HIKARI WAKE (original) (raw)
当帰芍薬散を飲むようになってから、生理がきっちり来ていたので、2日遅れただけでかなり焦った。「妊娠超初期の症状」みたいな記事を読み漁って、うわ、当てはまってる、とか驚いたりしていたけれど、頭痛とか、微熱とか、喉の痛みとか、太ももの違和感とか、妊娠していなくても当たり前に起こる症状なので、信じないでください。
妊娠出産育児の苦痛を社会がどうにか解決してくれない限り、子どもを持つ気はありません、とストライキを続けるつもりでいる。しかし、完璧主義なので、いざ子どもを育てるとなったらいつでも良い教育が施せるように、ふと脳内でシミュレーションしてしまう。子どもを持つ気はないと言いつつ、子どもを育てる気でいる。
このままストライキを続けていても、少子化が進めば、今と同じような豊かな暮らしは続けられないかもしれない。社会が変わるのを待つのは諦めて、今のうちに苦痛を味わって、将来の社会に貢献すべきか。もう少しストライキを続ければ、子どもを産み育てやすい社会になるのか。後者はあまり希望がないかもしれない。
ストライキをしているのに、手元にコンドームがないとき、断れないし、買いにも行けない。どちらかが誘惑に負けたとして、どちらかが冷静に判断を下せばいいのに。
自分が何かを理解できるとき、全能感に満ち溢れ、とても気持ちが良い。相手がわかっていないことを、わかっている自分が教えてあげて、相手が理解する瞬間にも、快感を覚える。一方で、相手がわかっていることを自分が理解できないとき、疎外感を抱く。寂しい、悔しい、と思って、理解できるようになりたいと思う。それと同時に、全能感で満たされていたときの自分は馬鹿だなぁとも思う。無知の知ってまさにこのことか。大学では、研究が専門化していくにつれて、知らないことでも、大体どの方向に懐中電灯を当てればいいかわかる、という感覚は身についてしまうけれども、一応、全然わからないという屈辱を味わいながら学ぶ機会は豊富にある。無知を自覚できる機会に恵まれている。しかし、社会に出て、仕事をしている時間が一日のほとんどを占めるような生活が始まったとき、全然わからないことに出会い、それを学ぶ機会はどれほどあるのだろうか。自分がすんなり理解できることばかりに囲まれた環境で、自分の無知を自覚しなくなることがこわい。わからないことに出会うチャンスが訪れても、難しくて理解できないや、と目を逸らしてしまうのは寂しい。大学にいれば、先生や周りの学生と議論をすることで、理解できるかもしれないという安心感があるが、大学を離れると、そういう機会を持つのがなかなか難しいだろうと思う。
高卒の母親は、娘が大学に行くことに懐疑的だった。医者や看護師や教員など、大学に行かないと資格を得られない仕事に就きたいのなら別だけれど、何のために行く必要があるの?高卒でも働けるのに、と言っていた。
大学に行くことは、知識を得たり、技能を身につけたりする以上に、世界には自分が理解できない領域がたくさんあることを知るための場なんじゃないかと思う。そして、自分に理解できない世界が、どこにあるのか見つけて、深めて、また理解できない世界の入り口に遭遇して、ということができる。無知を自覚する訓練かもしれない。高校までの勉強のように、学ぶこと=身につけることだと理解した(気になった)まま社会に出たら、たくさん資格や免許を取れば取るほど賢くなれる、みたいなことになってしまう気がする。身につける前提の学びは、体系に沿っていけば理解できることになっている。でも、例えば、個々の人間の価値観や感情は体系立っていないから、資格の勉強のようには理解できない。自分が理解しやすい相手とだけ過ごしていれば楽だろうけれど、それでも、「理解できない部分がある」という前提で接しないと、自分が正しくて相手が間違っているとか、相手が馬鹿なんだとか、一方的に決めつけることしかできなくなる。ここまで否定的でないにしても、〇〇だからこうなんだ、とパッと言葉を当てはめて、わかった気になりたくなる。無知を自覚することは、本当に難しい。
自分はまだまだ、無知を自覚しきれていないのに、こんな状態で大学を巣立ってしまっていいのだろうかという不安がある。無知を自覚したところで、自分で学ぼうとする筋力も足りていない。自分一人では理解できない本が山ほどある。それらの存在を無視して、この世に理解できない本があることすら忘れてしまうかもしれない。大学に通っていれば、わからないものと自動的に出会えていたけれど、面倒くさがりだから、わからないものに積極的に出会いに行くことすらしなくなるかもしれない。理解できないものへのアンテナを、どうやって維持していこうか。
就活のあれこれについて考え始めている。
私自身、男か女かは関係ないですよ〜という格好をしたいので、足が痛いパンプスではなくて、靴下と革靴を履きたいし、ポケットの小さいスーツではなくて、メンズと同じデザインのスーツを着たい。男女雇用機会均等法もあることだし、就職に男か女かという問題は関係ないはずである。それなのに、女性はレディススーツにパンプスと決まっている。周りと浮くような奴は、問題ありと見做されかねない。主張が強い新入社員は嫌だという気持ちはわかる。しかしそれとは別の問題として、性別が関係ない場で、性別で区別するって、普通に差別なのでは?
