夜行列車の想い出 (original) (raw)

今から約5年前に弊ブログで2019年11月29日に「夜行列車での出張について」記事UPしたらこのブログのコミュ(SNS)で一部の人から何故か好評で続編UPを希望していたけどこのブログは想い出夜行列車レポートがメインコンテンツだけど5週間連続UPしたので息抜きの意味で今回UPした。以前は出張で夜行列車に乗るなんてはそれこそ年間に6回か7回くらいだったけど1998年からいきなり2桁増えて1998年は13回、更にまだ集計してないけど1999年はそれを超えそうな勢いで増えてる。

異例の出張夜行列車利用が多いのは地方都市だと朝9時に仕事先の企業に到着出来る時間帯に飛行機では無理(一部地方都市除く)なのと相手先は朝一番だと時間的に余裕があるらしく、依頼主企業が自社のIT導入でPlanningからintroductionまで営業部が契約した案件を実際に自分達が直接現地に赴き、詳細説明や導入状況のサポートという仕事が大幅に増えて情報通信ソリューション・サービス分野からIPプラットフォームまで担当する様になって特にIPv4、そして次世代プロコトルのIPv6「Internet Protocol Version6」への展開で某大手情報通信業界に勤める自分は急激に出張が増えた訳である。

前置きはこんな感じにしていよいよ本題へ入ろう、前作の「夜行列車での出張について」ではどんな夜行列車に乗車したかは発表してないので自分が始めて出張に行った1981年以降をランキングにして紹介してみたいが膨大な数なので順位だけで乗車回数は省略します。1位「銀河」、2位「あさかぜ」、3位「北陸」、4位「はくつる」、5位「北斗星」「出雲」「あけぼの」、6位「瀬戸」、7位「サンライズ出雲・瀬戸」、8位「鳥海」。少数派は「さくら」「エルム」「みずほ」「富士」「出羽」「能登」で1位の「銀河」は20系・14系14形・24系とブルートレイン銀河3世代利用させてもらったが1981年に利用した時の牽引機は宮原機関区のEF58だった。

特に出張・初夜行列車だった1981年4月23日の寝台急行「銀河」は今から43年以上も前なのに当時の想い出が脳裏に記憶として焼き付いている。当時の上司だったO槻課長と先輩を含む4名で行った大阪出張では居場所がない3段ハネでナハネフ22の展望区画を案内してそこには灰皿も缶ビールを一時的に置くスペースもあって課長らに喜ばれて国鉄(現JR)での出張ルート作成や時間に運賃算出が早いから夜行列車での出張を一手に引き受ける様になり、自分の趣味も露見して有給休暇取得がしやすい環境になってしまったのだ。

2位の「あさかぜ」に出張で初めて利用したのは1983年の春だったと記憶するがこの時は同行者がいてたまたまその人も旅好き且つ酒好きだったので東京駅を発車早々に日本食堂・門司営業所が担当していた食堂車へ行った。オシ24の内装はボロだけどメニューは豊富でJR化になって食堂車内装も新しくなった日本食堂・新博多営業所のメニューに比べて品数も多く、凝った料理も多かった。最初はビール大瓶で乾杯してからダルマ「サントリーオールドの愛称」のミニチュア瓶で水割りで強かに飲んだけど料理も多数とって割勘でも予算オーバーだったが楽しい夜だった。

しかし下りあさかぜ1号利用だと広島県から山口県迄で柳井駅より先に行く事はなかったので食堂車で朝食を食べる事は1回もなかった。3位の「北陸」はまだ個室が連結される前から出張で乗ったが1988年3月改正前までは上野21:50発/金沢6:34着の利用し易いダイヤだったけど少しずつ運転時間が縮んで1993年12月改正には上野23:03発/金沢6:30着に変わり、必然と睡眠時間も短くなってゆく。4位の「はくつる」はまだ2往復体制の頃だけど割りと乗るようになったのは24系客車に変わってからで出張で25形0番台に始めて乗った寝台特急はこの「はくつる」が最初である。

そして意外と出張に利用しない可能性が多そうな6位に「北斗星」が入ってる。出張に利用すると言うよりは翌日が土曜日だと帰路は「北斗星」に乗って帰る事が多く、97%が上り列車の利用。いくら出張や出張の帰りでもレジャー性の高い観光列車でネクタイ&スーツ姿で乗り込むのはいくら仕事でさえ、憂鬱になるのは仕方がないけどやはり気が重い。しかし札幌市内で趣味仲間との飲み会参加で職場から帰宅せずに直で上野駅に行って19:03発の北斗星に乗る時はそんな気分にならないのが不思議。しかしネクタイ&スーツ姿でロビー室にいると相手も身構えるのか出会いも少なかったと思う。

