第1117話 壇ノ浦の戦いの後も生き残った平頼盛 (original) (raw)

序文・源頼朝の恩返し

堀口尚次

平頼盛(よりもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫(しゅりだゆう)・藤原宗兼(むねかね)の女、宗子 池禅尼。通称は池殿、池大納言。**平清盛** の異母弟。清盛の男兄弟の中で「壇ノ浦の戦い」後も唯一生き残った人物である。

元暦2年、平氏一門は壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡する。一門の滅亡を頼盛がどのように思ったかは定かでないが、それから程なく源頼朝に出家の素懐(そかい)〈願い〉を申し送って了承を得ると、東大寺で出家して法名を重蓮と号した。後白河院播磨国備前国を院分国として、知行を頼盛に与えた。この措置は頼朝の要請によると見られ、頼盛は藤原実明を播磨守に推挙した。

平家物語』語り本系や『源平盛衰記』では、頼盛は一門の都落ちに同行しながら、頼朝の情けにすがり一門を見捨てた脱落者としての印象が強い。『平家物語』の古態とされる「延慶本」では、「行幸ニハヲクレヌ」とあり、宗盛らとは最初から別行動をとっている。『愚管抄』でも、頼盛都落ちを知らされていなかったと記されている。

さらに残留の理由についても、「延慶本」では頼盛が所有していた名刀「抜丸」の相伝を巡る宗盛との確執など、一門内での対立が原因とされる。『吉記』では「就中件卿、故入道相国之時度々雖有不快事」と記され、当時の記録を見る限りでは頼盛平氏一門を離脱したことを非難する声はなく、むしろ当然の行動と見られていたことがうかがえる。

平家物語』では平氏の滅亡が劇的に綴られたため、生き残った頼盛は離反者としての側面が強調された。『吾妻鏡』では頼盛の名が出る9例中、8例までが頼朝との関連で言及されているので、頼朝の恩情を語るための素材になっている感がある。このため、頼盛自身の心情をうかがい知ることはできず、実際の頼盛の姿を把握することは困難となっている。

頼盛には平氏一門、院近臣、親鎌倉派という複数の顔があり、どの陣営からもそれなりの厚遇を受けていた。しかし、その待遇には周りの者が頼盛に気を遣っていたためかどこか距離があり、頼盛はどの陣営にも居場所を得ることのできない異分子であり続けた。

私見】頼盛の母・池禅尼が、若き日の源頼朝を助けた事が大きかったと思う。