『歎異抄』を意訳する 5 (original) (raw)
今回はこのシリーズの続き。
以前、『痩せ我慢の説』を意訳したように、今回は『歎異抄』を意訳してみる。
12 第十条を意訳する
まず、第十条を(私釈三国志風に)意訳してみる。
(以下、『歎異抄』の第十条の意訳、意訳であって直訳ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
以前、親鸞聖人からこんなことを教わった。
「『念仏の教え』には『教義がない』という教義があるだけだ。なぜなら、他力本願の『念仏の教え』は不思議なものであり、人間には定義不可能であり、さらに言えば、説明不可能だからだ」と。
ところで、親鸞聖人が生きておられたころ、「念仏の教え」を信じた者たちが京都から関東に遠路はるばるやってきた。
それらの人々は、念仏の道を同じくする者たちであって、私と同じように親鸞聖人のお言葉を聴いていた。
その後、それらの人々によって念仏を唱えるようになった人々が限りなく増えた。
しかし、その一方で、最近、親鸞聖人が仰せになっていたことと異なることを主張する人々が増えている旨耳にするようになった。
そこで、これらの異説が親鸞聖人の教えとかけ離れていることを順に述べていくことにする。
(意訳終了)
ある種、他力本願になれば、「『他の仏教ならばあるはずの教義がない』のが『念仏の教えにおける教義』である」というようなことになるのかもしれない。
こうやって見ると、「『従来の仏教』から『念仏の教え』への流れ」は、「『ユダヤ教』から『キリスト教』への流れ」と似ているのかもしれない。
というのも、因果を重視する点においては、仏教もユダヤ教も似ているから。
この辺は次の読書メモでみてきた通りである。
とすると、ヘレニズムやヨーロッパにおける「ユダヤ教→キリスト教の独立→『カトリック』の発展→『宗教改革』という名の原点回帰」という流れと同じような流れが日本にもあったのではないのかと妄想することができる。
いうなれば、日本における「従前の仏教→『念仏の教え』の独立→『?』→『???』」という相似の流れが。
もっとも、その後に何が発生したのか、その点についてはよくわからないが。
それからもう1点。
「念仏の教え」における教義がない点は、異説の繁殖にとっては絶好の環境だったのだろう。
ある種「なんでもあり」なのだから。
また、唯円も異説の発生に嘆きはしても、「異説を唱えた人間に激しい怒りを示す」とか「異説を唱える者たちを弾圧する」といったことはしていない(もちろん「できなかった」という事情もあっただろうが)。
この辺は、一神教との大きな違いなのかもしれない。
13 第十一条を意訳する
第十一条以降は親鸞聖人の言葉ではなく、(著者とされている)唯円の主張が示されている。
これまでの『歎異抄』で述べられたことを参照しながら、冒頭にある問答の答えを考えてみるのも悪くないかもしれない。
では、第十一条の冒頭部分を意訳してみよう。
(以下、『歎異抄』の第十一条の意訳、なお、強調は私の手による)
昨今、学問に浅い者が熱心に念仏を唱えている状況で、「あんたは阿弥陀仏の誓いを信じて念仏しているのか?それとも『なむあぶだぶつ』の効用を信じて念仏を信じているのか?どちらなのか?」と吹っ掛けている馬鹿がいるらしい。
しかも、この質問をしている人間はこの二つの違いを説明しないため、質問された者がさらに困っているらしい。
このような愚か者の質問に混乱させられないよう、この点は慎重に検討しておく必要がある。
(意訳終了)
なにやら学に明るくない熱心な門徒に対して変な質問を吹っ掛けている輩がいたらしい。
その質問を要約すると次のようになる。
問、あなたが熱心に念仏を唱える理由について、次の①と②から選べ
② 「なむあみだぶつ」の効用を信じているから
ぱっと見たところ、「①と②の両方である」とか「①でも②でもない」という答えもあり得そうな気がしないではない。
例えば、「①と②の相乗効果により念仏を熱心に唱えるようになった」というのであれば、①と②の両方が正解になるべきであろう(きっかけが①か②かはさておくとしても)。
あるいは、「私を助けてくれた尊敬する人が念仏を真剣に唱えていたから」となれば、①も②も理由にはならない。
というわけで、「なんか変な問いだなあ」という感じがしないではないが、『歎異抄』では答えとして次のようなことを述べている。
以下、意訳してみよう。
(以下、『歎異抄』の第十一条の意訳、なお、強調は私の手による)
阿弥陀仏が「煩悩に塗れた凡人を救済する」と誓われた。
そして、「煩悩に塗れた凡人」でも覚えやすく、唱えやすい「南無阿弥陀仏」という名号を考え出し、「この『南無阿弥陀仏』と唱えた者たちを極楽浄土に連れて行く」と誓われたのである。
そして、「凡人はこの阿弥陀仏の誓いに助けられて『往生できる』と信じるようになる」のであるし、「凡人はこの阿弥陀仏の誓いに助けられて『念仏を唱える』ようになる」のである。
だから、「阿弥陀仏の誓いを信じること」も「『南無阿弥陀仏』の力を信じること」も同じことである。
一方、「善行が往生の助けになり、悪行は往生の妨げになる」といった「自分の修行によって往生に行けるかどうかが決まる」などと考えるのは、「阿弥陀仏の誓い」を信じているとは到底言えない。
何故なら、このような考え方は、これまでの仏教と同じ自力の発想であって、「阿弥陀仏に頼らずに往生しよう」と考えているようなものだからだ。
そして、この場合、「私は『なみあみだぶつ』の力を信じている」等とも言えないことになる。
まあ、阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏の誓いや念仏の力を信じていない者も排除していないので、それらの者が程度の低い世界に往生したとて不思議ではない。
また、そのような者たちも他力の教えに気付いて真の極楽浄土の世界にたどり着くこともあり得ない話ではないけれども、それは阿弥陀仏の誓願のなせる業に過ぎない。
(意訳終了)
これまで見てきた通り、**阿弥陀仏は「煩悩に塗れた凡人こそ救う」という誓い**を立てた。
そして、その誓いを達成する手段として「なむあみだぶつ」という念仏を用意した、ということになる。
このように「阿弥陀仏の誓い」は目的、念仏は手段だから、両者は一連のものとみなせるだろう。
その意味で、上のよく分からない問いは意味がない、ということになる。
もっと言えば、「人間が何かを信じて、何かを行う」ということ自体を他力の思想たる『歎異抄』は否定しているように見える。
その意味でも、この問いには意味がない、と言えそうなのだが。
以上、歎異抄の意訳を続けてきた。
続きは次回に。