あと特筆して挙げるとすればラストの急行「能登」だ。まだ自分が20台で若気の至りというか、出張旅費を安く上げて懐に入れるために帰路は翌日通常出社日なのに「能登」の自由席で帰る失態をやってしまった。当時の急行「能登」は14系寝台車+14系座席車で運行されており、空いているため前の席を回して1BOX作って寝たけど確実に寝不足で翌日の仕事が辛かったのを覚えている。下り「北陸」で金沢まで行き小松市富山市の出張だったけど金沢~小松~富山~金沢は特急自由席に乗るため、北陸ワイド周遊券まで用意して移動中の特急自由席料金と能登急行券を浮かせる事に成功したけど今回で懲りて出張で2度と座席車には乗ってない。

職種や業種によって長距離出張の多さ・少なさ尺度は不明だけど何故か自分は長距離出
張が人に比べて多かった。 鉄道が好きだから乗車列車や時刻・運賃等を調べるのはお手の物だし、普段から愛用してる大型時刻表(国鉄時代なら交通公社の国鉄監修時刻表・JRなら弘済出版[現・交通新聞社])なら使い慣れているので即座に該当するページを出して上司や先輩たちを驚かした事はあるのだが、そういう事が長距離出張の多さに関係しているかは定かではなく、しかしながら突発的な出張でも早期に出張プランニングを立てられる特性が生かされたのかも知れないが・・・。

僕は長距離列車での出張が好きだし、会社の金で寝台列車に乗れれば最高でそれが苦にならないけど寝台列車と聞くだけで尻込みする同僚・先輩・部下が多かったのは事実である。寝台列車=寝れないとの公式がある様で狭い52㎝ベッド&3段寝台の20系「銀河」なら分かるけど旅好きや鉄道好き以外は寝台列車は認知されていないため、自分が所属していた部署では特に夜行列車出張は僕が一気に引き受けていた感じである(笑)。所詮は鉄道ファンの独りよがりかも知れないけど、長距離の出張へ行けば有名な銘菓を家族の土産に買っていたので旅好きの嫁からは喜ばれたのは事実である。

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本来なら本日(2024.9.30)のブログはお休みする事になっていたが折角なので短く書いてみる事にした。本日現在でも定期の夜行列車は「サンライズ瀬戸・出雲」以外は消えたままだけど今年の7月から9月にかけてJR東日本が2024年5月17日付のプレスリリースで新宿から大糸線の白馬まで7月12日,8月9日,9月13日・20日の4日間に臨時特急「アルプス」の運転を発表してE257系・9両編成の全車指定席という触れ込みで発表されて後に駅構内でもポスターを見かけるようになった。

特に長野県まで行く用事はないし、乗る予定は全くなかったのだがマークでも付けば撮影に行くのだがE257系はLED表示でアルプス表示は出来ない筈で撮影もする気は全くなかったのである。使用車両の詳細が分かり、2020年3月14日改正で特急踊り子用として使われる事になったE257系2000番台使用と分かったので更にヤル気が萎えて来たのだけど知人が7月12日発の臨時夜行特急「アルプス」に乗車する事を聞いて乗車後に感想を聞いてるので後で紹介したいと思う。

新宿23:58発の白馬6:22到着というダイヤの9095Mだが、新宿23:45発の急行「アルプス17号」417Mの時刻に似ているけど流石に特急だけあって417Mより40分早く、白馬駅に到着している。JR東日本管内から長距離の座席臨時夜行が消えて、臨時列車では上越国境の手前まで上越国境山開き関連の臨時快速夜行(途中から臨時特急夜行)が走っていたけど夜行列車とは言えない様な時刻設定で3:10に土合へ到着していたが特急「アルプス」の設定は正に座席夜行ファンを彷彿とさせた復活劇であると私は思っている。

