『ソフィアの災難』(2.)クラリッセ・リスペクトル (original) (raw)

ソフィアの災難

これの続きです。

後半の14篇を読みました。

7/10(水)

カーニヴァルの残り物

8歳の頃のカーニヴァルの想い出を語る掌編
可哀想な少女。夢見がちなところが救いでもあるか。

8/1(木)

・家政婦の女の子

ひとりの凡庸で通俗的な「女性」のなかにある神秘についての掌編。主題も文体も、とてもリスペクトルらしい、名刺にしてもいいような小品。『星の時』っぽい。物語はなく、ただひとりの人物の描写だけがある。

・めんどり

以前、ブラジル文学のアンソロジーで読んだことがあった。めんどりはリスペクトルがよく用いるモチーフだけれど、この作品では何かの隠喩と解釈してよいものか迷ってしまう。難しい。乾いた残酷さ、シニカルさは通底している。

・お誕生日おめでとう

89歳のおばあちゃんの誕生日会のために年一で集まる家族たち。「家族」の鬱陶しさを滑稽に描く。しかしパーティの主役たる老女側の感情や思考の描写もあり、彼女を絶対的な存在として特権化してもよいものか戸惑う。「自身より大きな姿で」どっかりと主賓席に座るおばあちゃんの人間味と神秘。むずかしい。

・マウアー広場

広場のキャバレーに勤める踊り子のカルラと異性装者のゲイであるセルシーニョの友情とそのつまらない破局。ゲイでも「女らしさ」を持ち出すミソジニストはいる、という話?
それぞれ、シャム猫/養女と暮らしているという対比がなんというか典型的。

・近視の進行

ASDっぽい少年をとりまく大人たちについて。「賢さ」を作り出すのは彼の周りの大人たちの気まぐれに過ぎないと幼くして理解してしまった天才少年の人生。
抽象的な意味での「近視」というモチーフを利用した、高度な眼鏡小説。

なぜなら彼は早々と──早熟な子とされていた──他人の不安定と自らの不安定を凌駕していたからだ。ある意味で自分の近視と他人の近視の上を行っていた。それが彼に大きな自由を与えた。 p.193

子どもを持たない従姉のもとで丸一日を過ごす。すげぇ濃厚なおねショタ
「女性」の愛の暴力性……についてなんだけど、これどういうつもりでやってると読めばいいのかわからない。

ほかの大人たちの愛とは似ても似つかぬ新しい愛。実現を求める愛だった。なぜなら従姉には妊娠経験がなかったから。妊娠は、それ自体が実現された母性愛なのだ。だが、彼女のは妊娠が先立たない愛だった。事後的に懐胎を求める愛だった。要するに不可能な愛。 p.196

・誠実な友情

ぼくたちはとにかく相手を救いたかった。友情は救いの材料だ。 p.199

そこにいることは与えることでもあると、ぼくはずいぶん後になってから理解することになる。 p.201

これは……友情BLだ!
ケア関係に無縁な男たちのホモソーシャルな、無様で「誠実な友情」の結末。
いくら仲の良い友達でも、同棲するとキツいよね〜というのはわかりみが深い。

8/5(月)

・パンを分かち合う

食べものを食べたのであって、その名前を食べたのではない。神がこれほど神そのものになったことはない。食べものは粗野で、幸福で、厳しかった。 p.207

「お誕生日おめでとう」と同じ、食事パーティまじだるいよね系の話かと思いきや、なんか最終的には宗教めいた、食を通じた神という全体性への恍惚的な合一に至った。通俗性と神秘性の同居をどう読めばいいのかむずいんだよな。

美女と野獣、または大きすぎる傷

「結婚する前は中流階級で、銀行家の秘書になり、その人と結婚し、そして今は──今はキャンドルライト。私がしているのは人生ごっこ、人生はそんなんじゃない」と考えた。 p.217

銀行家の夫をもつ35歳の女性が、道端で脚に傷のある物乞いの男に出会い、自分の人生について考える。雑にいえば、「強者女性」と「弱者男性」の邂逅譚。
建て付けはこのように分かりやすいが、いざ実際の文章を読んでみると、難しさも感じる……

特権的な立場にある女性カルラの傲慢さ、愚かさを読み取るだけでは不十分だろう。不倫している夫にオークションで買われたという語りなど。
子どもが3人なのか2人なのかも矛盾しているし。

あいだで何度か場面転換のための区切りがあるのも意味深というか必要性がよく分からない。三人称叙述でカルラに焦点化したり物乞いのジョゼに焦点化したりと忙しいし、カルラの語りのなかで鉤括弧を使うものと使わないものが混在しているのも複雑。
「愛」というリスペクトルのオブセッションに「金」を並置させているのかな。

8/6(火)

・今のところ

彼はすることがなかったのでトイレに行った。そのあとは完全にゼロになった。 p.226

ウミガメのスープみたいな書き出し

生の虚しさ、自己という存在の心許なさについての掌編 主人公は男でいいんだよね

・子どもを描き留める

幼児の発達を三人称で描く。言語への参入、「人間」になることなど、ラカン精神分析っぽい。
他者からのまなざしで自己形成していく感じが「近視の進行」にもやや似ている。わりとすき
これがリスペクトルの子ども観かあ。石牟礼道子っぽさも感じる。幼い頃は世界につかまっていなかった。狂気。純粋さ。

9/30(月)

