あるデモクリトスのことば (original) (raw)
「慣習的な言い方によれば、色があり、甘さがあり、にがさがある。しかし真実には
原子と空虚があるのみ……」(斎藤忍随訳)
「あわれな心よ、おまえは我々から確信を得ておきながら、その我々(諸感覚)を打ち倒すのかね。我々の打倒はお前の転倒なのだ」(内山勝利 他訳)
前者は斎藤忍随の『知者たちの言葉』(1976)の最終章にある。この新書ではギリシア哲学者の代表としてヘラクレイトスとパルメニデスを主に扱い、そして第三の哲学者として最終章にデモクリトスを扱っている。
後者はカーク&レイブンの『ソクラテス以前の哲学者たち』の第2版からだ。
この2つの断片はシュレーディンガーがその著『自然とギリシャ人』で引用してから科学者の間で賞賛の念とともに認知されるようなった古代ギリシャの哲学者の言葉だ。
アブデラのデモクリトスは言わずと知れた古代の原子論者だ。その膨大な著書は散逸して、断片が200ほど伝えられているに過ぎない。プラトンの呪いといわれる。
しかし、アリストテレスの自然哲学はデモクリトスの恩恵を多分に受けていると想像される。
2つの断片の引用は、水谷淳訳の『自然とギリシャ人』の合体された引用のほうがより印象的だろう(そもそも、わけた意図が解しかねるのだけれど)。
知性は「見かけ上は色が、見かけ上は甘さが、見かけ上は苦さがあるが、実際には原子と空虚しかない」というが、感覚は「哀れな知性よ、お前はその証拠を私か借用しているのに私を負かせるとでも思っていいるのか? お前の勝利はお前の敗北でしかない」
読んでの通り、冒頭の二つのを結合した方がメッセージは明確で深刻なものとなる。
感覚与件から理知的な推論の結果が得られるが、原子と空虚の存在という妥当な結論は感覚を否定する。感覚与件が仮想的で真実でないものだとするなら、そこからの推論は正しいとは言えなくなってしまう。
ありのままの認識などはあり得ないわけだ。それどころか原子論すらも存立基盤が揺らぐ。
【補足】
古代のヒポクラテス伝によれば、医師の聖人ともいえるコスのヒポクラテスは、他ならぬアブデラのデモクリトスであると伝えている。ソラヌスの『ヒポクラテスの家系と生涯』及びツェツェース『千行詩』ならびに『スーダ』でもそう書かれている。