JRは2002年12月1日改正で廃止した急行「アルプス」の代替役割を持たせた臨時快速夜行「ムーンライト信州」を2002年12月1日改正から2013年12月30日まで走ったが廃止になった後は暫く沈黙が続いたけど急行「アルプス」廃止22年後に特急「アルプス」が復活という夜行列車ファンにとってはありがたいニュースが飛び込んで停滞していた時期にあたらな動きは紅葉観光シーズンの10月やスキー時期の翌年1~2月に北アルプスの山開きが行われる6月にも特急「アルプス」が運転される事を期待している。

今回の中央東線・臨時夜行列車「アルプス」を快速設定にせず、特急種別に設定したのはJR東日本の大英断だと私は評価したい。もう青春18きっぷで夜行列車に乗せるのには甚だ時代錯誤だと感じており、快速指定券だと500円台という安さから見込み買いをして払い戻しをしなかったり、隣の席まで買い占めるマナー違反(旅客営業規則第147条第5条により、指定券類は1人1枚=1席と定まれている)によってみどりの窓口では満席なのに乗ってみると空席が多い事実が過去の快速ムーンライト系列や快速ミッドナイトで多かったのでそれを防止する意味でも特急化は有効だと思った。

個人的には青春18きっぷの廃止や大幅値上げ「5日間で18,000円」してもいいくらいだと心の中では感じているが今度臨時の座席夜行列車が新設されても特急でお願いしたいくらいである。さて7月12日の臨時夜行特急「アルプス」運転初日に乗車した知人から聞いた話を少しだけ書いて終りにしよう。新宿駅7番線ホームに入線した9095Mは大宮車のE275系2000番台9BでNA‐13編成がホームに入るとホーム上は鉄道オタクばかりで車内の乗客も運転初日だけあって8割の乗客が鉄道オタクとの事で車内は新宿駅を発車しても暫くは騒がしくて堪らなかったそうである。

窓際にはコンセントがあるのでスマホの充電が出来るのはいいけどリクライニング角度は浅くてE275系2000番台を夜行列車に使うのは無理があるとの事だったが深夜に減光もしてくれたけど本人はもう二度とは乗らないと懲りたようなコメントをしてくれた。私個人的には2009年に乗ったのが、最後の座席夜行列車でかれこれ15年以上座席夜行には乗ってないけど心の中では乗らなくて正解だったと安堵していた。66歳になって流石に座席夜行はお金をもらっても乗りたくないのが心境だ。でも特急の座席夜行が復活したら若い鉄道ファンは喜ぶから特急の座席夜行列車は今後の試金石として増えていけば実に喜ばしい事だと感じた。

※本日のブログはコメント不要に願います。10月7日からは通常のブログに戻ります。

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8月31日「火曜日」に出張で函館市まで行く予定がお盆休み前には決まっており、9:00からからプレゼンテーションを兼ねた説明と現物を兼ねた実装説明と会議があり、準備などで8:30くらいには到着したいのだが時間的には丁度いい臨時寝台特急「エルム」の運転は時期的に終了しているため、気は進まないけど「エルム」より函館駅到着が約1時間も早い「北斗星3号」のソロを押さえておいた。

1999年8月30日「月曜日」、18時まで残業してから上野駅へ向かうが、出張で下り「北斗星」に乗車するのは初めての経験なので何故か落ち着かない。函館駅までの利用なのでパブタイムは諦めて早寝必須だし、グランシャリオの和朝食も食べれないのが残念だけど仕事なのだと気を引き締めて上野駅13番線の北斗星9号車乗車口の案内票がぶら下っている箇所で待つ。なおタイトルが北斗星3号になっているけど1999年7月16日ダイヤ改正で従来の3号と4号「6003レと6004レ」が臨時列車格下げで81号・82号「8005レ・8006レ」になっているため、5号・6号「5レ・6レ」が列番繰上げで3号・4号「3レ・4レ」に変更になっている。

「業務連絡、トーサンバン回送3列車接近」の案内が流れるとホーム先端のやや奥のカーブから推進ライトを輝かして近付き、尾灯とテールマークが確認できる距離に近付いてホーム機関車後追いの推進運転で入線した。ホーム据付時刻と発車時刻は改正前と変わらず18:46入線の19:03発車だが編成は同じで運転時刻も変わらない。早速9号車のオロハネ25-502に乗り込み、9号車9番のソロに出張用鞄を置いて牽引機を見に行くと田端運転所のEF81-87だったがナンバープレートはエッチングしたタイプで田端のEF81では珍しく、北斗星運用になかなか充当されない星ガマでもある。