・卵とめんどり

この作家、(めんどりの)"卵" 好きすぎるだろ

卵は宙吊りになっている。何かに置かれることがない。卵が置かれるときには、卵ではなく、卵の下にある物が置かれるのだ。──キッチンで表面に注意を払って、壊してしまわないように卵をまなざす。それを理解してしまわないよう、最大限の注意を払う。それを理解することは不可能なので、理解できたと思ったらそれは私が間違っているということだ。理解は、間違いの証明である。理解は、卵を見る方法ではない。──卵について決して考えないことが、それを見る方法だったということだ。 p.239

卵についての、まごうことなき怪文書。そこらへんで「怪文書」を自称している文章たちが裸足で逃げ出すような。

そもそもこれ小説なのか? 散文詩でもないし。エッセイ? 怪文書としか言いようがない。出来の悪いAIが書いたよう……と言ってしまってはあまりに愚かしい。

卵は古代マケドニアで生誕したときから、依然として変わっていない。めんどりはつねに、最先端の悲劇である。意味もなく、つねに時流に乗っている。そして造形を模索し続けている。めんどりにもっともふさわしい形はいまだに発見されていない。 p.245

後半で語り手「私」が「エージェント」?だということが語られるが、なにを言っているのかなにもわからない。

まったく意味が分からないけれど、すごいものを見せてもらった。本領発揮してきたな……

10/2(水)

・ある物体についての報告書

これは報告書である。それが短篇や長篇の物語になることをズヴェッリアは認めない。認めるのは伝達だけ。私がこれを報告書と呼ぶこともかろうじて認めているだけ。謎にまつわる報告書と私は呼んでいる。 p.257

小型の置き時計?のズヴェッリアについての伝達文書、報告書……らしい。前作よりはまだ怪文書度が低いが、これも相当ヘン。なぜならズヴェッリアは時計らしいのだが人間のようでもあり、神や概念でもあるようだから。

たまに物語っぽい挿話が挟まれるゆえに、かろうじて小説っぽくなっている。

眠くなってきた。許容されるだろうか? 夢を見ることがズヴェッリアではないことは知っている。番号は許容される。六を除いては。ごくわずかの詩は許容される。いっぽうで長篇小説は論外だ。(中略)
スウェーデンはズヴェッリアである。
でも私はもう寝る。夢は見ないだろうけれど。
水は、濡れているものだが、ズヴェッリアである。書くこともそうである。でも文体はそうではない。胸を持つこともそうである。男性器では過剰だ。善意はそうではない。でも非善意、自己贈与はそうである。善意は悪意の対極ではない。 pp.258-259

うんうん、それもまたズヴェッリアだね。なんだかあるなしクイズのようになってきた。

・尊厳を求めて

70歳弱のシャヴィエル夫人が、夫の留守中に彷徨して思索に耽る憂鬱な一日。
前半の迷宮パートはカフカっぽいが、後半で歌手ロベルト・カルロスへの愛が主題になってからは『たそがれたかこ』になった。尊厳を失わせる(女性の)"老い" の絶望について。
これが最後かぁ……

巻末解説・訳者あとがき

この作家の特徴として身体感覚の表現とエピファニーアが挙げられる。それはまぁそうなんだろうが。

そして「言語」という秩序以前の世界を、言語を餌としてなんとか「釣ろう」とするリスペクトル。これはやはり、石牟礼道子と近いことをやっている気がする。(石牟礼道子はその根底のスタンスと、水俣病闘争というものすごい「現実」に分け入っていく振れ幅の大きさがまた特異なんだけど) (というか、[『チャンドス卿の手紙』]や『嘔吐』のように、言語以前の分裂症的な世界を書こうとする作家の系譜は確かにある。ただ、このふたりを特に挙げたいのは女性作家だから? それもナイーブか)

「私は自分を理解しています。だから私に対して私は晦渋的ではありません。ただ、私の短篇の中には自分もよくわからないものもあります……。「卵とめんどり」がそうで、それは私にとってもミステリーです」 p.283


やっぱりアレは飛びぬけてるよね。作者もこう言ってて安心した。

稀代のゴキブリ小説である『G・Hの受難』めちゃくちゃ読みたいなぁ
幼児向け・児童向けの作品も5つ書いているらしく、気になる。

ウルフとジョイスの影響を指摘され「どちらも読んでいない」と語ったそう。ウルフでは全然ないし、ブラジル文学でジョイスといったら『大いなる奥地』のギマランエス・ローザだろう。

前半の「異国の軍隊」「家族の絆」「ソフィアの災難」の3篇が完成度は飛び抜けていたかな、と思う。傑作でしかない。

後半は、それこそ "子ども" を主題にした「近視の進行」「子どもを描き留める」の2篇がわりと好みだった。そしてなんといっても「卵とめんどり」の意味不明ぐあいはちょっと凄い。

その他の作品は……まぁそんなに刺さらなかった。

訳者の武田さんには呆れられるかもだけど、やっぱ「難しい」と思ってしまうな。なかなか並ぶ者がいない、特異的な才能のある作家であることは間違いない。ただ、それゆえに抽象性や哲学性、宗教的な思索や描写などについていけない。わたしみたいな「ふつう」の一般読者は、理解できないものをそのまま感覚に任せて「上の空」で読む、なんて芸当を簡単にできるわけがないのです。

ソフィアの災難

椿の海の記 (河出文庫)

たそがれたかこ(1) (BE・LOVEコミックス)

星の時