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主人公のベラ(エマ・ストーン)もそうなのだけれど、彼女やウィレム・デュフォー扮するゴッドウィンというキャラクターが暮らしているあの館に何匹ものキメラ的な生き物が登場するのはどういうことなのだろうかとしばらく考えてみた。個人的な結論としては、2つの全く異なる性質を持つ生き物がどのようにして組み合わされば新たな生き物として活動していけるのかということに対してゴッドウィンは深い関心を持っていたのだろうというところに落ち着いた。それを踏まえると、ベラが幾多ものセックスを乗り越えて(?)最終的には性愛的、自己愛的な欲望にある程度見切りをつけてゴッドウィンと同じ医者を志すようになる構成にもより納得がいくようには思える。

序盤におけるベラの「幸せになる方法を見つけた」というセリフは彼女の関心がその時点では自らの欲望をどれだけ満たせるかという点に重心が置かれていることを端的に示している。しかし、それが続くのは彼女の体が実は自分の母親のもの、つまりは(脳みそ以外は)自分自身のものではないということに気づくまでのことでそれ以降は自分を俯瞰して見つめるような視点を獲得していく。そういった過程を通して最終的に提示されているのは、性愛的な欲望や執着に対して見切りをつけることで性差や世代の違いが存在するコミュニティの恒常性を平穏なものとして保とうとするひとつのあり方と言えるのではないか。ただ、それを象徴するものとして登場するのがキメラ的な生き物、特にベラの母親の元旦那はとんでもない顛末を辿るわけで凡庸な平和論のようなものとは遠くかけ離れており、ゴッドウィンの思想に囚われ続けてしまうという点ではむしろ変わらず非常に抑圧的、暴力的ですらあるとも言える。そこにおいてはやはりヨルゴス・ランティモスの作家性のひとつの側面が現れているのは間違いないだろうし、いま劇場で公開されている「憐れみの3章」の内容とも共振している部分ではあるだろう。

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ショット(撃つ/撮る)というアクションの恐ろしさ、そして同時にそれに対しての強い執着を抱え続ける人間という生き物の業の深さ、禍々しさについての映画だ。

「撃つ」ことについて描いているシークエンスとして真っ先に思い出されるのは、やはりジェシー・プレモンスが登場する中盤あたりの場面ではないだろうか。地面に(具体的な用途はわからなかったが)粉を撒いているときの手つき、それから主人公のリー(キルステン・ダンスト)らとやり取りをしている間の表情の妙な柔らかさといい、しばらくは彼の意図が全く読めないが故の緩やかな緊張感が持続されるが、それを一瞬で劇的に加速させてしまうのが「撃つ」というアクションだ。彼が着用しているチープな見た目のアイウェアが赤いことも含めて、徐々にアメリカという国がどのような側面を抱えているのかという現在進行形の問題が眼前で浮き彫りになっていく気味の悪さは忘れ難い。

そして「撮る」ことについては、先述した場面と対になるような顛末を辿る終盤のシークエンスにて描かれる。陥落したワシントンでの壮絶な銃撃戦を経てホワイトハウス内部に主人公たちと”西部勢力”の兵士たちが突入していく場面は、激しい銃声とその間に差し挟まれる静寂による緩急のつけ方がある種音楽的なグルーヴを内包しているようなところがあり、主人公らのボルテージが高まっていく様子ともリンクしながら我々を物語の最深部まで引きずり込んでいくかのような印象的な演出も施されているが、最も我々の心を激しく戸惑わせるのはジェシーケイリー・スピーニー)の「撮る」というアクションであるはずだ。

また、上述の2つのアクションによって巻き起こるエモーションとも関連しているのが作品冒頭から用いられる、ぼかしである。要は目に見えているもの、心で感じたり考えたりしているあらゆる物事に対して結ばれている像が崩れていく、変化して新たな状態へと移行していく瞬間のダイナミクスを視覚的に表すための演出としてレンズのぼかしが機能しているのだ。東西で分断された現代の北米における内戦という設定もこのダイナミクスを提示するためのアナロジーとして活きてくる。我々はいま、今作において提示され続けるような恐怖と興奮というエモーションによるズームアウト/ズームインを繰り返してしまうがために揺らぎが生じる不明瞭で頼りない視界を通してこの世界を捉え直そうともがいているのだと、そのようなメッセージが内包されているようにも思えた。