グランシャリオでシャワー券を購入してからソロ個室(1階)に戻るがオロハネ25-500番台のソロ(SA1車端タイプ)に乗るにも久々である。前回の1999年2月19日に上野19:03発の北斗星に乗った際は運よく、オロハネ24-501(SA1中央タイプ)だったので3年振りだと思われるが「北斗星3号」(3レ)は定刻19:03に上野駅を発車した。8月下旬というのに連日猛暑が厳しくて冷房が効いた職場から上野駅13番線まで移動するだけで大汗を搔いてしまい、ファスナー付きのポーチ(出雲3号・A1に乗った際にもらったアメニティセット容器)にタオルとソープを詰めて準備していると車掌がやってきた。

個室カードキーを貰って急いで7号車のロビーカーへ行き、シャワーを浴びてロビーカーの自販機でサッポロ・CLASSIC500ml缶を2本買って個室に戻ると列車は大宮(19:28-29)へ到着していた。早速冷えたCLASSIC缶の1本目を開けて乾杯するが夕飯にする上野駅の駅弁(江戸前あなご弁当「900円」・すし道中「700円」)を出す。連日の猛暑で食欲がなくて昼はざる蕎麦しか食べてなく、珍しく肉系の弁当は敢えて選ばなかった。シャワー後に飲むCLASSICは最高で早速、江戸前あなご弁当を食べながらCLASSICをゴクゴク飲むと気分は最高である。

飲む物飲んで食べる物を食べるとお腹もすっかり落ち着いて明日の仕事(出張)でプレゼン質疑に上がりそうな点を先に纏めてフォロー案を手帳に書き込んでいると列車は宇都宮(20:27-29)に滑り込んだ。顧客への提案・紹介などで多々行うプレゼンテーションだが資料を作るのに時間を要したOHP(オーバーヘッドプロジェクター)から液晶プロジェクターだとMicrosoft OfficeソフトのPowerPointで簡単に作れてプレゼンテーションする時も持参のMobile PCと液晶プロジェクターを繋ぐだけ(今はWI-FIで接続が当たり前になったけど)。

黒磯駅を定刻21:05に通過したのでまだ時間的には早いけど明日は朝が早いので今夜はこれで寝る事にしよう。寝具をセットしてベッドへ横になりながらもうじきパブタイムが始まる時間だな~なんて考えていたら微睡んでしまったようだ。就寝中の停車駅と時刻は以下のとおり「*は運転停車」・・・郡山(21:54-55)・福島(22:29-31)・仙台(23:30-32)・一ノ関*(0:37-39)・盛岡*(1:43-45)・青森*(4:13-20)・蟹田*(4:45-46)。目が覚めたのは津軽線から海峡線の高架区間を走行中で時間にして5:01の駅だと津軽今別駅付近で開業11年経過の青函隧道に突入したが流石に数え切れないほど通ってると珍しくなくなる。

竜飛海底駅吉岡海底駅もスルーして歯磨きを洗面を終らせて個室に戻ると青函隧道とそれに続く第一湯の里隧道を出て北の台地を走っていた。下車準備をしていると知内駅(現湯の里知内信号場)(5:46)と木古内駅(5:54)を通過して単線で線路規格も落ちる江差線に入ると速度もそれなりに落ちて渡島当別駅では上り高速貨物3064レを待機させたまま通過(6:09)して矢不来信号場では側線に上り貨物4096レを待機させて通過(6:17)すると自分が下車する函館駅が近付いて来た。七重浜駅を通過すると有川埠頭方面の函館貨物駅へ向かう線路と合流すると五稜郭駅を通過して函館駅に6:34に到着した。

改札に向かうため1号車方面へホームを歩いているとオハネフ25から外されたED79を見ると何とドラエモン色したED79で驚き。このカマは快速「海峡」専用の筈だが正面のナンバープレートもドラエモン色のペイントに塗りつぶされて側面を確認するとED79-19だと確認出来たが世も末な塗装の機関車で苦笑。函館朝市の食堂で海鮮丼を食べてから函館ハーバービューホテル「現フォーポイントバイシェラトン函館」で珈琲を飲んでからタクシーで出張先に向かった。「次週9月30日はブログUPお休みします」

