音楽自体が、そうした相反する要素を体験させるものになっていることは言うまでもない。)
ドン・ジョヴァンニ>のフィナーレ、ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちると、一転して音楽が明るいト長調になり、登場人物(ドン・ジョヴァンニ除く)たちが全員出てきて、喜びの六重唱をする。

これだと、観ている側は、ドン・ジョヴァンニに同情すればいいのか、他の人物たちと一緒に喜べばいいのか、わからなくなる(22頁)。

困惑を防ぐためか、最後の六重唱は、ドラマの悲劇を壊すとしてロマン派の時代にはカットされた(23頁)。
女遍歴の過程で殺人までしたドン・ジョヴァンニに、己の分身を見出したバイロンやミュッセやボードレールなどは、最後の場面を「不謹慎」と考えた。

例えば、ゴーティエは、ドン・ジョヴァンニは地獄ではなく天国に行くのだと主張している(24、25頁)。

このドン・ジョヴァンニのラストについて、最後をハッピーエンドにするのは、ドン・ファン伝説を初めて演劇にした17世紀スペインのティルソ・デ・モリーナの台本からそうだったのである。
17、18世紀のコメディア・デラルテの台本も、おなじである。
ここに、モーツァルト(あるいはロココの時代)の特異性がある。*4

ショパンブルジョア

ショパンは手紙の中で、「僕はカルリストを愛する。フィリピストは我慢ならない。でも僕自身は革命主義者だ」と書いている。

カルリストとは七月革命で打倒されたシャルル十世の時代を懐かしむ貴族たち。
フィリピストはルイ・フィリップ体制支持派である。
別の手紙でも、ルイ・フィリップショパンはろくでなしと評し、ルイ・フィリップを擁立した新興ブルジョアを好まないと述べている。
しかし、彼をサロンに招き、援助の手を差し伸べたのは、まさに新興ブルジョア階級であった。[*5](#f-4ba5d3a3 "平林正司は次のように書いている(「ショパンのヴァルス--ワルシャワからパリへ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000801763 )。

フランツ・リストFranz Liszt と異なり,ルイ・フィリップLouis-Philippe の宮殿で御前演奏をするのを躊躇しなかったばかりか,一八四八年には二月革命を嫌悪した。ルイ・フィリップの廷臣,A・ド・ペルチュイ伯爵le Comte A. de Perthuis は当初から彼のもっとも有力な庇護者の一人であった。

")
一方、ショパン自身は参加していないが、友人たちが加わったワルシャワ蜂起への共感を彼は示している。

ピアノの詩人は感情的

ポーランド時代のショパンの手紙は、ダジャレが多かったらしい。
また、モノマネの天才でもあった(118頁)。
ワルシャワ時代、アマチュア劇団で演じた経験もありる。
顔立ちまで変貌して、まるで別人になってしまったという。
ジョルジュ・サンドの証言によれば、おセンチで滑稽なイギリス娘から、強欲なユダヤ人まで、さまざまな形態模写をして見せたという。*6
器用である。
また、弟子の一人は、ある生徒がテキストを勝手に変えて弾くと、ショパンが怒って目の前で椅子を壊すのを見た、と証言している(120頁)。
演奏の細かい部分をなおざりにしたり、耳触りな間違った音で弾く生徒にいら立ち、髪の毛をかきむしり、鉛筆を粉砕して敷物にまき散らしたりする場面を目撃した弟子もいたという。
ピアノの詩人は実に感情的である。

(未完)

月脚達彦『福沢諭吉の朝鮮』を再読。

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

内容は紹介文の通り、

福沢諭吉朝鮮侵略論者か、独立の支援者か――。「絶えざる転向」により多くの解釈を生むことになった福沢のアジア論。本書では、福沢と朝鮮で開化派と呼ばれた人々との関係と、『時事新報』の社説・論説を軸に、日朝清関係史のなかでそれを読み解いていく。そこに見えてきたのは、福沢のアジア論に貫徹する思想であり、「リベラルな帝国主義者」という19世紀的な立場が挫折してゆく過程であった。

というもの。

福沢諭吉の対外(アジア)観を考えるうえで、読まれるべき本である。(ただし、本稿では福沢についてはあまり取り上げないことにする。)
以下、特に面白かったところだけ。

元田永孚の東アジア平和構想

元田のような儒教主義者が明治政府の中心となり、朝鮮政府の対外関係担当と連携したとするなら、日本は日清戦争を回避することが可能だっただろう。 (245頁)

