第1226話 昭和天皇を泣かせた牧野伸顕 (original) (raw)

序文・大久保利通の次男

堀口尚次

**牧野伸顕(あきあき)**〈文久元年昭和24年〉は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)。大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。

文久元年10月22日、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で「維新の三傑」の一人・大久保一蔵〈後の利通〉と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、慶応4年に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った。

明治4年、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年に帰国し開成学校〈後の東京帝国大学〉文学部和漢文学科に入学する。明治13年東京大学を中退して外務省に入省。ロンドンの日本大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文の知遇を得る。

伊藤博文は、人の長所をみて決して短所を見なかった。牧野の対人姿勢は伊藤に学んだ。相手の話をよく聞き、自分の意見と異なっていても、頭ごなしに否定せず、再考させた。三浦梧楼は牧野を石橋を叩いて渡らない人と評した。内大臣時代秘書官長として仕えた木戸幸一も、牧野は「非常に頭が柔軟であった、若いわれわれが話せるような空気がある」と評している。牧野には「保守」と「進歩」のアンビバレントな両面性があり、有馬頼(より)寧(やす)の同和問題への取り組みを評価したり、大川周明安岡正篤尊王家として評価したりしている。牧野は、皇室を護持していくうえで社会の変動を敏感に察知し、かつ、柔軟に対応する能力を身に着けていた。

大正14年内大臣に転じ、昭和10年まで在任した。牧野は常侍輔弼(ほひつ)という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった。牧野内大臣就任直後、同年4月9日伯爵に陞爵(しょうしゃく)する。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績による。牧野に対する天皇の信頼は厚く、15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた**昭和天皇**が涙を流したという逸話がある。