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1999年8月6日(金曜日)、 大阪市内(淀川区中央区)で2箇所の出張を済ませて17:30過ぎから午後から訪ねた淀屋橋駅最寄の昔馴染の会社が宴会をセッティングしてくれてご接待されたのでそれにも参加して地下鉄御堂筋線を梅田駅で下車してJR大阪駅へ到着したのは21時を少し回った頃だった。この時間帯の上り方面新幹線はまだあるけど東京行き最終電車となる1068Aの新大阪発が21:18と間に合わないし、帰路の「銀河」急行寝台券も購入済みなのでゆっくり寝て行こうと思う。家族への土産を購入して10番線ホームの2号車乗車位置で待機していると宮原操から北方貨物線経由で回102レが21:53に入線。

牽引機は田端運転所のEF65-1053で「銀河」牽引機は下り/上りは別運用だけど客車は同一運用の様で2号車は往路に乗ったオハネ25-175であった。帰路も往路と同じく2号車13番下段で二晩続けて同じベッドに寝れるのはラッキーというかマルス発券してくれたJR北海道プラザ東京店のMRオペレーター嬢に感謝である。席に鞄を置いてホーム売店で飲料を買ってくるが今夜の宴会では飲みすぎたのでアルコール類は自粛して早寝に勤めよう。大阪駅を22:05に発車した急行「銀河」は新大阪(22:10-11)を発車すると車掌の切符拝見が行われ、寝具を敷いて浴衣姿に変身したらベッドへ横になる。

近年はやらなくなったけどカーテンの仕切りを閉じてそのまま横になって無心で目を瞑っていると夜行寝台列車独特の世界が広がる。TR217C台車がレールの上を走る音に連結器上にある渡り板同士の摩擦音やスリッパを履いて通路を誰かがペタペタ歩く音など。更に踏切通過のドップラー効果音に通路の扉を開閉する音に加えて牽引機のEF65PFが時たま鳴らすホイッスルの音を聞いてるだけで寝台列車の旅情みたいなものを感じる。時間帯からし新大阪駅を発車してすぐにまだ宵の口だけど23時を過ぎれば寝ている人ばかりなので余計に音が楽しめ様になるだろう。

昔は客車タイプの寝台列車に乗るとベッドに横になってから寝て意識がなくなるまでと目が覚めた時に自宅の寝室ではない場所で寝ていた事に気付いた非日常的な空間と時間の差に一喜一憂したものだが個室中心の寝台車が増えてかく言う自分も個室ばかり利用するようになって個室は開放B寝台に比べて防音・静粛性能が高いからその楽しみは減ってしまう。列車が速度を下げて京都(22:42-43)に到着すると我が2号車も想定していた人数以上の乗客が乗り込んだがカーテンから首を出して確認すると12人くらいは乗った模様である。

喉が渇いたので大阪駅で購入したポカリスエットを一気に飲んで再びベッドに横たわって毛布を掛けるが車内の冷房が効いてるので毛布が有り難い。山科駅の分岐までは起きていたけどその後の記憶が無いため寝たようだ。以降は就寝中の停車駅と時刻「*は運転停車」・・・大津(22:56-57)・米原(23:45-50)・名古屋(0:53-57)・*浜松(2:22-31)・*静岡(3:33-53)・富士(4:23-31)・沼津(4:48-51)・熱海(5:08-11)・小田原(5:31-32)。目が覚めたのは小田原駅より鴨宮駅寄りの酒匂川橋梁付近だったが車窓から相模湾の海が望める区間は完全に寝ていたようである。

昨夜大阪駅で買ったすっかり温くなってしまったビター缶コーヒーを飲みながらマッタリして洗面所が混雑する前に歯磨きと洗面を終らせてシェーバー使うにはまだ寝ている人が多いから横浜駅を発車してから行う事にしよう。いつの間に乗ったのであろうか、車内は下段がほぼ埋まって上段も使ってる区画が一部あって驚き。列車は駅が鎌倉市横浜市の境になってる大船(6:02-03)に到着、因みに駅長室がある区画が鎌倉市なのでJR大船駅鎌倉市になっているが因みに市境は川幅が狭い砂押川である。大船観音が見えて並走していた東海道線貨物線と分かれ、清水谷戸隧道を抜けると横浜(6:17-18)だ。