元田永孚は、中華世界の秩序を尊重する儒家でもあり、朝鮮が宗主国の真に扶助されるのは当然と考えていた。
こうした考えは、金允植ら朝鮮側の官僚も、日清戦争前は同じ考えであった。
ただし、元田の議論は、アジアの改革勢力と連携してアジアの変革を図り、日本の変革を図る、というような改革的「アジア主義」ではなかった。
あくまでも、非改革的な儒家としての東アジア「平和」論を説いたのである。[*1](#f-46541969 "上田浩史は、元田の保守(非革新・非改革)的な政治思想について、次のように述べている(「元田永孚の思想形成と儒教的教学思想」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006414853 )。

安定した社会とはどのような社会として捉えられていたであろうか。それは、物理的な対立がなく、精神的にも動揺のない平穏で平和な社会であると元田には映ったであろう。そして、その理想的社会モデルは、上古に存在した世界であった。文明開化期社会の裏面に刻印された暗殺の嵐をその眼で見てきた元田にあっては、明治10年代前後の反政府運動の武力蜂起、衝突、言論による自由民権運動の政府批判という歴史的過程は、安定した社会と対極にある。動乱の社会から安定した社会へ導くことこそ、元田が最も心を配った現実的な解決課題であった。その解答が、儒教という伝統思想の活用による君主育成と国民教育への着眼であった。

こうした元田の内政に対する思想と外交に対する思想とは、繋がっているのである。") *2

元田的東アジア平和論の限界

元田の主張も、朝鮮側から受け入れられるものではなくなったのである (252頁)

元田は、各国の輿論公認によって朝鮮の独立を達成しようとした。

彼の狙いは、朝鮮をめぐる日清の葛藤は西洋諸国(*ロシアが念頭にある)のアジア侵略を防ぐうえで得策ではない、という動機に基づいていた。

しかし朝鮮側(国王・高宗)は、壬午軍乱後の清朝の宗主権強化と、朝鮮半島での日清の角逐とを嫌ったために、日本でも清朝でもなく、ロシアの保護を受ける考えに傾いていく。*3

元田の考えは、必ずしも、朝鮮側の思惑にはそぐうものではなかったのである。

「リベラルな帝国主義」の敗北

福沢はリベラルの立場から成立期の日本の帝国主義を先導していったと位置づけられよう (271頁)

福沢が朝鮮に主張する利益とは貿易上の利益という「自由貿易帝国主義」的なものであった。[*4](#f-a3b0fcbe "「自由貿易帝国主義」は、大英帝国史研究において用いられた語であるが、松村高夫は、1992年の書評で、次のように指摘をしている(「竹内幸雄著 イギリス自由貿易帝国主義」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005430305 )。

著者は欧米では次第に自由貿易帝国主義論に懐疑的になっている傾向があるのにたいし, 日本の学界では依然としてそのテーゼを無批判的に受容していると指摘する。

そして、ギャラハー及びロビンソンの唱える自由貿易帝国主義論にたいする批判のひとつは、西アフリカ分割史をめぐってのものであり、この点、竹内著の主張を松村は肯定している。")
しかし、そうした「リベラルな帝国主義」も、福沢の死後、日本政府が同化主義的支配政策を施行することで、最終的に敗北することとなるのである。

(未完)

永井荷風『摘録断腸亭日乗 下』を読んだ(再読)。

摘録 断腸亭日乗〈下〉 (岩波文庫)

内容は、紹介文の通り、

読む者を捕えてはなさぬ荷風日記の魅力を「あとを引く」面白さとでもいおうか。そういう日記の、ではどのあたりが最も精彩に富むかといえば、その1つとして戦中の記事をあげねばなるまい。なかでも昭和20年3月10日の東京大空襲にはじまる5カ月間の罹災記事は圧巻である。昭和12‐34年を収録

というもの。*1

下巻も読んだが面白い。

以下、特に面白かったところだけ。*2

支那朝鮮に進出することを好まざるは

余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜西亜洲の他邦人に及すことを恐るるが故なり。 (107頁)

昭和15年10月18日のくだりである。
オーストリア人と日本人の間にできた子供が、日本の学堂と交わるようになり、我が家(荷風宅)の門前で、「玉投」をするようになった。[*3](#f-ccfb65ee " 野球と荷風の関係について、『墨東綺譚』(墨の字は正確には、https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BF%B9 である。)の「作後贅言」には、次のような一文が見える。

そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰ひそめたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。

(引用部は青空文庫に依拠した。https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/card52016.html )。荷風は、野球を愛好する人ではなかったのである。")

結果、その子は、行儀がとても悪くなった。

日本人の教育を受けると皆野卑粗暴となるのは、この実例でも明らかである、と荷風はいう。

「圏」という字の流行

今まで見馴れぬ漢字を使ひたがるは如何なる心にや。 (146頁)

昭和16年7月15日のくだりである。

この頃共栄圏といい、仏教圏というような「圏」の字が流行していると。*4

流行現象としてのミソギ

近年紳士学生らのミソギ女給事務員の参禅の如き皆阿世の行為にして具眼者の屑よしとなさざる所なるべし。 (163頁)

昭和17年1月初六日のくだりである。
上記の「屑よし」は、ここでは、「いさぎよし」と読む。
東京には昔から「寒参」なるものがあったが、近年衰え、軍人執政の世にはミソギなるものが流行り始めた。[*5](#f-4d6a4690 "なお、「世界大百科事典 第2版」にあるとおり、ミソギは、

古代中国では,《後漢書》礼儀志や《晋書》礼志にみえるように,〈春禊〉と〈秋禊〉とがあって,陰暦3月3日(古くは上巳)と7月14日に官民こぞって東方の流水に浴して〈宿垢〉を去ったという

というように、日本固有のものではない(https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8A-138728 )。")
だが、寒中の水浴が精神修養に効果があるなら、夏日暖炉に面して熱湯を呑むのも同じ効果があろう、と荷風は皮肉る。
そもそも、精神修養というのは、日常坐臥の間絶えず試みて平成の習慣とならないと功はないだろう、とも。

俄に「疎開」という語を作って

市中到所疎開空襲必至の張札を見る。 (228頁)

昭和19年4月10日のくだりである。
一昨年(昭和17年)四月には敵機襲来の後、市外へ転居する者を見れば、卑怯、非国民と罵っていたが、18年冬頃から、俄に「疎開」という語を作って民家離散取り払いを迫る。
朝令暮改笑ふべきなり」。
荷風は、「疎開」を新奇な言葉として受け取ったのである。*6

(未完)

永井陽之助『冷戦の起源 Ⅰ』(中公クラシックス)を読んだ。*1

冷戦の起源I (中公クラシックス)

内容は紹介文の通り、

戦後東アジアの国際環境を規定した冷戦。だれが、どのような要因から、かくあらしめたのか―。日本が再生したアジアの状況。

というもの。

そのまんまである。
内容としては、しかし、古びないものを持っている。*2

以下、特に面白かったところだけ。*3

マッカーサーの記憶

後年、マッカーサー元帥がヤルタ会談のことに言及し、戦争末期におけるソ連参戦に強く反対意見を述べていた旨、証言しているが、 (引用者略) 当時(一九四五年二月十三日)、 (引用者略) 「ソ連軍があらかじめ満州での作戦行動を開始しないかぎり、日本本土に侵攻すべきではない」と証言していたのである。 (75頁)

証言や記憶は信頼しえない。
マッカーサーは都合のいい「記憶」を、恐らく非意図的に思い出したのだろう。[*4](#f-a0e39a6b "畠山圭一は次のように書いている(「日米戦争期における米軍部内の戦後対日政策論議に関する考察」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000082716 )。

むしろ、アメリカとしてはソ連に一刻も早く参戦するよう要求すべきであり、そうすれば逆にソ連は参戦できないと考えていた。例えば、1945年2月、マッカーサーは、ソ連が「満州、朝鮮、更に可能ならば華北の一部をも望んでおり、この領土獲得は避けられない。むしろアメリカはソ連に対して、できるだけ早く満州の日本軍を完全に釘付けにするよう応分の要求をすべきだ」と陸軍省の幕僚に語り、「もし、ソ連が東北アジアに 60個師団を投入すれば、アメリカ軍は一層容易に日本本土を攻略できる。だが、アメリカ軍による日本攻略は、ソ連がもっとも望まないことであり、スターリンは東北アジアでの戦闘を回避しようとするだろう」との見解を述べていた。

出典はhttps://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015002987595&view=1up&seq=61 であるようだ。")