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今作は3本それぞれ独立した内容を持つ物語で構成されていて、いずれもシュールかつインモラルなトーンで主体性が剥奪された人物たちの物語が展開されていく。使用されるモチーフにも共通しているものがあり、3本とも同じ役者が続けて出ていることで永遠に出口の見つからないループに嵌っていくかのような気味悪さにも繋がっていく。

1本目の「R.M.Fの死」では主人公が自分の足で移動する瞬間はほとんど省かれており、ジャンプカットで次の瞬間には全く違う場所にいるような場面の繋ぎ方が多用されることでジェシー・プレモンスが演じる役柄の主体性のなさが視覚的に強調されてもいる。彼が自宅やオフィスの窓からぼんやりと外を眺める姿も印象的で、不協和音が絡むピアノの劇伴との効果も相まって常に周囲の他者や社会と噛み合うことのない居心地の悪さは強烈だった。そういった彼の主体性の無さは勤めている場所からのとある常軌を逸した指導(?)によるところはあるのだが、それを差し引いても結局あまり変わりがないことが明らかになるのはバーでエマ・ストーンをディナーに誘うための口実を生み出すためにわざと自分の片足を捻挫させて彼女に声をかけてもらえるようにする場面で、決して自ら口説きにいくようなことはしない。

この怪我をする(あるいは死に至る場合も含む)グロテスクな描写はその後の物語においても共通して描かれ、正直、劇場で観ている間は何度も面食らってしまうような瞬間が何度もあった。そのほとんどが登場人物たちが意図的に事故や負傷を引き起こしていて、まるで自ら主体性を差し引くことで他者や集団に擦り寄る口実を生み出したいがために実行しているようではある。ただ、それが効果を生むのは男性の場合のみであり、エマ・ストーンの役柄を筆頭として女性たちは酷い目に遭い続けてしまう。これに関してはウェブ版エレキング三田格による「哀れなるものたち」に関する文章の内容も踏まえながら観ていたのだけれど、たしかに徹底的に女性が社会においてまともな主体性を獲得することの不可能性のようなものに言及し続けているところはあり、個人的にも少し困惑した。作品冒頭から流れるEURYTHMICS “Sweet Dreams”のリリックと呼応しているところもあるが、エマ・ストーンは7つの海を冒険する前に自動車をスリップさせ道路脇の障害物に激突する。

今作に作家自身による潜在的な内面の吐露としての側面があったとして、これを観たひと、特に女性はどのように感じたりするのだろうかと少し気になった。

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今年に入ってから劇場公開された黒沢清作品は「蛇の道」と短編作品である「Chime」、それから本日公開された「Cloud」の3本なのだけれど、それらの内容を比較しながら観ると、まずわかりやすく浮上してくるのは母性と父性の二項対立の構図であるように思えた。「蛇の道」の主人公である柴咲コウの役柄と「Cloud」における奥平大兼のそれを通して、その両極について少し書いてみる。

喪失による深い悲しみと怒りを原理に思考や行動を展開する「蛇の道」の柴咲コウ扮する小夜子は母性のある種究極的なあり方を示していて、男性(性)が支配する社会構造に対して端からそこに必要以上に近づかず遠くから状況を把握し、殺し合いは男同士でさせているような印象を受ける。要は、「男のためのゲーム」に参加することの無意味さ、虚しさを最初から知っているが故にそれに対して有効な振る舞いを行うことが可能であった、ということなのではないか。

それとは対照的なのが「Cloud」における奥平大兼扮する佐野だ。彼が有しているのは母性というよりは主人公の菅田将暉扮する吉井に対する義理、道理のようなものであり、それはある意味では「男のためのゲーム」を駆動させる原理としても考えられないだろうか。それは例えば雇用主と労働者の関係性を成り立たせる、肉体と時間の拘束に対して支払われる賃金のようなものであるだろうし、こと佐野においては転売屋業務のアシスタントとして雇ってもらったことに対する吉井への恩義が行動原理としてあるのは間違い無いだろう。ただ、そういった彼の感覚には先述の小夜子が有するような母性的なしなやかさはおそらく皆無で、ベースにあるのはあくまで損得勘定であるが故、ラストのとある行為に何のためらいもなく及ぶことが出来るのだろう。徹底的な断絶の力=父性として、佐野は描かれているというのが個人的な印象だ。