横浜を発車すると暫し、横須賀線京浜東北線京浜急行線と並んで走るので鉄道好きには堪らない区間であろう。僕は髭を剃って最後のトイレも済まして下車準備が終ると僕が大学4年生まで暮らした川崎の街を走り抜けて六郷川橋梁を渡ると東京都に入って品川(6:34-35)に入線。田端駅に行くにはこのまま東京駅まで行かずに品川駅から山手線外回り電車に乗った方が早いけど当時の休日早朝ダイヤだと大崎駅や池袋駅で2~3分停車する電車もあるため、今日はこのまま東京駅へ向かう事にしよう。そして急行「銀河」は定刻ダイヤの6:42に東京駅9番線に到着した。

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1999年8月5日(木曜日)、 大阪市内に2箇所の出張先の案件を抱えて新幹線では日帰りでは無理と分かり、出張では約3年半振りに下り寝台急行「銀河」の世話になる事を決めて昼休みに北斗星などの個室指定券入手でお世話になってるJR北海道プラザ東京支店へ昼休み中に往路の「銀河」B寝台券と往復の乗車券と翌日帰路の上り「銀河」B寝台を2号車の12番から15番辺りの下段というマニアックな注文をしたけど笑顔で発券してくれた。因みに帰路も「銀河」なのは午後から行く企業で夕方から宴会をセッティングしてくれているため。

当日は21時30分まで残業してからよく冷えた生ビール大ジョッキ晩酌付きの夕飯を済ませて東京駅へ向かった。南口階段から東京駅9番線ホームに上がると丁度急行「銀河」となる回送101列車となる編成が入線したところで早速2号車に乗り込むとオハネ25-175で1998年7月11日に下関運転所から宮原総合運転所に転属した車両でかつては「瀬戸」「あさかぜ3・2号」「安芸」で使われた車両なのである。2号車13番下段に出張用の鞄を置いて買物を済まして牽引機を確認すると田端運転所のEF65-1111だった。なお電源車はカヤ24-10で2000年4月に京キト転属⇒2001年3月に廃車になる運命を当時は知る由もない。

車内に戻って買ってきた缶ビールを一気に流し込むと急行「銀河」は23:00に発車したけど2号車は思った以上に客が少なく、自分を含めて10人も乗ってない有様で流石にマルスシステムが一番最後に席を照会する号車だ。しかし乗ってる自分以外の人達が2号車を指定したとは思えないのだがこの辺が謎である。有楽町~新橋界隈のオフィスビルの灯りを見ながらライトアップした東京タワーが見えて来ると田町駅から旧東京機関区方面に進んでロクイチこと、EF58-61は倉に入っているのか目撃する事は無理であった。そういえば検札の際に車掌へ聞くと今夜の寝台は半分弱は埋まっているとの事であった。

品川(23:07-08)発車して新八ツ山橋「R15」陸橋の下を潜り抜け、鉄道の父とも呼ばれた井上勝の墓がある東海寺大山墓地の横を通り抜けて並走してる山手線の線路を別れ、目黒川橋梁を渡ると急行「銀河」の速度が向上した。「銀河」に乗るのは久々で前回乗車したのは1997年11月にJR西日本主催の「さよなら20系客車号」撮影で乗車してその前は1997年2月に子供と京阪神の電車を乗りに行った時以来となる。仕事(出張)での下り「銀河」乗車は更に古く、1996年1月13日以来で約3年7ヶ月以来だ。新幹線「のぞみ」の運転本数も増えて出張ではすっかり下り「銀河」を利用する事はなくなってしまったのである。

お盆休み直前の業務多忙残業で横浜到着前に眠くなってしまい、ベッドメーキングを済まして横浜(23:25-26)発車前に横になった。以降は就寝中の停車駅と時刻・・・大船(23:41-42)・小田原(0:14-15)・熱海(0:36-37)・静岡(1:48-55)・*浜松(2:54-3:03)・*名古屋(4:26-36)・岐阜(5:01-02)・米原(5:43-45)・大津(6:33-33)「*は運転停車」。目が覚めたのは大津駅停車中で何とか、ギリギリ7時間寝れた計算だけど出来れば京都駅まで寝ていたい気分である。昨夜東京駅で缶ビールと一緒に買ったビタータイプの缶コーヒーを飲みえて洗顔と歯磨きを済まし、シェーバーで髭も剃った。

そういえば車内を見ると乗客は乗っているけど12人足らずでやはり空いてるが他の号車は確認してないので正確には判らない。列車は東山トンネルを出ると京都(6:43-44)に到着したが下車する2号車の乗客は皆無であった。京都駅を発車すると向日町駅の先に通路側だけど京都総合運転所が見えて1995年8月までは難読駅で神足駅だった長岡京駅を通過して天王山が見えてくると山崎~高槻間で京都府から大阪府に変わったので下車準備をしていると新大阪に(7:13-14)到着。大阪の高層ビル群が見えてくると淀川を渡って定刻7:19に大阪駅3番線ホームに到着した。