原爆製造計画と惰性

形式上はトルーマン大統領に最後の決定権はあったが、事実上、既存の計画をくつがえさないという"不干渉の政策" (引用者略) つまり既成事実の追認にほかならなかった。 (引用者略) その巨大計画 (引用者注注:マンハッタン計画のこと) の存在自体が、戦争に使用される運命を決定づけていた (250頁)

一種の権力的「慣性」によって、原爆は投下されたことになる。[*5](#f-9680ce8a "藤岡惇は、次のように書いている。(「米国の核爆弾産業はいかに構築されたか」https://ci.nii.ac.jp/naid/40003736941 )

秘密施設では軍隊的な上位下達の世界が支配し,働く者でさえ,計画の全体像を知ることができなかった。副大統領トルーマンも,蚊帳のそとに置かれ,ルーズベルト急死によって大統領となる際に,原爆開発が進んでいることを知らされたほどである 。

もちろん、このことは、知った後のトルーマンの指示を正当化するものとは言えない。")

著者は、修正主義にも、正統史観にも、与していない。
あくまでも、主眼は、「冷戦思想の疫学的起源」がアメリカに伏在していることを論じることである。

良心はマヒしていた

すでに、カーチス・E・ルメーの東京の絨毯爆撃で、一度に一二万五〇〇〇人の市民が焼き殺されており、残虐な近代戦の物理的荒廃は、広島・長崎以前に人間の良心と道徳的感受性を完全に麻痺させていた。 (251頁)

原爆以前にすでにアメリカは、良心がマヒしていたというのが、著者の主張である。*6

アメリカ的な「工学的戦争観」

何故に、コミュニズムイデオロギーをもつ革命国家たるソ連の方が伝統的な現実主義外交の型にしたがって比較的限定された戦略目的を追求し、慎重に行動したと見られるのに対して、アメリカの方がグローバルな使命感に燃えたつ「イデオロギー国家」であるかのような振舞いに終始したか、そして、何故にヨーロッパとは異なり、アジアにおいて、朝鮮戦争からヴェトナム戦争にいたるまで、熱戦段階への拡大をともなったか (49頁)

戦争は他にとるべき手段のない、やむをえざる場合にのみ正当化しうる手段と見做されるがゆえに、ひとたび敵の挑発で戦争にまきこまれたと信じるや、あらゆる道徳的政治的制約を無視して、すべての手段が邪悪なる敵に対して許されると考えがちとなる。戦争は、「よりよい平和」をつくる政策手段ではなく、邪悪なる敵に対する完全勝利のみが自己目的となる。犠牲を極小化し、対日戦を迅速に終結させるためには、ソ連の参戦も大量無差別爆撃も原爆投下もいとわないという発想のなかに、アメリカ的な「工学的戦争観」の非政治性を読みとることができるであろう。 (254頁)

「ひとたび敵の挑発で戦争にまきこまれたと信じるや」のあたりは、9・11以後のアメリカの姿勢にも似ている。[*7](#f-a3deda00 "福田毅は、永井の論に関連して次のように述べている(「米国流の戦争方法と対反乱(COIN)作戦--イラク戦争後の米陸軍ドクトリンをめぐる論争とその背景」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999575 *註番号を削除して引用を行った。)。

永井陽之助の指摘する「最小のコスト……で、最も能率よく、迅速かつ完全に敵を破壊する」という「一種の効率万能の工学的戦争観」が生まれるのである。/このような見解は、米国流の戦争方法を分析した多くの研究者が共有している。この分野の先駆者である R. ウェイグリーは、建国以来の米軍の歴史を検討した上で、米国は常に低コストで「敵の軍隊を破壊し、敵を完璧に打倒する」ことを目指してきたと指摘する。

なお、こうした永井の考え方は、既に1950年代に見ることができる。以下、酒井哲哉「永井陽之助と戦後政治学」から引用する(https://ci.nii.ac.jp/naid/130005096413 )。

永井の科学主義批判は社会工学的政治観批判へと発展していった。政治問題は「困難」(difficulties)であって、「パズル」(puzzles)ではない。政治問題をパズルと見る考えは政治とエンジニアリングを同一視し、唯一の正解があるという謬見に導く。絶えず発生する政治的困難に対処するものは経験的叡智に基づくステーツマンシップしかない 。永井はモーゲンソー『政治のディレンマ』を援用しながら、政治的叡智にかえて科学主義・モラリズム・完全主義に逃避する「ユートピア的社会工学」を組織人の陥りがちな思考様式として痛烈に批判している。

")