では、肝心の菅田将暉は果たしてどちら寄りなのか、というところが今作の主な推進力として機能しているのかなとは思うし、今作においてただひとり女性(性)を体現する古川琴音扮する秋子が辿る道筋もまた興味深かった。彼女は完全に「男のためのゲーム」の外側に立って物事を見ることが難しい立場であったのだろうということであり、実際それも彼女が有する母性がひとつの要因にはなっていたのだろう。また、そういった各人物の人間性を銃の扱い方で端的に描き出していくような演出も非常に象徴的だ。

もうひとつ、特にアイロニカルな顛末を辿る人物は「Chime」に繋がりがあるのだけれど、これには登場の瞬間素直に驚いた。この人物が体現するのは、先述した両極のちょうど真ん中に位置するような、言ってしまえば「何者でもない人間」であるのだろうし、それは実際この文章を書いている自分を含め多くの人が近い立場にあるようにも思えるのだけれど、本当に見るに耐えない有様になってしまうので逆に笑えてくるような気がしなくもないが、やはり辛い。今年の黒沢清の3本はどれもズシっと、半端ではない重みがある。現代社会に対しての彼の素直な雑感、ということではあるのかも知れないけれど、突きつけ方には容赦がない。

最後にThe Novembersのライブを観てから、気づいたらもう5年が経っていた。どうしてその間見に行っていなかったのかは何故かあまり覚えていないのだけれど、去年の4月にリリースされた「かなしみがかわいたら」という曲を聴いた時は、もう解散してしまうのではないだろうかと一瞬思ったりもした。その頃は新作もしばらく出ていなかったタイミングでもあり、割と感傷的なムードが漂う楽曲に対しての勝手な印象というか、ある種のショックを感じたのは今でも思い出せる。だからこそ、その年の終わり頃に出た新作”The Novembers”には驚かされた。小林の歌声が力強く中央に据えられ、アレンジも今まで以上に緻密で、かつストレートな芯の強さが感じられたからだ。落差があった分、しばらくは聴くたびに涙を流していたほどお気に入りのアルバムになった。

とまあ、そんな流れもあって、しかもたまたま都合の良い日だったこともあり今回のワンマンを観に行ってきた。先述した新作を聴いた時点でなんとなく分かってはいたけれど、もうそこにはかつての耽美で儚いリヴァーブとディレイのベールに雲隠れしていくような脆さ(もちろんそれはそれで素晴らしかったのだけれど)はなくて、とにかく身体性に訴えかけてくるかのような芯が太く、筋肉質でありながらも同時にセクシーな音像が繰り出され続けた。自分はとにかく終始頭を振り続けながら聴いていたので、あのリキッドルームの空間の中ではギターのケンゴマツモトと自分の頭を振っていた回数はほとんど同じだったのではないかとも思う。

5年ぶりということではあったけれど、ノスタルジーに浸る隙は一切なかったのがまた驚きであり、新しいなにかが始まっているのだろうなというバンド内のムードが存分に感じられた。帰り道、耳鳴りのノイズだけが懐かしかった。

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言葉になりきらない、やわらかで曖昧な輪郭だけを伴った気持ちのスパイラルがすぐそこまで迫ってくる。それは作品冒頭で初雪に見とれ心を奪われている主人公のタクヤの姿が体現しており、その後も繰り返しさくらや荒川らの視線を通して描かれていく。表情でスピンを続けるさくらの姿に見惚れるタクヤ、そしてそんな彼の姿を見つめる荒川、そしてさらに無言でスピンを続けながらも気持ちが荒川へと向いているさくらといったようにそれぞれの視線が循環を描いている象徴的なシークエンスが提示され、物語も徐々に推進力を上げ始める。