ユニリーバが2020年に「LUX Social Damage Care Project」というのを始めた。1985年に男女雇用機会均等法が制定されてから35年間何もなかったのかよ。
ユニリーバ・ジャパンの取り組みに賛同する三井化学は、2021年の新卒採用から①就職活動を行う学生が登録する性別について無回答を可とする②一部職種を除き証明写真の提出を求めない③服装による性差排除のためリクルートスーツの着用を求めない――ことを明言している。
賛同企業のロゴだけ見つかった↓
https://www.lux.co.jp/campaign/lux_socialdamagecare/cv/index.phpより
私のメンタルが弱くなっているのか、配慮のない作品が増えているのか。
なんの注意書きもなしに、クソ大音量&光度を出し続ける演出とか、なんの警告もなしに殺人のシーンが入るとか、ちょっと軽率すぎる。もうちょっと慎重にやってくれないと、むやみに映画館や劇場に行けなくなる。そのうち作り手は過激な演出に鈍感になり、刺激に耐えられる客が減っていき、業界が廃れるよ?と思う。私は既に、ちょっと気になる作品があっても、躊躇してしまうようになった。
友人に誘われて映画を観に行くことになり、過激演出がないか一応確認することにした。漫画を描く小学生の登場人物が出てくる話だと書いてあったから、そんなに刺激の強い演出やシーンはないだろうと判断して、映画館へ行った。
途中で、東北芸術工科大学がモデルであろう美大が出てきて、登場人物が静かでがらんとした廊下のソファで休憩しているところに、金属の棒を持った男が侵入し、「俺の作品をパクっただろ!」と金属の棒を振り下ろすシーンがあった。
うちの大学も、アトリエがあって、廊下にソファがあって、あまりひと気がない校舎がある。そして誰でも入れる。実際、大学敷地内で過去に誘拐未遂も起きている。そして、美大とは違う場所だが、「俺の作品をパクられた」という動機で人の命が奪われた事件も記憶に新しい。
ほんの数秒のシーンで、このシーンでは誰も死ななかったのだが、実際に事件が起きうる条件が揃いすぎてて、恐怖でしかない。舞台として描かれている東北芸工大に通う人なら尚更かもしれない。怖い思いをしたことがある人なら、確実にトラウマをえぐられると思う。
そもそも、ホラー映画のつもりで観に行ったのならまだしも、そんな恐怖を味わうためにこの映画を観に行ったのではない。あらすじを読んだ限り、そんなシーンがあることは知らされていないのだから。唐突な暴力シーンを目にしないために、一切の映画を見ないようにするしかないのだとしたら、あまりにも虚しい。
もし仮に、このシーンが、田舎の美大のセキュリティの弱さを指摘する意図があったのだとしても、暴力や殺人を想起させる描写を軽率に見せていいことにはならない。そういった描写がある場合は、明確に予告しておかないと、いろんな人が傷つくことになる。
今朝の夢。
小さめの細長い刃物を持った眼鏡をかけた男が数列隣の椅子に座っているのを見た。その後見失って、そしたら、周りにいた人(妹?)が、犯人が机の下の毛布に包まっていることに気づいた。たしかに、よく見るともぞもぞ動いている。早く逃げるか通報するかしたほうがいいと思いながら、いつ攻撃してくるかわからないから、なかなか動き出せず、しばらく毛布の塊を観察していた。しばらく経って、全力で走ってひとりで逃げた。大きい公園の少し小高いところに着いた。見下ろすと、街が見える。また走りながら、110と打ち込みたいのに、161とか101と打ってしまって、なかなか通報できない。なぜか大学の指導教員がうろうろしていて、あいさつをする。また走りだして着いたら、広めの喫茶店の壁際のカウンター席に案内されて、かごに荷物を入れて、なんか偉い人たちと一緒に座った。