「大審問官」と原爆

『大審問官』に提示された問題 (引用者略) もし唯一人の子供を拷問して死に至らしめることで、全人類に永遠に完全な幸福が保証されるとしたら、この行為は道徳的に正当化しうるものであろうか (260頁)

ドワイト・マクドナルドは、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』に出てくる「大審問官」を例に出して、原爆はいかなる聖なる目的を持っても正当化できない手段だと述べる。[*8](#f-7c0c2b69 "ところで、木寺律子は、『大審問官』について次のように述べている(「ドストエフスキーの物語詩『大審問官』とプレスコットの歴史書」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020495153 )。

物語詩『大審問官』の時代や地理の曖昧さを考えると、作家ドストエフスキー自身がスペインの事情を知らなかったのではなく、ドストエフスキーは意図的に物語詩『大審問官』を歴史的史実から遠い曖昧なものにしたと考えられる。

設定はわざとぼかされていたというのである。")
なかなか、バーナード・ウィリアムズの問いのようである。*9

(未完)

林達夫林達夫評論集』を読んだ。(再読)

林達夫評論集 (岩波文庫 青 155-1)

内容は紹介文の通り、

歴史家として批評家としてまた編集者として,戦前・戦後を通じ,政治・思想・文化の動向につねに鋭い批判の矢を放ってきた林達夫.稀有なまでの自由な精神に支えられ,驚くほど多岐の領域にわたって展開するその著作すべてを貫く批評精神とは何なのか.ここに十八篇を精選して,林達夫の精神のスタイルを浮き彫りにする.

というもの。
久しぶりに読んだが、やはり林達夫は面白い。

以下、特に面白かったところだけ。

鶏を飼う林達夫

最も「不経済」だったはずの、わが横斑プリマス・ロックが、かくして機を見るに敏な種禽家や人工孵卵業者のカタログや広告文によると早くも「斯界の花形」として登場しているのだ。たった三か月前に、横斑ロックはおよしなさいと言われていたのに! (39頁)

「鶏を飼う」より。
エサが足りなくなると、贅沢なエサでないと生まない白色レグホーンではなく、粗飼料でも卵を産む鶏のほうが喜ばれるようになった。*1

そして述べる。

農林省の無能と三井、三菱、日産をはじめとする大飼料工場の専横」をきちんと批判できたのは、産業団体の機関誌であった、と。

著者(林)は、「気の抜けた印刷物に目を通すひまがあるなら、名もない産業団体の機関誌でも読む方が、日本の現実についてよほど深い認識が得られる」と述べるに至る。
けだし、これは今も変わらないことであろう。[*2](#f-0d65de06 "そんな林が鶏を飼っていた庭を訪れた人物もいる。以下、岡崎満義「<文壇こぼれ話⑩> 取れなかった原稿⑦ 林 達夫さん」(http://zenkanren.sakura.ne.jp/02toukoukikou/25zuisou/2530bundan10.html )より。

そこは50坪くらいあったろうか、庭というより畑だった。戦時中、軍部や警察からにらまれて、まともな執筆活動ができない時期に、林さんは園芸雑誌に「鶏を飼う」「作庭記」など、いわゆる“思想”的論文からはなれた文章を書いて糊口を凌いでいたのだが、そのおおもとがこの庭だった

")

手仕事の重要性

知性人とは原始的には職人であり栽培者であり飼養家であった。知性をその故郷に帰らせるということは、知性のmanoeuvre(操作)を職業としている人間にとっては一石二鳥の鎖閑法と言うべきであろう。
(34頁)

「鶏を飼う」より。
知性を担う者ほど、手仕事に帰る必要があるようだ。*3

盗んだ武器で戦う

ところが今日それはほとんど全部イタリアの評論家スペローニその他の完全な剽窃であることが明らかにされた。デュ・ベレーはイタリア語の擁護者がかつてその国の国語運動を遂行したときに用いた闘争武器をそっくりそのまま自国語の擁護のために盗んで来たのである。 (59頁)

「いわゆる剽窃」より。
デュ・ベレー『フランス語の擁護と顕揚』は、フランス語擁護の書であったが、その擁護法はいただいてきたものであった。[*4](#f-061774db "糟谷啓介は次のように書いている(「参照枠としてのイタリアの「言語問題」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006927240 )。