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1999年7月24日(土曜日)、 快速「SLばんえつ物語号」で新津~会津若松~新津間の乗車を楽しんだ僕ら親子は新潟駅まで行きお土産(浪速屋の元祖柿の種・越後の笹団子)を買ってから新潟駅近くで夕飯にした。僕は和食系の肴でお酒も飲みたいし、子供は洋食が食べたいからファミレスで夕飯を済ませて新潟駅から945Mで村上駅まで向かった。村上駅の待合室で待っていると快速「ムーンライトえちご」の改札が始まって3948M「新潟から3720M」が入線すると扉が開き、2号車のモハ164-853(上沼垂区M5編成)に乗り込んだ。

乗車して早々に快速「SLばんえつ物語」の乗車感想を聞いていると3948M・快速「ムーンライトえちご」は村上駅を22:31に発車した。次回から「SLばんえつ物語」を撮影するのも自分で計画プランを制作して撮影なら自分で列車移動して撮影地まで歩くのだよと釘を刺しておく。早く同じ趣味の友達を見つけて情報共有しないと撮影地情報や運転情報などに枯渇するし、撮り鉄でも乗り鉄でも若い頃は同年代の友達を作って一緒に行動した方が格段に楽しくなるのは言うまでもない。息子と鉄道趣味について色々話していると坂町(22:41-41)・中条(22:48)・新発田(22:58-59)に到着した。

今回も早朝で青春18きっぷを使い終わるのが勿体ないと思った息子は田端駅で別れて一人別行動で上野7:24発の臨時快速「碓氷号」で横川駅まで行くとの話を聞いていると白新線を走行中の列車は豊栄(23:09)に停車して5分停車の新潟(23:22-27)に到着。いつもの様にホーム自販機で「菊水ふなぐち一番絞り」を購入してファンタグレープの子供と乾杯していると5分停車を終えて新潟駅を発車すると進行方向を変え、列車番号を3948Mから3720Mに変わった快速「ムーンライトえちご」は信越線に入る。上沼垂信号所、越後石山駅を経て22分停車の新津(23:40-0:02)に到着した。

新津駅では寝台特急日本海2号」と高速貨物2082レの先行通過待ちのための停車で22分も停車してるのに駅前に24時間営業のコンビニが無いのが残念(ただし現在は新津駅東口駅前に24時間営業の「デイリーヤマザキ 新津駅前店」が営業している)。新潟駅ホームの自販機で買った清酒1合アルミ缶を2本開けて新津発車前に僕は轟沈してそのまま寝てしまったらしい(息子談)。以降は就寝後の停車駅と時刻・・・加茂(0:16-16)・東三条(0:22-23)・見附(0:34)・長岡(0:43-1:09)・高崎(3:39-40)・大宮(4:30-30)。目が覚めたらちょうど列車が大宮駅へ到着するところで急いで下車準備をしていると赤羽(4:48)に到着。

急いで親子で赤羽駅にて下車して当時の自宅寄り駅があった田端駅まで行き改札を出てからあと有効期限が1日分ある「本日分を除く」青春18きっぷと横川で峠の釜飯でも食べなよと1000円カンパして僕だけ自宅に帰宅した。因みに青春18きっぷに有効期限1日分だけ残っていた分も子供が使ったらしく返却はされなかった。

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1999年4月29日に磐越西線・新津~会津若松~新津間でC57-180牽引による12系6BのSLばんえつ物語号が週末や祝祭日を中心に運行されるようになって6月の梅雨入りする前に4月から中学1年生になった息子を連れてマイカーで追っ掛け撮影をした後にに息子が「やっぱり乗りたい」と言いだして今回の旅に発展したのだが、本当は学生なら列車移動で撮影地まで重い撮影機材を担いで何キロも歩いてナンボが学生撮り鉄の姿だと思っているため、最初から楽な撮影はさせたくなったのが本心である。

