TIFF(トロント国際映画祭2024)訪問記①:喪をめぐる壮大な旅 ―ミゲル・ゴメス『Grand Tour』評 (original) (raw)

2024年の9月5日から15日まで、カナダトロント市で開催されているトロント国際映画祭は、Festivals of Festivalsという名がつく世界最大級の国際映画祭である。今回半分の日程でトロントに滞在した映画専門記者の報告を3-4回に分けて掲載する。まず第1回目となる本記事では作品評を掲載する。今回取り上げる作品は、本映画祭において記者が最も重要だと思った作品『グランド・ツアー(Grand Tour )』(ミゲル・ゴメス監督、Wavelength部門)である。その作品評を掲載する。

ポルトガルの巨匠ミゲル・ゴメスが、10年間にわたって温めていた企画を映画化し、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した『Grand Tour』は、単なる男と女の逃避行を描いているのではない。そこには死した映画監督への眼差し、ひいては失われた「映画」空間を取り戻そうとする喪の再生を大胆に思考するという野心的な作業が存在する。2021年にパートナーでもあるモーリン・ファンゼイデイロと共同で、16ミリを主なメディアとしたパーソナルな映画『ツガチハ日記』(2021)を制作したことで、ゴメスは「私的なエッセイスト」のような映画監督に矮小化される危険性をはらんでいたと思われたが、本作品の登場でその危機感は一掃されたと言っても過言ではない。

『Grand Tour』(ミゲル・ゴメス監督、写真提供:TIFF

物語はとても単純であり、長々と語るまでもないかもしれないだろう。1910年代のアジア圏を舞台に、男がマカオ、日本、上海、ベトナムと様々な場所を旅していく。その旅は婚約者に伝えられていないものでないため、婚約者が男を追いかけ、結果的に自らも永遠の旅人と化していくという内容であるが、この物語の単純さこそが、映像の豊かさを生み出している。カラーとモノクロの映像を融合させ(カラーのシ-クエンスの大半は、ワヤンや観覧車などノストスに関わっている。その点では、我々はギィ・ジルの映画におけるカラーの使い方との類似を見出すのかもしれない)、緻密なカメラワークと長回しを使用することで、ミゲル・ゴメスはどこだろうと既存のオリエンタリズムにとらわれない(つまり言ってしまえば空虚な形式的なものではない)時間と空間のイメージの構築に成功している。しかしながら、イメージの構築は容易ではないはずだ。
ここから2つの仮説を立てたい。一つ目はストローブ=ユイレ『オトン』(あるいは『歴史の授業』)や吉田喜重『エロス+虐殺』への無意識的なレフェランスが存在していることである。つまり、ゴメスは映画がテクノロジーの産物という複製芸術であることに自覚的なのである。1910年代であるとされる本作品には、現代の技術が平然と登場しており、これはテクストを再現しながら実はそれがすべて現代の空間における演劇であると自覚させられる『オトン』や、1923年と1968年を接合させることで、分析的に演じることの虚構をさらけ出す『エロス+虐殺』のとった手法と同じである。つまり時間のイメージにおける亀裂を観客は引き受けなければいけない。だが粗雑な撮影では、亀裂に飲み込まれてしまう可能性があるが、本作品の長回しは適切な距離で適切な被写体を撮影することに余念を許すことはない。そのような基礎的な映画作業こそ、壮大な時間イメージの実験を可能にするのである。トラベリングにおける倫理性も兼ね備えることで、ゴメスの映画は決して人間への共感を許しはしない。人間の破滅を引きうけ喪に服することが、本作品においては重要なのだ。

『Grand Tour』(ミゲル・ゴメス監督、写真提供:TIFF

二つ目も、先ほどの仮説と類似しているが、テクストによる徹底的な抵抗である。近浦啓という映画監督の協力を得てゴメスは日本での撮影を敢行しているが、北新地のうどん屋を映し出し、修行僧(さらに言えば隠遁僧)を映し出す中で、この映画作家は現代のうどん屋と鎌倉・室町時代という時間の懸隔を生み出していることに成功しているが、実はここで重要なのはナレーション・テクスト=叙述の力なのだ。映画理論家クリスチャン・メッツは、自論文「映画 言語か言語活動か?」で映画における社会的機能の様々な見解に言及する。それらの分析を通してメッツにとって叙述の機能は、①保管ないし保存の手法、②植物学または外科のような諸科学の探究や教育における補助的な記録技術、③ジャーナリズムの新しい形態、④死者に対する映像を用いた感情的敬愛の手段とされている。つまり映画における叙述とは、何らかの保存に大きく関わる機能を持つ。「映画と叙述性との出会いは、いささかも宿命的ではないが、偶発的でもありえない一大事を表している。すなわち、それは歴史的、社会的事実であり、(社会学者マルセル・モースの重要な用語を用いれば)文明的な事実であり、「外的な」言語学的出来事(言語の制服、植民地化、変革……)が特有言語の「内的な」機能の仕方に影響を及ぼすような流儀―間接的で包括的な、それでも有効な―流儀と、いくらかは同じ仕方で、記号学的な現実としての映画(フィルム)のその後の進展をそれなりに条件づける事実である」(メッツ、172頁)。メッツは、叙述が歴史的、社会的な事実、文明的な事実との邂逅を生み出すと指摘しているが、まさにこのような事実と向き合ったのがゴメスの作品である。彼の作品においては、ナレーションこそが「文学的」でありながら同時に歴史的、社会的事実=つまり本作品では帝国主義的な支配によって強いられるアジア圏の「敗北」が横たわる世界と対峙するためのテクストであり、その結果言語学的出来事としての社会的な事象によって多大な影響を受ける語りのテクストとなる。本作品においてナレーションは、(単純に)バルト的に考えるならば映像と自律した一つの行為そのものなのである。だが、これはマルグリット・デュラスの映画のような意図的な断絶を意味するのではない。必要なのは、テクストとイメージの協働の関係なのだ。
ミゲル・ゴメスは、緻密なカメラワークとナレーション・テクストの協働によって、映画空間における多様さを構築する点で優れた映画作家なのであるが、『ツガチハ日記』ではそれが極めて閉鎖的になっていたという問題点を抱えていた。コロナ禍下で、共同体の閉鎖的な運動と崩壊がテーマとなるとそれは致し方ないのかもしれないが、ゴメスのトラベリングは家を眼差していたわけではなく、また個人的な映画というものの問題点を示し続けていたのだ。フランスの視覚芸術研究者フィリップ・デュボワは、一人称視点によって構成される映画について« cinéma du Je »(私の映画)という表現を用いる。その中で、自伝と自画像の区別について前者を過去に向けて語られるものであり著者や語り手の権威性に基づいた閉鎖的なものであるのに対し、後者を開かれた主体性に基づいた文学的で視覚的なものであると定義する。デュボワは後者を以下のように定義する。「世界が「私」の中にあるように「私」は世界の中に存在する」。『Grand Tour』は、一人の個が世界と行う壮大な闘争の足跡なのであり、旅によるトラベリングが存在することで世界が一つの不可視な存在であることを引き受けることができるのだ。マノエル・ド・オリヴェイラ以来旅を重ね続けてきたポルトガル映画は、ジョアン・セーザル・モンテイロ、リタ・アゼヴェード・ゴメス、ペドロ・コスタと続き、ミゲル・ゴメスによって新たに壮大な旅を生み出したという点で、真に祝福されるべき存在となったのである。

(小城大知:映画研究、表象文化論