今作の分かりやすいルック的な特徴として、正方形より少し横幅が長めになったくらいに見えるスタンダードサイズと呼ばれる画面のアスペクト比が採用されていること、そしてやわらかな光に包まれた田舎町の雪景色やスケートリンクといった、おそらく多くの人がやさしさや安心感を想起すると思われる画作りが施されていることなどが挙げられるだろう。それらは今作のゆったりとしたテンポ感の物語を鑑賞するにあたっての心地よさを担保すると同時に、それぞれの登場人物が抱えている、触れるとすぐに粉々になってしまいそうな儚い思いや感情の数々とリンクしていくことで常に一定のスリリングさをひっそりと忍ばせ続けているように思えた。視野が限られているからこそ自分だけがそこから見ることが出来る景色、そして見過ごしてしまう誰かの思い、さらにはやわらかで曖昧な輪郭だけを伴った、言葉になりきらない感情の美しさともどかしさとが、まるでタクヤとさくらが氷上を滑走していくシークエンスの如くクロスしては横並びになり手を取り合い、そしてまた離れていく。そうした過程を経て、曖昧な輪郭はやがてスケートリンクの氷のように表面が削られ、磨かれ、洗練されていく。

また、吃音を抱えているタクヤが自らの思いを言語化しようと試みてから実際に口から言葉が発されるまでの間が象徴的なアナロジーとして機能しており、そこにおいては決して無駄な時間が流れているわけではないということ、身の回りの様々な人々との日々の記憶や彼ら彼女らに対しての思いなどがその過程において構築され続けているのだという事実(そしてそれは決して彼だけの特別なものではない)が、あのラストショットによって結実する。

それにしても、メインの登場人物3人のやり取りにおけるエモーションの豊かさはこの上なく素晴らしいものである(The Zombiesが流れる湖のシークエンスの喜びたるや!)と同時に、荒川とそのルームメイトであり恋人の男性ふたりの部屋でのやり取りの瑞々しさも個人的には印象的であり、日常における素朴なユーモアが醸し出される瞬間を切り取る手腕の巧みさは見事としか言いようがないように思えた。あとは、そう、中学一年生の男の子が成長期まで一歩手前の時期にだけ履くことが出来るスケートシューズの小ささに、狂おしい思いを抱かずにはいられなかった。

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思いのほか色々なことが起きて、若い主人公たちが想像以上に大変な目に遭うというアホみたいにシンプルな驚きがそこにはある。予告編をチラッと見た程度で観に行ったので序盤の方などはかなりテキトーな気持ちで観ていたし、ルックなどもフレッシュさには若干欠けて地味だなというようなことを思ったりもしていた。しかし、30分くらい観ていくと序盤で提示されていた各要素が絶妙に噛み合いながら物語にいくつものレイヤーを生み出していくことで一気に推進力が増していく。若年層の貧困、AIにコロニアリズムといった現代的なイシューが盛り込まれ、さらには「人類補完計画」的なものまで現れたりもしながら荒廃した宇宙ステーション内でのスリリングなサバイバルが展開されていくのだけれど、そういった複数の諸要素がかなり丁寧に緻密に構成されている印象を受けた。実際、スリラーとしてのエンタメ的な楽しさはしっかり担保されているものの、それぞれの登場人物が辿る顛末などはどれも非常にシリアスでありアイロニカルでもあり、辛いところがある。特に、お腹に赤ん坊がいるケイは事態の全容もほとんどわからないまま本編を通して辛い目に遭い続けること、そしてアンドロイドの黒人男性であるアンディが終盤のとある場面に差し掛かるまでは、ほぼ都合の良い操り人形的な存在のようでもあることなどは、作り手による非常に切実な現代社会批評であるようにも思えた。社会構造から逸脱しようとする者、従順に従ってみせる者、そしてその構造の上部にいる者、それら全ての存在をエイリアン=ゼノモーフが容赦無く殺戮していくことで、物理的にも精神的にも既存の構造からの出口が見えない(主にZ世代の視点を通した)社会の閉塞感が可視化される。そしてそれに絡めると、タイムリミットに追われる演出が多いことも象徴的であったように思われる(実際、アンディがタイパを優先しすぎて主人公のレインたちを危うく見殺しにしかける場面がある)。

と、まあ、割と辛かった部分ばかり書いてしまったけれど個人的には単純にホラー/スリラー映画としてかなり楽しめた。エイリアンの負傷部分から流れ出る硫酸がやたら全編通して脅威として主人公たちに文字通り降りかかってくるところや、終盤に現れる「人間2.0」みたいなやつが他人を食い殺そうとするだけのクソ野郎でしかないところなど、悪趣味なユーモアとして楽しんでもいいのかな、と。