フランスの「プレイアード」派のマニフェストとして知られるジョワシャン・デュ=ベレーの『フランス語の擁護と顕揚』(1549)が、じつはイタリアの学者スペローネ・スペローニの『言語についての対話』(1542)を種本としているという事実がある。もっともこのことはすでに 20 世紀のはじめに、フランス文学史の研究者ピエール・ヴィレーが明らかにしていた (引用者中略) 当時のフランスにはイタリア語からの借用語が多く、デュ=ベルレーはフランス語のなかからそれらの借用語を追放することを目指したのである。したがって、デュ=ベルレーはイタリア輸入の理論を使って、イタリア語からの借用語を追い出そうとしたことになる。

")

学説所有権の擁護の叫びは、だからとりもなおさずこれらの学問泥坊に対する学者の生活権擁護の叫びにほかならないのだ。学問が社会の共有財産であらねばならぬのに、しかもこれをあくまでも神聖なる私有財産視しなければならぬのは、実にここにその根拠をもっているのである。 (引用者中略) かくて「剽窃」の問題も資本主義の存続する限り唾棄すべき財産的犯罪の問題として提起せられる一面を常に保持しつづけるであろう。 (62頁)

もちろん、「学問泥坊」は、資本家が学者の成果をはした金で買ってもうける行為を含むであろう。

遺制的気分の消極的承認

漠然とした遺制的気分の消極的承認にすぎないものを、それが触発されただけで、人は積極的な信仰告白と思い違いをしている。 (139頁)

「反語的精神」より。

ここで批判されているのは「天皇崇拝」のことである。*5

遺訓を片っぱしから破る

「皇祖皇宗の遺訓」を守ることにその最も中枢的な使命を見出すはずの天皇が、その遺訓を片っぱしから破り、国民にその遵守を命ずる詔勅があとからあとから前のものを覆してゆくことに、人はどう感じているのだろうか (引用者略) 紛れもない背信的行為であり、また背徳的行為でもあろう。 (142頁)

「反語的精神」より。
実際、明治天皇は、断髪をし、洋服(軍服)を着て、髭を生やし、牛乳を飲み、牛肉を食っている。[*6](#f-59dc7667 "児玉定子は、次の一文を引用している(「日本における食事様式の伝承と明治の断層 : 食生活の混乱のルーツと伝統的食事様式の再評価」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004727852 *註番号を削除して引用する。)。

「我が朝にしては中古以来肉食を禁ぜられしに, 恐れ多くも、天皇いわれなき儀に思召し,自今肉食を遊ばさるる旨宮にて御定めありたり」(新聞雑誌 明治5年1月)

以上、この項目について誤字を訂正した。2024/9/29")

物まねの名人としてのプラトン

アルベール・リヴォが書いている。「『プロタゴラス』『ゴルギアス』『饗宴』『パイドロス』には、プロタゴラス、ヒッピアス、リシアス、ゴルギアスからの長い章句の模倣が含まれていて、これらの著述家の文体が忠実に再現されている。 (引用者略) 彼はすべてを模倣した、語彙、リズム、文体の技巧、各人持ち前の癖。……プラトンは意表に出るほどの巧みさで、彼が舞台に上せたすべての人々の≪流儀で≫書いた。」 (154頁)

「『タイス』の饗宴」より。[*7](#f-457d8efc "なお、引用部のアルベール・リヴォ(Albert Rivaud)について、奥村功は次のように書いている(「西園寺公望のフランス語蔵書--(その2)陶庵文庫」https://ci.nii.ac.jp/naid/40003736944 )。

アルベール・リヴォ『ドイツの危機 1919-19311(1932)。著者 (1876-1956)はソルボンヌの哲学教授,政治学自由学院教授。ナチスとの関係は微妙で,のちにヴィシー政権の文部大臣に任命されるが,戦前に出版したドイツに関する著書のためにドイツ政府の反対を受け,すぐに任を解かれたという。

")
プラトンは真似の名人だったのである。

作家と剽窃

そして彼は剽窃を恥としない。……彼はシェークスピアモリエールのように仕事をする。この二人はいずれもこの上もなく独創的でありながら、見かけたところ一向に独創性なんかに構っていない (157頁)

「『タイス』の饗宴」より。
これも、先のアルベール・リヴォの本から孫引きとなる。
シェークスピア剽窃していたわけである。[*8](#f-4315baff "立川希代子は、ハイネのシェイクスピア擁護について、次のように書いている(「ハイネのシェイクスピア論--『シェイクスピア劇の女性たち』を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005990457 *註番号を削除して引用を行った。)。

