第1231話 「倫魁不羈」と称された水野勝成 (original) (raw)
序文・宮本武蔵とも縁あり
堀口尚次
**水野勝成は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河国刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後国福山藩初代藩主となる。幕末の館林藩士・岡谷繁実作成の名将言行録には「倫魁不羈(りんかいふき)**」〈余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない〉と称された。
天正12年の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高、本多康重らと木幡城に移り羽柴信吉を攻撃した。
この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇(いとま)乞(ご)いを申し出て馬に乗ると、そのまま信吉麾下(きか)の白江成定の陣に突入し一番首を取って、家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った。
宮本武蔵が大坂夏の陣に**水野勝成**〈三河刈谷3万石〉の客将としてその子・勝重〈水野勝俊〉付で出陣したのが縁となり、大坂の陣後に、水野の家臣である、中川志摩之助の子息、中川造酒之助〈宮本三木之助〉は、弟の九郎太郎と共に武蔵の養子となる。元和3年から4年ごろ、造酒之助は、武蔵の推挙により播州姫路城主・本多忠政の嫡男本多忠刻の小姓として出仕する。
福山藩の辻堂は江戸時代に備後福山藩〈広島県福山市〉を中心に旧街道沿いなどに広く整備された木造建築物。当初は、旅人の休憩場所として建てられたが、のちに地蔵や石仏が持ち込まれて信仰の場としての意味も持つとともに、地域住民の日常生活の催しの場としても活用されるようになった。巷説では、江戸時代に初代福山藩主・**水野勝成**の命令によって整備されたとされている。