しばらくして、また刃物をちらつかせる男に会って、ちゃんと逮捕されて、安心した。
以前も、学校のトイレの個室に、3日に1回立てこもり犯がいて、逆上するから通報すべきでないと言われ、うっかり犯人がいる日にトイレに入っちゃって焦る夢とか、無差別殺人事件が起きて、デカい高級病院に逃げ込む夢とか、定期的に見る。
そろそろ展示プロポーザルの提出があるので、先生に理不尽なこと言われるんじゃないかという不安が大きい。実際そんな悪いことは言われないんだけど、なんとなく過剰にドキドキしてしまう。学部時代は、安心できるような言い方で生産的な意見をもらえるという絶対的信頼がある先生ばかりだったんだけどな。
しょーもないタイミングで、クイズを出してくるおじさんってたまにいるけど、なんか苦手だ。それはたぶん、「俺は知ってるけど、お前は知らないだろ」という前提で、「お前が正解を知ってるんなら認める」みたいな関係性を持ち込まれるからだと思う。
大学で著作権の授業を何年も受け持っている先生が、学生全体の5%しか授業を受けてくれていないと嘆いていた。私は入学前からその先生の本を興味深く読んでいたし、期待して初回の授業に行った。そしたら、毎トピックごとに選択クイズを出してきて、正解だと思うほうに手を挙げるよう促される。しかも、別に難しい問題などではなくて、誰でもわかるような単純な問題だから全然クイズとして機能してなくて面白くない。クイズの面白みは、「知ってる人」と「知らない人」の競争が激しくなって、正解したときの優越感や達成感が大きくなるときなのに、超簡単な内容でクイズを出されると、めっちゃ冷める。さらに、私は既に本で読んだ内容の通りにしか進まない授業に窮屈さを感じて、2回目からは行かなかった。この授業受けるくらいだったら、先生の新書読んだほうが自分のペースで学べるしいいじゃんと。実際、先生がまとめられている著作権の連載は、とてもわかりやすくて、著作権に関する疑問が湧いたら、いつもお世話になっている。
他の学生が著作権の授業を受けない理由はわからないけど、私が受けないのは、クイズおじさんに冷めてしまったからだ。ちゃんと先生の本は信頼して読んでるし、ネットの連載も参考にしているから、私以外の学生も必ずしも著作権に関心がないわけではないことを願いたいし、クイズ出しおじさんたちは、さほど自分が面白くないことを自覚してほしい。
修了制作諸々の締切からの現実逃避をしたいのか、パズルゲームアプリの罠にまんまと引っかかってしまった。これは不健全だと思い、ちょっとググったら、よくできていること。薄々気づいてはいたけれど、プレイヤーの努力とかスキルはあまり関係なく、出てくるピースの配置やアイテムが計算されていて、完全に「運」をコントロールされている。ゲームオーバーの度にライフを消費して、0個になると、ライフが1個回復するまで30分待つ必要がある。すぐにライフを手に入れてゲームを再開したい場合、「クリスタル」数十個でライフ5個を補充できる仕組みになっている。課金のシステムもよくできていて、「クリスタル」はゲームをクリアすると貯まるので達成感があるが、それを取り出すためには400円課金する必要がある。
ゲーム依存についての悩み&体験談を読んでいたら、「ゲーム機がなかったころから」というコメントを見つけた。
ゲームのやり過ぎが「病気」に!? 悩み&体験談 | NHK ハートネット