「剽窃」への批判に対しては,『箴言と断章』で同じ論法で反論している。ホメロスがただひとりで『イーリアス』を創ったのではないのと同じことだと

ハイネは、ホメロスの作品は複数の詩人の手になるという説で以って、シェイクスピアの「剽窃」を擁護している。")

ほかにも、モリエールプラトンデカルト[*9](#f-e7abb59a "なお、デカルトは、他者(元弟子?)によって、剽窃されたと公言したことがある。持田辰郎「翻択 1642年1月,デカルトからレギウスに宛てられた書簡」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005757139 )から引用する(*註番号など、削除して引用を行った)。

レギウス(Regius: 1598―1679),本名アンリ・ル・ロワ(Henri le Roy)はユトレヒト大学の医学,植物学教授。1646年の『自然学の基礎(Fundamenta Physices)』出版以降,デカルトと袂を分かち,デカルトをしてその裏切りと剽窃を公言させ,また『掲示文書への覚書』を書かせることとなった掲示文書の主でもある

")らは、剽窃行為を行っており、しかも、そのことを堂々と認めているという。

(未完)

貴戸理恵『コミュニケーション能力がないと悩む前に』を読んだ(再読)。

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

内容は、紹介文の通り、

学校や就職、仕事など様々な場面で重視される「コミュニケーション能力」。しかし人と人の関係性や場に応じて変化するコミュニケーションを、個人の能力のように考えてよいのか。そこから現在の独特の「生きづらさ」も生まれてくるのではないか。自らの不登校体験もふまえ、問題を個人にも社会にも還元せずに丁寧に論じる

というもの。

表題にあるような悩みを抱えてしまっている人は必読の内容。

以下、特に面白かったところだけ。

過剰な社会性

「他者が思う自己」を自己説いて受け入れることで社会的存在になるならば、世間の若者バッシングを内面化して自責や戸惑いを感じる人びとは、その点で十分に「社会性」があるといえるでしょう。ただそのことは、 (引用者略) 「そんな自分を否定するだろう社会」への参加をますます遠ざけるのです。 (26頁)

「社会的」でありすぎることで、かえって、社会から撤退してしまうという現象が起こる。

社会性が不足しているのではなく、過剰なためにおこる悲劇である。*1

能力というより関係性

「私たち」は、「コミュニケーション能力」という言い方を採用することによって、逆に、「彼ら」とのコミュニケーションを途絶させてきたのかもしれません。「関係性」の問題であれば、改善の責任は「私たち」と「彼ら」の双方にあることになり、 (引用者略) 選択肢が生まれます。 (46頁)

「能力」というような呼び方は、コミュニケーションのあり方を個人的な性質に還元してしまう。[*2](#f-0a9ae50b "渡部麻美は、本書(貴戸著)と並んで、「平田(2012)は、“コミュニケーション力”を先天的な個人の資質と見なしたり、人格に関わる深刻なものと捉えたりすることに懐疑的な姿勢を示している」として、平田オリザの見解を紹介している(「大学生の"コミュニケーション力"に対する態度の探索的検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005744967 )。")
より重要なのは、「私たち」と「彼ら」の双方の相性、より正確に言えば、関係性である。

「関係的な生きづらさ」は、社会的要因論と自己責任論とのあいだにすっぽりと落ち込んでしまい、どちらの立場によせても、理解することが難しくなっています。 (39頁)

社会的要因論でも自己責任論でもない、どちらでもないような、そういった原因として関係的な生きづらさがある。

それは共同性の場を創出することが対策として挙げられている。
社会制度や政策への志向より、"べてる"や自助グループのような、共同体的な、自己と他者の関係の修復方法が、本書では提案されている。

こだわらない、選ばない

気づいたのは、私はべてると一〇年かかわるうちに、人を選ぶということにひどくいい加減な人間になってしまていた、ということだったのです。/かつての私は、どうでもよい些細な事柄でまわりの人間を峻別しては、嫌ったり嫌われたりして人間関係をこじらせてしまうのが得意でした。その私が「選ぶ」という行為を放棄してぼんやりしてしまっていたのです。それは無意識のうちに、人生でどんな人と出会うかは、じつは選べそうで選べないことだと思うようになった自分と出会うことでした。 (51頁)

これは、浦河で会社を経営し、「べてるの家」と関わった人物の言葉である。
べてるの家」は、当事者以外をも変容させたのである。*3

(未完)