1999年7月23日(金曜日)、 本来なら7/30~8/2の勤務先1回目の夏季休日に合わせて計画していたがこの4日間は「SL磐梯・会津路号」として郡山方面に行くため、一日間で新津~会津若松間を1往復しないので1週早めた23日の下り快速「ムーンライトえちご」に乗るために新宿駅7番線ホームで入線を親子で待っていた。例によって例の如く22:50に快速「ムーンライトえちご」となる回送電車が入線したので6号車に乗り込むと上沼垂M1編成のクモハ165-76に乗り込んで網棚に荷物を置いてから自分は飲み物を買いに行って戻ると息子は165系を入学祝いで買ってもらったデジEOS-KISSで撮影していた。

ホームで撮影しても大した写真にならないからローアングルで印象的に決めるとかシャッター速度を1/15secにしてホームを歩いてる人や乗り込む乗客だけブラして「流して」撮影すると見応えのある写真に出来るとアドバイスしたが、カメラ手持ち1/15secで撮影するには修行が必要である。車内に戻ってポテチをツマミながらビールとコーラで乾杯いていると定刻23:16に快速「ムーンライトえちご」(3927M)が新宿駅を発車。夏休みに入って最初の金曜日で明日から土日曜日の休みなので車内は殆どが青春18きっぷ族であろう若者が断然多く、今夜の指定席は既に満席となってる車内放送が流れてきた。

因みに今夏の快速「ムーンライトえちご」も多客期・増車も9両編成で運転される日もあって村上発は7/23.25.31.8/2.6.8.11.13.15、新宿発は7/24.26.8/1.3.7.9.12.14.16でそれ以外の日は6Bで運転となっている。これらは新潟支社の共通通達による情報だが予備車も使ってフル運用なので運用が途切れる7/27から7/30は交番検査などによる運用停止なのだと思われる。それにしても予備車なしでもし故障やトラブルが発生した場合はどうするのだろうか?1ユニット(MC165・M'164・TC165)切り離して6Bで運転か上沼垂区の165系K編成に差し替えになるのか気になるところ。

K編成は廃車でK2編成しか残ってないし、A編成は全て廃車済みであとは残っている上沼垂区の165系はα編成「旧シャトル舞浜」しか残ってないので1ユニットカットが現実的かも知れない。因みにA編成とは3編成のみの初代ムーンライト車「旧 M編成」で急行赤倉に使用されていた。列車は池袋(23:16)と赤羽(23:26)に停車して埼京線山手貨物線東北貨物線を経由して大宮(23:40-43)に停車、3分停車中に新潟貨物ターミナル行き高速貨物Aを先行させて高崎線へシフトする。桶川あたりで車掌が来たので指定券と早速翌日の日付が2個捺印してある青春18きっぷと高崎までの乗車券を呈示。

日付が変わる高崎駅まではオレンジカードで買える額面を自販機で買って残り区間は車内精算という形をとった。これで我家在庫のオレンジカードは全て使い切り、完全処分する事が出来てめでたい。因みに最後に使ったオレンジカードは1987年2月に購入した青函連絡船のセット物である。今回は終着駅の村上まで乗るので新潟過ぎても寝れるため、夜更かしして高崎駅ホームの自販機で缶ビールでも買おうと腹積もりはあったのだがたぶん熊谷駅の先は記憶にないので寝てしまったみたいである。以降は就寝中の停車駅と時刻・・・高崎(0:55-1:28)・長岡(4:05-13)・見付(4:24-24)・東三条(4:33-33)。

加茂(4:40)・新津(4:53-54)・新潟(5:06-13)・豊栄(5:25)。目が覚めたのは新発田駅の手前で佐々木駅付近だったと思うがそれにしてもよく寝れたので気持ちよい朝だ。子供が新潟駅のホーム自販機で購入した様でサントリーボス缶ブラックを手渡されたが本人は既にコーラを飲んだとの事。列車は新発田(5:35-35)を発車すると中条(5:46)・坂町(5:54-55)に停車して終着駅の村上には定刻6:05に到着した。折り返し快速3922Mにそのまま乗って新潟駅へ行き、朝食を食べてから新津へ移動してから新津運輸区へ赴き、庁舎2階の運転当直室で構内撮影許可をもらってから側線に停車中のDD51-745を撮影。

運転当直室で運転報を見せてもらってから新津駅に戻り、「SLばんえつ物語」に一往復乗車して楽しんだ。因みに倉内のC57-170は整備中で中には入れてもらえなかったので子供は不満顔だったけど僕は大好きな機関車であるDD51-745が撮影出来たので満足であった。

★★★★★Memories of the night train★★★★★