かくも、人は信じやすい。非合理で非科学的なものであっても。いや、それ故に。 (original) (raw)
創価学会の第二代会長である戸田城聖は、組織人であり、宗教ビジネスとして大成功を遂げた人と見ている。
何しろ、戦後ゼロから10年間で75万世帯を達成(1957年 昭和32年)。その後継の池田大作の代になると、750万世帯(1970年 昭和45年)。
公称会員数1,200万人。聖教新聞の発行部数550万部。その西部である公明党は政権与党。多いときの投票数は800万票余。
戸田城聖は、それだけの大組織の基礎を築いた。
話し方を聞くと、庶民の心をわしづかみする魅力があり、話し方も絶妙。飾ったところがなく気さくで力強い。言い方は悪いが、香具師に通じるものがある。ガマの油売りもびっくりである。
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そして、ひとつの特徴は「呪物崇拝」。
これは、特別なものであり、秘伝・非公開である。これを拝することで救われるというところにある。その代表が、この「お肉牙」と「板曼荼羅」。
戸田自身がそれを信じていたのかどうかはわからない。しかし、こうして宣伝していた。そうして、信徒は容易に信じやすい。まあそれらが、創価学会のエネルギー源となった。
まあ、人は「鰯の頭」でも、救われると言われたら信じやすい。それが人類の歴史で、鰯から三位一体の神性から、阿弥陀さんからアッラーから、いろいろと対象は変わるけれど。
かくも、人は信じやすい。非合理で非科学的なものであっても。いや、それ故に。
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友人が戸田城聖全集の全巻を送ってくれたので、ぱらぱらと読んでいる。そこに、こういう講演があった。
なんと、日蓮の歯茎がいまも生きていて、「このお肉は、しだいにふえて、歯を包んでいる」という。「孫子の代まで語り草に、広宣流布のしるしですから、御肉牙を拝観しなさいよ。」とも言う。
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御本山には、御肉牙という秘宝がある。これは前代未聞の秘宝です。
身延がどんなことを言おうと、立正佼成会がホラをふこうとも、この御肉牙だけは、どこを捜そうともない。身延の連中は、どこかに御肉牙はあると言っているが、あったとしても、この本物の御肉牙は、お山だけにしかない。
御肉牙というのは、日蓮大聖人様のお歯である。どこにでもあると思うが、あったとしても枯れてしまった歯だけである。ところが、いろいろの古文書により、あるいはまた古老の話を聞いて、詳細はまたの機会にし、かんたんに申し上げると、ある時、日目上人が大聖人様のおかたわらにいられると、
大聖人様のお歯がグラグラしておられ、その歯をとり、それを日目上人に差し出された。日目様は、これを衣の袖で受け取りあそばされた。そして、これには、下のところに肉がついていた。この肉がぜんぶ、広宣流布の時には、歯を包まれるだろうと予言あそばされている。
これは文書にない。言い伝えによるので、いずれ詳しく発表されると思うが、私のうかがっているところでは、年々肉が太って増えていく。これは医学上説明のできないことだと思う。見ないものはウソだと言う。悪口を言うものは、それがウソでないとするならば、日興上人は残酷な人だと言う。それは、仏立宗の発行する『日蓮正宗早分かり問答集』にある。『なんと日興上人は残酷な人である。大聖人様が死ぬという時に、歯を抜いてしまった』と書いてある。話したのなら間違いだといえるが、ちゃんと印刷してある。知らないものほど、こわいものはない。これが仏立宗という邪宗だ。
このお肉は、しだいにふえて、歯を包んでいる。私が最初に拝んだ時は六百五十年遠忌の時であります。その時には、このくらい、マッチ棒の先ぐらい、お歯が出ていたが、他の部分はほとんど包んでいた。次の機会には私は行かれず、先代の牧口先生が行かれたが『まだ包まっていないが、上のほうにイボのようなものが出ていたよ』と言われた。
ところが、七百年祭の時、拝んだが、歯はすっかり包まっていたのです。ただ、裏のほうの歯が見えていた。うらはまだ包まれていなかった。今度はどうなったかわかりませんが、これがですね、ガラスのなかに入れてあり、それを金でつくった宝塔の中に入れ、それをまた箱の中に入れ、それを、もう一つの箱の中に入れ、長びつの中に入れてある。なにも御飯などあげるわけではないのですが……。たしかに生きている。まことに不思議である。
明治の初め、西郷隆盛の弟、西郷従道が文部大臣かなにかになった時、この御肉牙をもってこいと命じられた。しかし、これは、ご本山ではそんなことはできない。広宣流布の時の現証であり、秘宝である御肉牙を持ち出すわけにはいかない。文部省の人がきて、ふたりで手にとって見たが、なんともいいようのないものだったが、帰ったら四十度の熱を出して、うなったそうだ。
これは世界のどこにもない不思議なものである。妙である。この実態を見たならば、広宣流布は間違いない。明らかである。広宣流布されてしまえば、消えてしまうもので、いまこそ拝む時期である。将来のために、記録もはっきりとっておきたい。まあ人数の制限もあろうが、奉安殿に、コの字の形式にずらりと並び、そうとう範囲で見えると思う。そうすると、なかなか歩かないのですよ。だまっていれば、何分でも動かない。
あとが続かない。仮に、それを一日十時間、以前は一日最高三時間でしたが、拝ませていただくとして、一万人が登ったとしても、一万人も汽車では運べぬから、歩いていって拝むとしてもです。一時間に一千人、一分間にはそれを六十で割ると、三十何人が回っていかねばならない。そうでもして、数多くの方に拝んでもらいたいと、こう思います。
さきほどの猊下への御報恩と、御肉牙の拝観だけは、四月までに、ぜひやりたいと思う。孫子の代まで語り草に、広宣流布のしるしですから、御肉牙を拝観しなさいよ。」
(昭和31年1月31日、本部幹部会にて、豊島公会堂。『戸田城聖先生講演集下』収録。創価学会、昭和35年刊)