私が小学生のときは、みんなが持っているDSは「目が悪くなる」という根拠のない理由で一度も買ってもらえず(結局遺伝で私の裸眼視力は0.01以下である)、Wiiは買ってもらった(テレビ画面なら目が悪くならないからと言われた)けれど、ゲームの時間=オルガンを練習した時間という制限があり、1日30分~1時間くらいしかできなかったので、ゲームにハマっていたわけではなかったと思う。しかし、思い返してみると、母親が幼少期からファミコンなどゲーム好きだったらしいので、健康に害がなさそうなゲームは許されていた。「どうぶつしょうぎ」と「aqua drop」(水滴を転がす迷路)、ナンプレのゲーム機、あとは進研ゼミの付録の中でも、ひたすら九九を速く解くゲーム機は結構やった記憶がある。高校受験の勉強中にタブレットで「どうぶつしょうぎ」のアプリで遊んでいたのが親にバレて、そのときはタブレットを没収された。
(これは余談だけれど、弟が幼稚園のとき、テレビでひたすら降水確率とかが出てくるだけのお知らせチャンネルをずっと眺めていたり、大きくなったらレジ打ちの人になりたいとまで言っていたほど、数字に凝っていた。私もそこまでではないが、模試の点数の推移を1時間くらい眺めたり、今もたまに通帳を読んだりしてしまう。数字はわかりやすく脳の報酬系を刺激してくる。)
http://blog.livedoor.jp/ktck/archives/2008-09.html
リビングのテレビで、誰かがWiiやSwitchのパズルゲーム(ミニゲーム的なやつ)をやっていると、母は「『ぷよぷよ』とか得意だから」とよく一緒に遊んでいた。
私がパズルゲームにハマってしまうのは、母親の血か?
母は整理整頓が得意である。部屋の模様替えも好きで、母が中学生の頃から夜中に家具を動かしたりして、よく怒られていたらしい。私も、小学生の頃から、自分の机の周りを整理整頓したり、小物や引き出しの中の配置を変えたりするのが楽しかった。散らかるときは散らかるが、あらゆる場所を整理整頓せずにはいられない衝動によく駆られる。そういえば、今デスクの上が山積みなのは、片付けの代わりにパズルゲームで整理整頓欲を満たそうとしていただけか。
自分はとにかく秩序を作り上げることに快感を覚える。物理的な片付けやパズルゲームに限らず、明確で簡潔なルールを作って状況を整理したり、文章を書くときもパズルのピースをはめるような感覚でいる。とにかく秩序がないと落ち着かないのである。
私が企画するアートプロジェクトにおいて、私の役割は「参加のルール作り」である。私が、遊び方の大枠や出発地点を決めておいて、参加者はそのルールの中でクリエイティビティを発揮してね、というような形である。そうすると、ルールによって場の秩序を作り上げる快感と、参加者の手によって予測していない面白いものが出てきた時(=運)の快感が、もはやパズルゲームと同じ構造である。そして、他の誰かが企画したワークショップや観客参加型の作品は、全然心から楽しめたことがない。時々、参加させられて嫌だなとすら思う。参加するだけでは、秩序作り欲は満たされないし。参加するとしても、常に秩序作りの参考までに参加しているだけだ。
(言いたかったことを全部書き出して、今まさに整理整頓欲が満たされてしまい、結論的なことを書くのが面倒くさくなっている)
アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』にも書いてあったけれど、人間の本能的な欲求を利用して、依存させて金儲けをしようとするスマホゲームやSNSは本当に不健全だと思う。スマホやタブレットがあれば、インストールするだけで遊べるのは低コストかもしれないけれど、原始的なゲーム機やおもちゃも生き続けてほしい。おわり