本村凌二「地中海世界の歴史4 辺境の王朝と英雄」講談社(選書メチエ) (original) (raw)

ローマ史の本村先生が心性史を一つの軸に据え、一人で書き下ろす「地中海世界の歴史」も折り返しの4巻目となりました。ここまでは専門ではないオリエント、ギリシアといったところを扱ってきましたが、第4巻ではヘレニズム世界の歴史を扱っています。

前半の第1章から第3章まではマケドニア王国の台頭からヘレニズム世界の形成に至るまでの歴史の流れをまとめていきます。第1章を使ってフィリッポス2世、第2章でアレクサンドロス大王といったギリシア人から見たら辺境のマケドニアに現れた2人の傑物の事績をコンパクトにまとめています。

そして、第3章ではアレクサンドロス大王死後の後継者戦争ヘレニズム世界の成立を扱っています。中原に鹿を逐う後継者諸将たちのなかから、アンティゴノス朝セレウコス朝プトレマイオス朝といった大国が形成されていくこと、そしてヘレニズム世界で形成された都市アレクサンドリアやアンティオキア、ドゥラ・エウポロス、ペルガモンを取り上げつつヘレニズム世界の社会や経済についてまとめています。

第1章から第3章まではヘレニズム世界についての大まかなまとめと言った印象が強い内容となっています。本シリーズが心性史を軸にしているということ、またヘレニズム世界の歴史は次の第5巻(ローマ共和政の歴史)とかなり被るところが時期的にあるためか、政治史に関する記述は例えばアンティゴノス朝であればゴナタスの時代についてちょっと触れるあたりで一旦停止しているなど、かなりあっさり目です。翻訳でないヘレニズム世界の本は貴重なので、後継者戦争ヘレニズム世界の政治史に関してもうちょっと詳しく書いてくれると個人的には嬉しかったところではあります。今回省かれたローマが関わってくる時代の前後の部分は次に期待して良いでしょうか。

第1章から第3章までの内容で個人的に興味を持ったのは、フィリッポス書簡を第1章で取り上げているところでした。デモステネスの弁論集にも掲載されていますがフィリッポス2世の書簡とされる文章があります。おそらく偽作だろうということですが、書かれている内容を見ると国際社会で紛争や対立が起きた時にこのような主張の展開はよく見かけるよなと思う内容となっています。フィリッポスの立場ならこういうだろうということで誰かがいろいろな情報を合わせて作文したのでしょうが、なかなか興味深いものがあります。

そして、第4章はヘレニズム世界の文化に関する事柄が扱われます。ヘレニズム世界のあり方についても一様に同じというわけでないことは第3章においてセレウコス朝の中でもアンティオキアとドゥラ・エウポロスで随分違う様子が示されていますが、昨今言われるヘレニズム文化の限界(都市を通じたギリシア文化の受容であり、周辺エリアにはあまり伝わっていないことや、ギリシア文化の受容が表層にとどまっているものが多い)にも触れつつ、コイネーというこの世界の「共通語」の登場の持つ意味を重視したうえでヘレニズム文化をオリエントの豊かな伝統と蓄積を基盤としたギリシア文化の新展開、オリエントのギリシア化と同時にギリシア文化のオリエント化としてとらえていきます。

ヘレニズムのあり方については、以前読んだ加藤九祚シルクロードの古代都市」(岩波新書)においても東方での受容についてはいろいろな形があることが示されていましたが、今後もっといろいろな形で掘り下げてほしい分野です。ただ、昨今の中東情勢の影響で難しくなる可能性もあると思います。

そしてヘレニズム世界(本書ではヘレニズム文明という言葉を使っています)は広大なオリエント世界という大海原のなかに島々が浮かぶような形でギリシア風の文化が点在する世界であり、このイメージは本書の随所で繰り返し現れます。その中でギリシア人の中にもオリエントの文化(特に宗教)に染まるものが現れてきたこともあるようです。第4章では美術や建築、文学や歴史書、そして科学など学問についてまとめた後、哲学や宗教へと話題が展開していきます。

ストア派エピクロス派とも人々の生きる指針を示すものとして人々に受け入れられ、それ以前からの思想の流れとしてオルペウス教やピュタゴラス派、そしてソクラテスプラトンなど魂に目を向け,考える動きの登場から説きおこし、個人救済を人が神に求めるなか密儀宗教が流行するというところまで話を進めます。もう少し話のつながりが見えやすいと良かったと思いますが、本書で1番力を入れて書きたかった部分は密儀宗教の部分だろうと思います。

ヘレニズム時代を人々の信仰のあり方の転換期ととらえ、様々な神々が習合する宗教融合(シンクレティズム)や人々の救済を約束する密儀宗教の流行が見られた時代として描き出していきます。エジプトの女神であるイシスについて語る時,そこに現れる要素にはギリシアやオリエント世界の様々なものみられます。そして文字の普及により知性や認識の重視、概念による思考の彫琢練磨がすすみ、人々が概念的思考に馴染んだ時、感情や意欲といった人間の情動が抑えられ、それらの受け入れ先が個人の救済を約束してくれる密儀宗教だったというところでしょうか。

政治史や社会経済史については極力簡潔にまとめつつ心性史を軸に据え、フィリッポス2世の登場以降のギリシアの歴史について、新たに形成されていった一つの文明として「ヘレニズム文明」を描き出すことを試みた一冊です。ヘレニズム時代史については、先月出たハニオティス「アレクサンドロス以後」を読む前にこちらを読むのもまた一興かと思います。こちらを読んで大まかな枠組みを頭に入れ、それからあちらを読んで細かいことを見ていったり,いろいろな視点の取り方を比べてみたりするのも良いと思います。